仏教は仏の教えであるが、何が教えであるかわかりにくい。漢字でびっしり書かれた仏典だけでも一万巻を優に越える。北伝南伝仏教があり、小乗仏教と大乗仏教があり、経文に依拠した法相宗や法華宗から不立文字以心伝心を唱える禅宗まである。一切空や本来無一物を標榜するものあり、同時に三世実有法体恒有や因縁業果が語られる。
あらゆる事柄があらゆる方面から語られるので、仏教者とは議論しても結論がうやむやになることが多い。長年学問した人でも、というより学問した人ほどうまくはぐらかされる。他人や他事を論評するには都合が良いが、結論が出なければなにが仏説か決まらない。本当の仏説が解らなければ参学者の見方と生き方は決まらないのではないか。自分の生き方を仏の教えから見出そうと思っている人にとっては何が仏説かということは切実な問題なのに。
私自身は戦後の団塊世代に属し、人生観と世界観が崩壊した日本で生長した。周りは左翼教師、サヨク思想ばかりだった。それらが信頼するに足りないのはわかった。しかし確かな人生観世界観も見出せなかった。どこで何を探したらいいか見当がつかなかった。失望、焦燥の日々を送った。是非善悪の基準は混乱するばかり。貧が良いか冨が良いか、伝統保守が是か進歩改革が是か。
釈尊、聖徳太子、道元禅師などの令名だけは聞いていたので、数千年の歴史がある仏教なら確かな人生観と世界観を得るよすがになるのではないかと予想した。それでも薬師寺の管長が新興仏教を批判していて、何が新興仏教かというと鎌倉仏教だという。鎌倉仏教は怪しい宗教ではないと学校で習ったが、仏教実践家の間では定説では無いようだ。前途多難かも、しかし同時に挑戦のし甲斐があると解釈した。
仏教の現状は第二次大戦直後と変わらないだろう。何が真で何が偽か明確でない。だから仏教に基づいた人生観を持ちたいと志す人も途中で挫折することが多いと思う。私は幸いに、学問するほど修行するほど仏教から確かな報果を得てきた。仏教は訳の分からぬ詭弁ではなく、世界と人生を貫く真理の法だと確信することができた。以下に体験的仏教論を記そうと思う。形而上的抽象戯論で誤魔化すことなく、個人特殊な経験に偏らない表現を目指したい。