常住の生命 1 11/17/2006
2004年九月二十四日から三日間、友人の手伝いで天麩羅を揚げた。共進会に椎茸を出品したついで、栽培しているしいたけを天ぷらにして売る計画だそうな。人手が足りないので助けてくれという。売れるものを作る自信はないものの、手伝いならいいやと引き受けた。
会場では腰の高さに深鍋が二つ、プロパンガスのコンロの上に乗っていた。鍋で大豆油を熱して天ぷらを揚げる。これではずっと立ち続けることになるかもしれないなあと不安になった。朝十時に開店するとたちまち行列ができ、夕方閉店するまでお客さんが途切れなかった。休みなし、働きづくめ、立ち通しだった。お客が多いのは賑やかで気合も入るが、過労にならないだろうか。
じつは私は左膝に恒常的な痛みを抱えていた。長年座ってばかりいたからだろう、激痛ではないが時々チクチク痛む。長時間立っていると痛みが激しくなる。天ぷら屋で何時間保つだろうか、今度こそ膝が壊れて使いものにならなくなるのじゃないか。最悪の展開が頭に浮かんできた、立つ姿勢が怖くなった。
問題は自重が膝を潰すことにある。そこで考えたのは、膝を守るために姿勢を変えていくことだった。立つ姿勢は一つではない。その頃は十種類近くの立ち方を知っていた。痛くなってきたなと感じたらすぐフォームを変えた。天ぷら揚げが立ち姿勢の練習場になった。天ぷらダンスと言ったお客がいた。不具者になるかどうかの境目だ、外目を気にする余裕はなかった。
会場はだだっ広い野原で暖房、シャワー、ベッドなし。自然生活、有機農法を売り物にしていて酒もコーヒーも禁止。トラックの床に寝ると背中が痛かった。朝は霜が降りる寒さで震え、着替えを用意してなかったから油まみれのシャツを着続けた。小雨や突風がやってくる。
友人は野外での行動に慣れている上に体力があるから何かと気をつけてくれた。テントの組み立ても一人では何時間もかかる。水、油、仮小屋、揚げ物、掃除整頓など開店には多くの仕事が必要で、それぞれ道具が違う。ガスや油が切れるとかの予期しない事故も起きる。何もなかったように揚げ物が出品されたわけだが、友人の能力は大したものだった。
日曜日午後、揚げるものがなくなって閉店した。他店の展示物を見学して回ったが、足が棒のように感じた。体の芯まで疲れ果てて、五時間運転して帰った。とにかく乗り切った。シャワーを浴びてぐっすり眠った。
九月二十七日、月曜日の朝、目がさめると文字通り布団から飛び起きた。寝る前の予想とは正反対に、微塵も疲れは覚えず、痛いところもない。完全な健康はこんなものかと思うほどのすがすがしさだった。あまりの爽快さに、そこらじゅうを駆け回りたかった。疲労困憊どころではない、はつらつ、スッキリ、いきいきだった。左膝の痛みは無くなっていた。あまりの嬉しさにやったあと叫んだ。信じられないことが起こった。これは奇跡か、偶然か、あるいは必然か。
痛みがなくなった膝を撫でながら昨日までのことを整理した。痛みがなくなったのはダンスのように体を動かしたからではないか。運動すると筋肉や血管が柔軟になるはずだ。血が勢いよく流れ熱と栄養を運んでくる。血は体の運動を続けさせ、老廃物を運び去り、傷口を治し、歪んだ部位を矯正する。汚れた海辺を洗い流す波浪のように大量の新鮮な血が無理と疲労と不快を除去したのではないか。そして循環がよくなった血は眠っている間に長年の痼疾まで癒してしまった。それは身体の自然で健全な機能だった。
その朝の経験は人生観、世界観をがらりと変えた。それまで考えていたことは、人は疲れる動物である。じっとしていても疲れ、運動しても疲れ、怪我をし、痛むところもできる。疲れも怪我も痛みも苦だ。一切皆苦とは仏教の根本である。生まれたらいつか死ぬ。吾々は死ぬために生きている。死はもちろん人生で最大最後の苦だ。いずれ死ぬのだから何をしても虚しい。誰かが言った、人間にとって一番良いことは生まれないこと、二番目に良いことはできるだけ早く死ぬことだと。人は苦から逃れられない。
死ぬために生きていると思っているのだから、何事であれ成し遂げられるとは思えなかった。何か目標を設定しようとしても真剣にはなれず、どんな目標も達成するまで生きることはないだろうとまず考える。いつ交通事故にあって死ぬかわからないのだから計画を立てる意味はない。翌日の疲労困憊が怖いから精一杯働こうと考えない。根本思想から日常生活まで支配的な気分は、しんどい、無力、苛立ちだった。始めに絶望と出口のない闇があった。それが何十年も続いた。子供の頃から運動会や農作業の後では必ず疲れと痛みを覚えた。明日の計画を立てる根拠がないこと、先の見通しが立たないことの理由は、この世と人生が苦で無常だからだ。
ひざ痛のことだが、座りすぎたから痛くなったとは思ったが、治す方法があるとは知らなかったし、そんな方法を見つけようとも思わなかった。坐禅は無為、治療は有為だ。人間の小賢しい有為は程度が低いし間違っているに違いない。正しい座りをしているのだから少々の苦痛は我慢しろ。他にも痛いところはあるが座禅していれば自然に治ると思っていた。痛みを研究して治そうとする発想はなかった。それは膝だけの問題ではなく、何事につけても進歩、工夫、鍛錬の気分はなかった。
数日後、膝痛が無くなった代わりに腰の一部が痛くなった。左身体側のバランスが崩れたか。二十七日朝の快感を思い出しながら血液循環が良くなるように足、腰、腹を動かすと、一ヶ月ほどで腰痛は消えた。確かに身体は熱と栄養を使って痛みや疲れを治す力を持っている。それらを運ぶ血の役割は想像以上に大きい。必要となればマッサージや四肢の運動で血液の循環を促すことができる。身体の可動部分は動くのが、そして動かすのが自然の理にかなっているらしい。
相撲の激しい稽古はよく知られている。大の大人が泣きながら股割りさせられたり、立てなくなると竹刀でひっぱたかれる光景が時々放映される。横綱になった人の文章には鍛えすぎて腕に注射針が通らなくなったとか、立ち上がれなくなってからが本当の稽古だと書いてある。想像もできない世界があるなとしか思えない。マラソンの選手は本番も練習も苦しいだろう、どうやって苦しみを克服するのか、ただただ感心していた。
しかしながら毎朝疲労なしで布団から飛び起きれるとなると話は違ってくる。限界以上の稽古は快感を得る過程になるかも。激しく稽古するほど爽快感が増すこともあるに違いない。反対に楽してサボると中途半端、不燃焼で不快になる、自然の法則に反する。稽古に没入するかどうかは、根性や努力ではなく自然の理に順ずるかどうかの問題だったのだ。マラソンだって明日はカモシカのように飛び跳ねると思えば練習をサボる気になる方がおかしい。歯を食いしばってひたすら苦痛に耐えているように見えるスポーツマンも、快と楽の裏付けがあるから練習できるのではないか。
激しい運動が爽快感と健康を齎らすという認識は、それまでの人生観の正反対だった。肉体の正常な状態は快感だったのだ。正しい身のこなしや理にかなった運動はをすれば疲労はないのが身と心の自然のあり方だったのだ。その先は、自然で無理のない正しい人生観は苦ではなく楽になる。これは大乗仏教だ。楽は苦しい修行をして手に入れるものだとばかり思っていたが、身体の機能と在り方がすでに楽だった。あの朝まで、自分は血が通っている身体を持っている実感を持ったことはなかった。
翌朝疲れないと分かれば明日の計画が立てられる。明日は疲れ知らずで再出発できる確信があれば今日体力の限界まで働ける。怪我や痛みや病気を自分自身の血が治してくれるということになると自らの身体を頼りにできる。大事な体を守り健康を維持するために食事や水や空気や温度に気をつけるようになる。老いも若きも同じだ。大乗の所以だ。死の瞬間まで暖かい血が自分自身を保護し生長させる。この事実は不変だ。不変の事実に則り、自分の肉体と心の存続を本にして将来の計画が立てられる。未来に見通しが持てる。これを常住、略して常という。
大乗仏教の常は、人生の根本は楽だという体験が先にあって導き出された真理だろうか。永遠不変の真理がまずあって、そこから卑近な見方や感情が派生するのが学問的な方法だとばかり思い込んでいたのだが、それは考え方の一つの癖にすぎなかったようだ。個人の快感が人生観を苦から楽に、世界の真理を無常から常住にひっくり返した。これは客観的な真理は存在しないということも意味するのだろうか。
行きつけの歯医者は歯槽膿漏の心配があるから歯茎を手術しろと脅した。歯のことはアドバイスに従う他ない。当日になると袋にいっぱい薬をくれた。痛み止めだから麻酔が切れたら服用しろという。痛み止めはどのように作用するのだろうか。サロンパスを貼るとひんやりするように、血行を妨げて体温を下げる。低温が感覚を麻痺させる。すると血による傷口の修復も妨げられるだろう。毒物を体内に入れて痛神経を麻痺させるか、それとも傷の回復を優先するか。鎮痛剤は飲まないことにした。
麻酔が切れるとさすがに痛かった。しかしよくしたもので、痛さに耐えられなくなると眠ってしまった。目が覚めたときには痛みはなかった。鎮痛剤はいらないとありのまま報告したのだが、次の回にもまたクスリをどっさりくれた。ビジネスとしては法令も訴訟もクスリ代金も考慮するのだろう。四回に分けて同じ手術をしたのだが、後になるほど痛みが少なくなった。最後の手術は麻酔が切れたことも気づかなかった。全部終わってエックス写真を撮ると、一年前に比べて骨が増量し硬くなっているという。五十代後半に骨が増えるとは。自らの血を信頼し運動を続けたせいだろうか。
吾々の身体は熱を再生産し続け血が栄養分を隅々に届ける。常住とは現実には再生産のことである。短命長命ではなく、子孫を残すかどうかの問題だ。年々歳々作物が実るのも、同じようなパターンの気候が繰り返されるのも常住だ。気合を入れて天ぷらを揚げ続けるのも肉体の再生産だ。生きとし生けるものは常住の生命を生きている。
常住と同じような意味で永遠なる言葉がある。実は永遠をズーッと意識してきた。哲学書は常住なんて言わない、永遠ばっかりだ。それはキリスト教神学とギリシャ哲学と数学がいつも永遠を使ってきたからだ。学校で勉強すれば永遠ばかりになる。常住は仏教を勉強したから習った言葉だ。永遠は抽象語で、永遠無限と言われるように、時間と空間を延長したイメージだ。抽象語は討論や論文書きには適しているが、現実の生活には当てはまりにくいとだけ言っておこう。
死んだら終わりだと人は言う。死んだ本人は何も知らない。生者が考える死もまた本当の死ではありえない。なぜなら人は死を経験していないから真の死が何かは解るわけがない。だから生きとし生けるものは熱とエネルギーを再生産し続ける常住の生命を生きている。死は思考で捉えられないのだから、生とは別次元の問題だと言った方が適切だろう。
熱とエネルギーの再生産は疲れ知らずの快感をもたらす。吾々は快感があるかどうかを基準にして身体が健康か病気か、運動が適正か誤っているか判断する。自分の快感を目安にして練習工夫すればよい。快感はさらに正しい運動を促す力を持っている。楽しいという理由だけで、褒める人もいないのに冬山に登り、ダンスをし、ゴルフに打ち込む。根性や努力がなくても、楽しいから、快いから遊び続ける。
いつまで快感を目安に生きられるのだろうか。整体術の野口晴哉氏によれば、人は九十歳になるまでは老人とは言えないという。みんな青春を生きているのだ。