仏教の結論と始源 D

仏説は四聖諦に始まり四聖諦に極まる。世界規模で様々な仏の教えや仏教思想が語られるが、混乱してきたら出発点の四聖諦に立ち返って考え直すことだ。大事だと思われる点をここに触れておきたい。
仏教の母胎は民族宗教のヒンズー教だが、彼らは何をしていたのか。何十世紀にもわたって真理とは何かを追求した。特徴的なのは、知恵とは何かと正面切って研究した世界唯一の文明であること。ボリウッド映画では完璧な事件展開を完璧な仕草で俳優が演じる。若い俳優が完璧な演技ができる、論理の正邪善悪が顔の筋肉の動き方にまで一致している。論理が血肉化している。
ガンジス河のほとりで論理の民が長年議論した。正義、邪悪、幸福、運命、誇り、成功、敗北、世界や宇宙、自己とは何か。無限の時間が語られ無限の空間が俎上に登った。しかし真偽の結論が出ない。ちなみに釈尊の二人の師匠は、それぞれ’無所有処定’、’非想非非想処定’を提唱、瞑想、実践していた。所有欲があるから争いが起こる、妄想する余地も無い深い非想が最終境とは今でも通用する考え方だ。
釈尊は尼連禅河で溺れそうになるまで断食した後、村の娘に供されたミルクで命拾いした。まもなく菩提樹下で悟られたのだが、それは何十世紀ものヒンズー教徒の議論に対する解答だった。仏教はヒンズー教徒の知の探求に最終的な解答を見出すところから出発した。これが表題の’仏教の結論と始源’の意味である。
ヒンズー教徒が論じてきたのは抽象的な概念、世界観、戯論だった。釈尊は具体的な自己の身心の苦悩を克服する方法を問題にされた。末法思想がなぜ語られるか、開祖宗教なら信者に未来への希望を持たせようとするはずなのに。何十世紀もの抽象的な議論は釈尊の血がかよう悟りで終止符が打たれ、レベルが違う高みに登られた。しかし人間の癖として、後世抽象的な戯論が学問の進歩とかの名目で流行ることは予想できた。人は議論に夢中になり優劣にこだわりそして仏法が澆薄になる。
因縁を展開して業感縁起論や阿頼耶識縁起論ができている。複雑な時間論宇宙論になっている。涅槃とは悟りの内容が問題だから仏心論や本覚論が延々と議論されてきている。それってヒンズー教徒が釈尊以前に何十世紀に渡って議論してきたこととどこが違うのだろうか。しかも議論が続くということは結論がないということ、やはり初転法輪以前ではないかと問題提起されるレベルではないだろうか。
我々はなぜか戯論に走る癖があるようである。真理の普遍妥当性を盲信する部分がある。それで十二因縁から因縁を抽出し、さらに因縁の法則を森羅万象に当てはめようとする。その結果永遠無限の宇宙論を展開するに至る。涅槃寂静は仏心の問題で、やはり膨大な教論ができた。空無の思想も忘れてはならない。現代社会においては空無の思想が猛威を振るっている。
この辺りに釈尊の教えの秘密がありそうである。四聖諦は四つのバラバラな法則原理の寄せ集めではなく、十二因縁も涅槃寂静も、八正道も一切苦でさえ血が流れ老死に怯えるゴータマ シッダルタの生身を除外して考えることはできない。原理法則を抽出すればどこにも応用できるとするのが本質論だ。しかし本質論では測りきれない深さが仏説には秘められている。四聖諦に帰って参学すれば正法の身心を得、正法の世に近づく。

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