日本語の起源 09/28/2006
21世紀に代わったころのある日のこと、浄土真宗の集まりがあるので行ってみようということになった。会場では三世、四世の日系人が大半だった。いずれもパリッとした身なりをしていて、中流階級者の雰囲気が漂っていた。法話のあとはそれぞれ好きな話題に花が咲いた。彼らは日本が好きだった。日本は素晴らしい、どこへ行っても綺麗だし清潔だ、料理は美味しい、一度行ったらはまり込んでしまった、毎年旅行している、今度は高野山に行く予定だ、という調子だった。
アメリカ人は好き嫌いをまっすぐ表現する傾向が強いが、好き、好き、好きと連発されると面映ゆい。暗い部分や悪いこともあるよと応じた。日本は出口のない真っ暗闇の中にいるのか、それとも彼らが慕うような極楽なのか。その頃は高級新聞たる朝日新聞を購読していた。熱読精読したせいで、自虐史観に絡め取られていたのだろう、日本悪しと洗脳されていた
そのうち「これから Pigeon Englishで話そう」と言い出した人があり、数人がペラペラと早口で話し始めた。多くはハワイ出身だった。ハワイで英語の方言が話されているのは知っていたが、聞いたのは初めてだった。意味はわからないけれど耳障りではない。なんでもいいから声を出して響きを楽しんでいるように見えた。漫才の掛け合いみたいに、会話自体が楽しく、話すことにのめり込んでいた。
Pigeon Englishは英語の方言で、カリブ海でも話されているけれど、一番知られているのはハワイだ。ハワイではポルトガル語、フィリピン語、中国語、日本語が混ざり合っている。英語を基本にしながら、語順や単語が異なる。いかに通じ合っているかは想像の域を超えるが、意思疎通に問題はないらしい。訂正したり聞き返したりしていた人はいなかったから、会話者同士は完全にわかり合っている。中に入ってみれば全部辻褄が合っているけれど、そとから見たらチンプンカンプンな芸を見せてもらった。
英語のなかでも上下優劣美醜の意識は厳然と存在する。方言は一段下の言葉と見られていて、研究対象として取り上げる人は少ない。鳩が鳴くように聞こえるから鳩英語とされる、人の言葉ではない。しかしその浄土真宗の集まりでは中流階級の教育も教養もある人たちが、得意然として方言で会話を繰り広げていた。まるで階級意識など無縁だとでもいうように。
そばで聞いていて聞き取れない会話は日本でも何度も経験した。地方を旅して女子学生の集団と列車やバスで乗り合わすとてきめんだった。日本語を話しているはずなのに一言もわからない。彼女たちの頭と口の回転の速さに驚くばかりだった。複数のおしゃべりを同時進行させていく能力にも脱帽した。今はケータイで目にも止まらない速さで指を動かしている。同じ能力の別の形なのか。
アメリカでも女学生の集団に出くわすことがある。そんな時は騒々しいお喋りで一語も聞き取れないことを予想する。英語は方言どころか外国語なのだから、聞き取るのに難儀するのは当たり前だ。ところがたいていの場合、聞き取れることが多い。彼女たちは教科書にあるような単語を使って意味のある話をする。速さも普通で騒々しい感じではない。それは標準的な英語教育がニューヨークからカリフォルニアまで行き届いているということなのか、それとも文法に合わせるために話し方が遅くなるのか。英語は人工語だからなのか。個人的な経験なので断定することは難しいが。
日本の女学生が騒々しく賑やかだということは、脳細胞が活発に働いているということだろう。女学生のおしゃべりは、その年頃では、神経幹細胞がつぎつぎに生まれていることの反映と言える。神経細胞の創出と言葉の噴出があい俟ってエネルギーが発散する形式を日本語は持っているのではないか。
さて日本語はPigeon Englishができた要領で成立したのではないかというのが仮説である。相撲部屋のちゃんこ鍋には、食べられるもの、栄養のあるものはなんでも投げ込んで煮込むという。それが関取が満遍なく栄養摂取できる理想的な料理になる。言語の栄養摂取にも多くの知識と言葉が取り込まれた方がよいだろう。鍋を囲んで仲間意識が育まれるように、雑多な知識と言葉が煮詰まりながら交換されるあいだに、人々が共有する日本語が出来たのではないか。
ちゃんこ鍋のような言葉のイメージが湧いたのは、日本語の文法がいつまでたってもはっきりしないことがある。英独仏など外国語を参考に研究するのは100年以上になるのに、なぜか日本語の文法は確定できない。まとまった形で文法を示せないから、不完全とか遅れた言語と言われる。われわれも論理的でない、純粋でない、劣った言語ではないかと思うようになる。その先には、優秀な英語を公用語にしようと提案する人までも現れる。心理学者じゃなかったかな。また自国語を真剣に学ぶ理由も見つかりにくい。
ちゃんこ鍋言語なら、厳格な文法を備えるのが高級な言葉であるという前提が必要なくなる。規則に従って単語を並べるよりも、言葉を産み出す活力や煮詰める火力の方がより根源的ではないかということになる。いつまでも規則が定まらないのは、日本語は文法に沿って学ぶものではなく、文法を創造しながら維持発展しているからではないか。日本語に文法があるとすれば、それは脳細胞が効率よく働く方向に、不断に変えられ、創造され続けているのではないか。
日本語は表記法が漢字、かな、ローマ字と四種類もある。表意文字も表音文字もある。伝統的な数詞は二種類あるうえに、ワン、ツー、スリーを知らない人はまずいない。日常言語で三系統の数え方が抵抗なく使われている。代名詞は私、あなたの代わりが十種類はある。ひとつひとつは知らなくても表現法がたくさんあるということは誰もが知っている。
英語の表記法はアルファベットひとつ。ということは外来語はローマ字に直さないと取り入れられない。中国語の場合はかならず漢字に直さねばならない。一方式だけが使われていて例外が無いということは、純粋であり論理的だということになる。それは同時に硬直している、融通がきかないということでもある。
私を表す代名詞が「I」ひとつだということは、中学生にとっては簡単に覚えられていい。I は一つで、純粋にして絶対に間違いない論理の本だ。しかし30年、40年と変化のない I だけを使っていたら退屈にならないだろうか。また不変の I しかなければ自己分析、自己追求も難しい。日本語で自己、自我、吾れ、わたし、俺、僕と並べ、自分とは何かと追求する手順と比較すればよい。日本語には自己究明の手がかりが多く残されている。I ひとつでは分解も総合もできない。傷つきやすいから心理学の助けが必要になる。
代名詞だけでなく、文法がスッキリすると、他の面でも単純な方がよりよいと考えるようになるだろう。イエスかノーか、白か黒か、右か左かの議論が多すぎる。ファッションモデルは痩身美人ばかりで美の理想はひとつ。十あった数詞はゼロと一に単純化された。社会思想では自由だけ、または平等だけが喧伝される。推理小説やサイエンス フィクションが流行るのは、単純な分かり切った言葉しかない日常生活から脱出したい衝動の表れではないか。
ところで、手当たり次第に言葉を寄せ集めながらできたのが日本語なら、純粋でも論理的でなくてもよい。無数の要素を取り入れるから論理で筋を通すのは難しい、多くの筋が許容される。日本語が曖昧だと言われるのはごった煮の言語だから。その能力の大きさは、大乗仏教も現代科学技術も取り入れられた。日本が大乗相応の地と言われ、禅が継承され発展してきたのは理由があったと言わねばならない。
言語創造と意思疎通の方法を共有した集団があったから、外国語が侵入しても日本語は独自性を保ち得た。独立語にして混合語だから外来語を消化して包摂する能力は初めから持っていた。日本人は好奇心の塊で、魅力的な外来語を拒絶しなかった。それでも長い歴史の間に、日本語は他の言語に飲み込まれなかった。
不便な外国語に囲まれていると、母国語の、どんな言葉も思想も取り入れられる利便性、柔軟性、そして優秀性は生き残りの理由にさえなる。漢字、カタカナ、ひらがな、ローマ字の理解力の違いを知っているので、英語しか知らない人々の焦燥感もわかりやすい。柔軟な包摂力のある言語を守護し保持する限り、どんな困難も日本は乗り越えていけるのではないか。