映画時評(7)

映画時評(7)        05/06/2011

マッカーサーは日本で占領政策を推し進めた。東京裁判を開き、朝鮮動乱を戦うあいだに解任された。昭和天皇は何度も表敬訪問されたが答礼はなかった。六年居たが日本文化には無関心だった。陸軍大学を首席で卒業し、父の跡を継ぐ形でフィリピンで軍政を敷いた。母親は教育ママのハシリだった。自分が崇拝者だったのは時代の空気を吸い込んでいたからだ。
母親が教育熱心だったことが美談だった。受験勉強させるために母も近くに引っ越したとか、不祥事が起きると校長や関係者に嘆願書を書いたとかだった。宣伝工作用の物語でもあったようで、ほうぼうで読んだ記憶がある。ワシントンの桜の木伝説みたいな感じ。物語は特定の人を親しい善人と思えるように仕向ける効用がある。
しかし軍人は戦場で戦わなくてはならない、死んだり大怪我したりする確率は低くないだろう。そんな職業に息子をつけようと奔走するのは異常ではないか。というよりも母親は軍人から出世して軍政家になるコースを狙ったのだろうか。古より有名な軍人政治家は多い。アレクサンダー大王然り、ジュリアス シーザー然り、ナポレオン然り。皮肉なことにマッカーサーの部下だったアイゼンハワーは実戦を重ねるごとに階級を上げ、戦後はアメリカ大統領に就任した。
マッカーサーは日米開戦直後のフィリピンで本間雅晴中将に追い詰められ、部下の兵士を捨てて潜水艦でオーストラリアへ逃げた。敵前逃亡は軍人には許されない。マッカーサーは特別に一族、学閥、政治的人脈を利用して逃げることができたと思われる。しかし輝かしい経歴に傷がついた。
大戦後本間雅晴中将はマニラで開かれた裁判で捕虜虐待とバターン死の行進の罪で死刑になった。山下奉文大将も死刑にされた。個人的な怨念が復讐劇の原因であると指摘する人は多い。
日露戦争の最中、乃木大将の敗者に対する礼儀をわきまえた寛大な態度が世界中で賞賛された。乃木希典大将は二人の息子を失い、要塞攻撃で万単位の犠牲者を出した。それでも勝敗は時の運として停戦後は未来志向に徹した。利己的な復讐心や怨念は伺われなかった。武士道の美徳が見られる。明治の軍人には日本精神の人間観、世界観が体現されていた。
マッカーサーは占領軍総司令官として六年間東京に居座った。当時の状況を再構成すると、日本はよく生き延びたとため息が出る。彼が日本をフィリピンのようにしようとしたことは明らかだ。共産党や三国人に勝手放題やらせた。警察官はピストル携行を禁止された。治安維持は難しく犯罪捜査はたびたび邪魔された。昭和天皇の御巡幸は無防備のまま放って置かれ、成功しそうになると中止させられた。そこまで嫌がらせするかとドン引きする。傷痍軍人は何万人も居たが占領軍は何もせず政府は助けることができなかった。公職追放は二十万人といわれ、本人だけでなく家族は収入が断たれて困窮した。放送や出版物の検閲、言論統制から数千冊の焚書までした。
このように戦後マッカーサーが日本で行ったことは数多いが、ことごとく国際法違反であった。憲法制定も皇族の臣籍降下も東京裁判も犯罪行為だ。その一方で占領軍駐留経費は全額日本政府が支払った。それは国家予算の三分の一に達した。

日本は天皇がまず在ってしかるのちに国家が形成された。天皇が存在しなければ日本は日本で無くなる。この真実だけは日本人なら知る義務がある。
日本人は家族の一員として生まれ、天皇の御代を生き、国家と社会に貢献して死にゆく。この自覚があって国民は道を過たずに生きることができる。この道理は古事記が書かれた時代には明らかにされていた。日本人がなんとなく頭が良いように見えるのは、天皇をいただく国家観、人生観が個々人にまで浸透しているからだ。
対照的に、ルソーは自然に帰れと叫んだ。人は犬のように生まれ犬のように死ぬといった。鹿やウサギが裸で生まれ裸で死んでいくのをモデルとして、個々人も同じようにすればよいと主張した。家族など眼中にない思想だったが、西洋個人主義と称され革命思想ともてはやされた。マルクス唯物論者がソ連で七十年間試したルソーの個人主義は、ロシアが立ち直れないほどのダメージを与えただけだった。
ポツダム宣言受諾の際の最大の問題点は天皇存続の可否だった。天皇の廃止は日本の滅亡を意味する。それぞれの個人も家族も天皇が存在すればこそ可能だ。日本が特攻隊まで繰り出して戦ったのは、天皇のためであり、国家のためであり、家族のためであり、自分のためだった。日本人が生か死かの瀬戸際まで追い詰められたのが大東亜戦争、第二次世界大戦だった。
昭和天皇は天皇の地位に留まられたのだが、それは薄氷を踏む戦いの結果だった。ソ連だけでなく天皇処刑を主張した連合国は複数いた。天皇制反対や天皇侮蔑が時折報道されるが、その淵源は第二次世界大戦の直後に遡る。他国に干渉しようとする国はあとを絶たない。

映画時評(6)

映画時評(6)        05/06/2011

信念とか信仰と言われるものは思想や人生を大きく左右する。思い込みと一括されるこれら心の形は幼児からの経験を通して自然に形成されると思われている。各個人も自分が考える、信じるという心理を通して当然とみなすことが多い。異なる信念の持ち主が討論する、反目する、喧嘩する。
信念、信仰というから崇高な心象と感じられるが、じつは知識の一種だとわかることがある。信念信仰は破壊されざる核心だが、知識なら増減、変形は常に行われ、柔軟極まりない。その知識が人為的に与えられたもの、あるいは強制されたものなら洗脳と言われる。そして信念も信仰も洗脳の産物である可能性がある。
歴史観や思想は思考体系だが、すべてを説明しているように聞こえるために瑕疵のない真理と受け取られることが多い。ギリシャ哲学とかドイツ思想と言われると明白な真理と思う傾向が強い。アメリカでは自由が自明の真理とされる。日本では初詣に行くが、年頭の行事に疑問を挟む日本人は少ないだろう。
ところが人造の思想体系を刷り込まれることがある。第二次大戦後のアメリカ占領軍は公然と大がかりな洗脳工作を行った。事実とは異なる認識を強制した。つねにアメリカは善、日本は悪と言い続けた。反論は許されず、反証は無視された。大戦後、日本人と日本社会はアメリカの総力を挙げた洗脳によって変質したように見受けられる。
主に新聞、ラジオ、書籍を通した洗脳工作だったが、社会全体だけでなく個人的にも大きな影響を受けた。洗脳は事実の歪曲から始まる。学校で習うことが歪曲された偏見であるとしたら、新聞やテレビが偏見ばかり報道するとしたら、個人はどうすればいいのか。真理が分かるまで不快な偏見と戦い続けるしかない。洗脳からいかに脱出するかが自分の人生航路になってしまった。
例えばバターン死の行進と言われる事件があった。フィリピンで多くの犠牲者を出したとされ本間雅晴氏が捕虜虐待の罪に問われた。裁判で有罪、死刑にまでなったのだから悪事があったのだろうと受け取る。
ところが文藝春秋に、若い女性が実際に同じコースを歩いた記事が載った。二、三日かけて歩いた報告だった。コースは女性が楽に歩ける距離だった、歩くのが捕虜虐待になるだろうか。ただの紀行文が戦後の常識に疑問を呈した。戦後の常識とは洗脳された後の見方である。
するとアメリカ人から死の行進はあったと強硬な反論があった。事の顛末はつまびらかにしないが、文春は譲歩し、女性は言論活動の表舞台から消えた。ただの事実、ただの疑問が誰かの都合で恣意的に抹殺された。
敗戦後の日本は目に見えない圧迫を受け続けている。明治維新以来の西洋文明の侵略が続いているとした方が正しいかもしれない。最近の知見では種子島の鉄砲伝来、フランシスコ ザビエルの来日以来、日本は西洋文明に侵略され続けているとされる。何に対して侵略行為が行われているのか、数世紀のスパンで? 何が守るべき日本か、何が日本人かと常に問われている。
戦争の狂気が冷却したと感じられる2010年の正論5月号で、牧野弘道氏が改めてバターン死の行進について書かれた。死の行進と言われるほどの虐待事件、国際法違反はなかったそうである。文字通り行進であって、敵味方とも普通に歩いた。地獄図絵が繰り広げられたことはなかった。かえって一つの大事件が完全なでっち上げであった可能性がある。事実、真実、信仰、信念、思想、偏見、宣伝、洗脳。人はいかにして真実を知り得るか。
牧野弘道氏の文章を読んで思い出したのは、アメリカに渡って一、二年、マッカーサーは偉大な統治者だったと会う人ごとに感謝の言葉を言って回ったことだった。日本がよく収まっているのは戦後の占領政策が良かったことによる。その中心人物はマッカーサー元帥だと思っていた。アメリカ人の本場で偉大なアメリカ人について語るのは当然のことだと思った。
ところがマッカーサー元帥を好意的に評価する人は皆無だった。あんな自己中心主義者はいないとか、部下として戦った父はマッカーサーが大嫌いだったとか、散々な反応ばかりだった。忘れられたというよりも、嫌われている感じだった。自由を標榜する個人主義のアメリカでほぼ全員の見方が一致しているのは異常だ。それも好きではなく嫌いだという。
マッカーサーとはいかなる人物だったのか。初期の自分のマッカーサー礼賛はマッカーサーの洗脳だったようだ。日本とマッカーサー、アメリカとマッカーサー、人と国家との関係、わからないことはあまりにも多い。マッカーサーの人物像や戦後占領政策の是非はまだ白日のもとに晒されていない。
現在進行形でひそかにマッカーサー占領政策とのせめぎ合いが続いている事例もある。一定数の人々は気づいているのだが、大多数は無知、少知で気づかない。現在さえ乗り切れば良いと諦めている人がいる。勇気がないため沈黙する人もいる。
名のある人も無名な平凡人も何が日本の根本か、何が自分の拠り所か判断しかねている。それは日本人が自分自身を知らないからだ。自分を知らなければいつ何をするべきか、どこへ行くべきか本当はわからない。

映画時評(5)

映画時評(5)          05/06/2011

今村昌平はなぜ巨匠と称せられるようになったのだろうか。サヨクだったからではないか。誰が巨匠と言い始めたのか。サヨク仲間だろう。サヨクは自由と言いながら組合活動に精出す、平等と言いながらアジア、特に日本を貶め西洋北欧を持ち上げる。
サヨクは、自由なら文字通り自らに由るべきなのに、他人に寄り添う集団行動ばかりしていた。思想と行動が逆じゃないか。原理的にこの世に平等なんてあるのか。犬や猫が一匹ずつ違うように松や杉も一本として同じ物はない。同じコップでもどこか少しずつ違う。分子原子レベルでも素粒子が常に動き回っているので同じ物は一つもない。サヨクが云う平等って何だろうか。厳密な思考ができないだけではないか。
サヨクの思想的背景は唯物論と言われる。本のない家は唯物論者には好まれるだろう。唯物論者が引き起こしたサヨク革命は世界史の中で大事件とされる。フランス革命、ロシア革命、中華人民共和国の成立とくれば、世界史的規模の大事件である。そして毛沢東語録とか社会主義、共産主義の思想的な著作が無数に出版された。日本もその影響下で、すべての経済学の講座がマルクス経済学という大学まで現れた。
社会党や共産党は特定の外国思想や外国勢力にひれ伏す政治勢力だ。朝鮮動乱が勃発した時には日本政府転覆の指令がソ連から出され、各地で武装蜂起があった。その顛末を京大教授が小説に書いていたのを読んだことがある。日本も危なかった。戦争の生き残りが内乱を本能的に抑え込んだ。北朝鮮による日本人拉致事件はおおっぴらな日本転覆ができなかったので隠れて起こした工作だ。事件の全貌が白日の下に晒されない限り日本の戦後は終わらない。
とはいえ日本人が唯物論者になり切れないのは、「楢山節考」の中の俳優がむき出しの暴力や無制限の貪欲を演じきれないところからもわかる。誰でも深い教養が身についてしまっている。日本人は原始的な抑制されざる五欲を知らない。知らないことはいくら唯物思想の信奉者でも表現できない。楢山節考に出てくる日本人は日本に存在したことはない。
日本人が本能的な欲望や争闘のほかに精神性を持ち始めたのは、文献からは聖徳太子の十七条憲法からである。しかし考古学の発展によって、縄文時代もまた高度な文明が保たれていた事実が示されるようになった。縄文土器そのものが縄文人の心の表現だとされる。まず土器の表面を綺麗に飾る心がある。そこから火炎土器のような芸術品まで生まれた。漆を使う工夫、栗を栽培する知識、何千年も続く集落生活。文字はなくとも豊かな生活を送ったらしいと言われ始めた。縄文人はすでに野蛮人、原始人ではなかった。
文字の国中国では四千年前から漢字が使われている。翻って日本は七世紀以降に漢字を使うようになったと教科書に書かれる。これではなんとなく中国が先進国で後進国の野蛮な日本が文明の恩恵に遅れて浴したように感じられる。
実際は漢字の力は大したことなかったのではないか。漢王朝を創始した劉邦は文盲だった。戦は負け続け、妻子を置いて逃げる物語が残る。ただ人を惹きつける本能的な魅力はあったようで、垓下の戦いで項羽を倒して天下を取った。破天荒な性格、逸話の多さ、建国物語は嫌いではないが、字は読めなかった。それでも皇帝になれた。書物は家来に読ませて済む話だった。庶民に至るまで文字を目にするほど漢字自体が普及していたかどうかも怪しい。
聖徳太子以前の日本人は仁徳陵の造成などの大土木事業を完成したり朝鮮半島遠征をするような知性を有していた。隣国で漢字が使われている情報は得ていた。しかし本場の支那で漢字を知らなくても皇帝になれる現実を知った。文字の力は万能ではない。大和の民はまともな判断力を持っていた。
そして仏教経典の摂取が始まる。仏教は超高度な精神文化である。インド人は知識を数えたり心の解剖をすることができる。好奇心旺盛な日本人は難解な仏典を理解しようとした。主な仏典は漢訳されている。理解するには漢字に通暁する必要がある。国家をあげて漢字習得の事業が始まった。国分寺が建てられ、写経百万巻が大仏建立の際に収められた。国家的規模で精神と文化の大改造が行われた。
もっと大切なことには、漢字使用が国是になった時は、すでに日本語の文法と発音は確立されていた。返り点は日本語の文法による。禅はずっとゼンと発音される。和歌や歌謡は国の隅々にまで行き渡っていた。万葉集に採録されたのはそのような和歌、長歌、歌謡である。なぜ文字文化に先行して文法が確立されたかは今に至るも解明されていない。
唯物論者が想像するような家畜動物の集まりのような日本人はいなかった。実際はマルクス唯物論の方が高級な精神文化だとする証拠はない。唯物論を精神文化というのは矛盾している。数が多いとか、力が強くて多くの殺人ができるとか、宣伝がうまいという理由で優れた思想と思わされているだけだろう。
唯物論者でも文字や記号は見える。しかし発音や文法は見えないだろう。物以外は否定し無視するから、唯物論者そのものが動物や家畜に近くなっていく。その意味では楢山節考は唯物論者の現存在暴露だったと云って的外れではない。
皮肉なものである。文字を持たない野蛮な国であったはずの日本は最高度に難解な精神文化に挑戦する意志と能力を備えていた。そして見事に仏教を薬篭中のものとした。唯物史観で歴史の最先端に立っているはずのマルクス主義者には偏見はあっても精神はなかった。今井昭氏が求むべき理想がないと書いたのは正直な自分表明だったのかもしれない。
以上のような思いは、2009年九月に ボリウッド映画 MUJHSE DOSTI KAROGE! に出会ってから確信に変わった。この映画の前では、楢山節考はあまりにも情けなく、浅薄で、卑しく、醜すぎる。作らない方が良かった。

映画時評(4)

映画時評(4)         05/06/2011

駒澤大学の大学院生が訪ねてきたことがあった。禅や仏教についてよく知っている人は日本でも少ない。外国で仏法をともに語るなど奇跡のような出来事だ。世間話のついで「カトリックの神父さんも大変だよな、会ったこともない神様の話をしなければならないのだから。」と口が滑った。
「曹洞宗の坊主だって悟ってもいないのに。」と反応があったのだが、その学生はすぐ黙り込んでしまった。悟りについて議論できるぞと待ちかまえたのに、会話が続かなかった。なぜ悟りとはなんであるか滔々と喋らないんだよ、そのために勉強しているんだろ、あなたと議論できなかったら誰と話せるんだと口惜しかった。
なぜ引きこもるんだろう、それも曲がりくねった方向で。彼は自分が悟っていないとは言わない。坐禅が得道の正門とは道元禅師以来の宗旨で疑問の余地はない。だから悟不悟に関わらず、坐禅してなんとか悟ろうとするのはストレートな求道心の表現だ。ところが身近な曹洞宗呂を非難して自分は関係ないという顔をする。不思議だった。
このような心理の謎が解けたのは「閉ざされた言語空間」江藤淳、を読んだ時だった。人は生きるためには自分は正しいと思って行動する。他者を非難することは同時に自分を肯定することになる。いわゆる善人義人になる。
ところがマッカーサー占領軍は本当の悪役や外国勢力をマスコミが取り上げることを禁止した。すると、何か悪い事件が起こると、日本の何かを非難するしかできなくなる。戦争責任があると言って親や父祖を非難する。過去ばかりか現存の日本政府を批判する。日本列島の中で日本人同士で喧嘩し続けるように仕向けられた。その経過が江藤淳の本に書かれている。くだんの学生も、曹洞宗呂でありながら曹洞宗徒を貶める罠に陥っていた。その時はまだ該書を読んでいなかった、残念だ。
日本は戦争責任を果たしていない、ドイツに比べたら賠償も誠意をもってしていないと説教されたことがなんどかある。また朝日新聞の受け売りかと辟易しながら、戦争責任とはなんですかと反論した。じつはサンフランシスコ講和条約を結ぶことが戦争責任を果たしたことで、その時賠償金もすべて精算された。スイスにもイタリアにも金を払った。
ロシアとは変則的な状況が続いているが、講和条約を結んでいないからだ。ドイツはヒットラーが自殺して政府がなくなったから条約を結ぶ責任者がいなかった。ドイツの方が異常なのだ。
南京事件がいつも問題にされるが、手っ取り早いのは東京裁判を行なったアメリカに事件に関する情報公開を請求することだ。いまだに情報開示しないのは、伝聞証拠だけで有罪判決を下したとは認められないからだろう。なぜならアメリカは正義の国、正義の民だからだ。(2019年に南京大虐殺があったと主張するマスコミは世界中にまずないと思われる。理由はいつか書くことになるだろう。)
米西戦争はアメリカの陰謀だったと1990年代にアメリカが認めた。事件から100年後のことだ。今更スペインは手も足も出せない。一方、過去の間違いを認めるアメリカはやはり正義の国だと自己正当化した。
ヒットラーのユダヤ人迫害がなぜ起こったか、原因はあらゆる方面から研究されていると思う。一つには、聖書にユダヤ人がイエスを殺したと読める箇所があるからだ。イエスの敵はキリスト教徒の敵になる。
しかしこれはおかしなことが多い。イエスはユダヤ人であってキリスト教徒ではなかった。ユダヤ人同士の内輪揉め事件だった。したがって聖書の中ではキリスト教徒はどこから見ても潔白だ。ローマ国内における死刑は皇帝の裁可が必要なのにその記録がない。総督のピラトが決定したとされている。ローマ法の国でありうることだろうか。そもそもイエスは実在したかどうかはっきりしないという人もいる。にもかかわらず悪いイメージが増幅された。そして悲劇が起こった。
楢山節考にしても南京事件にしても自虐史観にしても、もともとはでっち上げである。悪いイメージばかりが作り出されてきた。懸命に身近な同胞の中に罪をえぐり出そうとする情熱は、その多くは占領軍にそそのかされた心理による。妄想としか言いようがない。占領軍の洗脳によって一定方向に妄想が起こさせられた。
渡部昇一氏らをはじめとする少なからぬ先達は、日本人を洗脳から覚醒しようと啓蒙されたのであるが。