諸行無常の始源

仏教とは何かと問われた時に、日本人なら諸行無常の言葉がまず思い浮かぶだろう。平家物語は祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きありから始まる。沙羅双樹の花のいろ、盛者必衰の理を表すと続くが、この句を知らない日本人はまず居ない。
方丈記や徒然草から奥の細道まで、諸行無常の教えに基づいたとされる文学作品は多い。さらに意識的に仏教を勉強しようとする人は、教科書でまず三法印なる言葉を学ぶ。そこには諸行無常、諸法無我、涅槃寂静とあって、仏教の要諦がまとめられている。最初に目に入るのが諸行無常で、だから諸行無常が仏教の始まり、根幹、背骨だと認識する。教科書製作者もまた同じように理解している。だから日本の仏教は諸行無常の教えだと言ってよい。私も例外ではなかった。
日本の仏教はと書いたが、では他国では別の教えを仏教としているのだろうか。戒律や儀式や読誦暗誦などが仏教とされている地域もあるようである。インドでは討論対論が盛んに行われ、仏教は真理探究の対象であった。では開祖釈尊の仏教、仏説は諸行無常だろうか。違うというのが現在の仮説だが、この件は稿を改めて書く。
日本人全体に信じられている諸行無常が仏教という観念がどこからきたかという疑問だが、読む本がすでに諸行無常ばかりなんだし、何万冊読んだってわかりようがない。疑問に思う方がおかしいのかもしれない。掴み所のない問題を何年も抱えた。
先日、永嘉大師作の’証道歌’を読む機会があった。これは長い漢詩で素晴らしい韻を踏みながら深い仏教の意味を伝えている。その中に、’諸行は無常にして一切空なり、即ち是れ如来の大円覚’とあった。つまり支那禅は諸行無常と一切空を如来の大円覚、仏教の根本的教えと結論づけていた。
永嘉大師は大艦慧能六祖と会っている。一泊だけしたとあるが、その時代の人である。支那禅の思想的基礎が成立し、証道歌もテキストの一つとして人口に膾炙した。仏教を輸入した日本人は支那禅の結論、如来の大円覚を仏教、仏説として受け入れた。それは諸行無常と一切空であったが、空は途方もなく難しい、諸行無常が多くの人に素直に受け入れられた。是れが日本人のほぼ全員が諸行無常を仏教と考え続けてきた構図であろう。

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