常住の生命  II

常住の生命 II       01/19/07

2004年十二月八日、水曜日の夕方だった。その頃習っていた古武術の先生が何か欲しいものはないかと質問した。意味がわからなくて黙っていると、強くなりたいとか痩せたいとかの願望のことだという。
願望、欲望か。仏教では欲望は三毒の一つである。欲がないわけではないが、欲で行動するとか欲の追求は毒の増長でもあり禁じられている。公然とあれが欲しいこれが欲しいということは仏教徒としては考えられないことであった。強くなりたいとか痩せたいとかならその方法を伝授するというのだろうか。
少し考えて、それなら柔軟な体になりたいと言った。隣の女性は痩せたいというかと思いきや柔軟になりたいだった。先生はお前はそれが必要だろうなと言いながら、前傾してみろという。一番嫌いな姿勢である。身を屈めて手を下ろすと床から十センチ上で止まった。隣の女性は指が半分までつく。
先生は、両手を合わせてまっすぐ上に伸ばし、息を吐きながら静かに前屈する要領を教えてくれた。手が一番下まで伸びた時、わずかだけ腰を鉛直下方に押すのがコツだという。反動を利用して曲げるのはダメ。焦って練習しすぎると背骨を痛める恐れがあるからゆっくりするようにと注意された。模範を示してくれたが、先生は掌がぺたりである。一時間ほどの練習では成果はほとんどなかった。
私は身体が固かった。それは体質であって、風邪をひきやすいとか背が低いとかいうようなものだ。敏捷な人、動作が鈍い人、声が太いとか、陽に弱い肌とか体質の違いはいろいろある。体質は変わらないから体質だ。各人に固有の個性の一つでもある。各人が異なる体質を保有しているから他者から区別される。
身体が柔軟になるということは体質が変わるということか、あるいは個性も変わるということだろうか。してみれば体質も個性も確かな根拠のある概念ではなかったということかもしれない。それとも言葉を間違って理解していたのか。
身体を柔軟にする方法があるとはにわかには信じられなかった。強くなるのは少しわかる、キン肉マンになればよい。痩せる方法というのはどうだろう。痩身術を知っているならたちまち大金持ちになれるだろう。
金を払って得た知識である、暇を見つけて練習した。思い切り両手をあげると胸周りから汗が吹き出した。贅肉が脱落していく感じがする。前屈が痩せる運動になっているのかもしれない。練習の後は心地よい。調子がいいからせっせとやると翌日は背中が痛い。先生の注意は当たっていた。焦らないようにスロウダウンした。ひと月ほどすると両手の掌が床につくようになった。身体が柔軟になったのだった。
前屈体操は気持ち良いだけでなく、予期しない変化が現れた。腰が楽に回るようになったのだ。立っても座ってもお辞儀が深々とできるようになった。格好良いお辞儀もできるようになれる。蹴りや突きが楽にできるようになった。努力しなくても足がスッと上がる感じだ。頭が軽くなって周囲がよく見えるようになった。交通事故だって避けられるということだ。
ダンスでは腰がクルクル動く。日本ではダンスは長い間猿が尻を振っている、下品だと言われてきた。そんな常識の元で育ったので踊ったことはない。後でわかったのは、ダンスは心の態度と密接な関係があり、下品だと見下す評価をしていては踊れない。身体が動かないのだ、動いてもぎこちない。じっと身動きしないで座る文化にどっぷり浸かって生きてきたというしかない。
ところが腰がよく動くようになり、動くのが楽で快感がもたらされるということがわかると、ダンスも捨てたものではないと思うようになった。生まれて初めてダンスが身近になり、ダンスとは何かと考えた。バレエ、レゲエ、フォークダンスとかいろいろある。動を考えることは実際に踊ることの前触れになる。
静座と運動との関係も見直さざるを得なくなった。不動の坐禅はそれだけで隔絶した最高価値なのか。運動が坐禅に及ぼす影響はないのだろうか。
箏曲の演奏会に行ったことがあった。四人が演奏した。アメリカ人が尺八と琴、日本人が二人で琴を引いた。三十代の日本女性は端正に座り、立ち居振る舞いもキビキビしていて見栄えが良かった。六十代と思しき日本女性は動きが少ないし座っても映えない。乾いたアメリカの空気の中では琴らしい微妙な音色は響かない。そのぶん余計に見かけの美醜が気になった。
ふたりの外見の差を考えてみると、若い婦人は静座していてもすぐにジャンプできる潜勢力があるから美しく見えるのだと気がついた。片方の女性は背骨も曲がって見えるし跳躍など到底無理だ。ハッとする驚きの可能性がない。琴は座って演奏する楽器だが、座ればいいというものではなさそうだ。むしろ外見的に動きが少ない分、準備運動するとか走り込むとかで身体を鍛える工夫が要求されるのではないか。健康と体力が溢れている人がじっと座っているからこそ美しく見えるのではないか。
ひとつの知識を得て実践努力することで身体だけでなく自分のあり方と見方がガラリと変わった。逆に無知、無経験の闇の深さに気づいたのでもある。無明が三毒の中でも根源的と言われる所以だ。坐禅についてさえ、文字どおり坐っているだけでは一面しか理解していなかったことになるだろう。肉体も頭もはつらつと動く者が静かに坐ってこそまともな坐禅たりうる。

何事も、出来なかったことが出来るようになるのは嬉しい。いたるところで前屈の練習をした。疲れたり身体の調子が悪い時は腰がよく曲がらないこともわかった。身体の調子を測るバロメーターになる。何度も繰り返すことが出来るのは達成感だけでなく快感があるからだ。快感を目安にして生きる人生があることを知った。
それまでは哲学と論理を頼りに生きてきた。理屈っぽかった。方法論を一つしか知らないから必死で論理にしがみついた。正邪善悪の判別ばかりを果てしなく繰り返した。白熱の議論を何度したことか。ふりかえってみれば、自分の生き方は、自分なりに思想、言葉、論理と正面対決した日々だった。
だが身体が柔軟になった体験の後では、すべてが違って見えてきた。論理学に柔軟性があるだろうか。言葉は柔らかく曲がったりしないから論理の学が成立し筋を通すことが当たり前になる。哲学も思想も論理で固めないと雑学の一種で終わってしまう。言葉というレンガを論理という鉄筋コンクリートで組み上げた思想を相手にした。硬直したイメージだけを信頼し、頼りにした。
奇しくも釈尊成道の夜に得た新知識は、根本的な人生観の変化をもたらすことになった。それは剛から柔へ、静から動へ、冷から暖へ、そして多分死から生への見方の転換であった。哲学の方法論は論理だ。柔動暖の方法論はあるか。それは快感であろう。快感を手がかりにより深い楽の方向に進んでいく見通しだ。
菩薩の修行階梯の中に十地があり、その第一が歓喜地である。五十二階梯の中では四十一番目に当たる。辞書には初めて中道の智を発し自利利他して大慶ある位とある。また菩薩が多劫の修行を経て一分の断惑証理を為し大に歓喜する位ともある。
快感に基づく人生観は歓喜地に近いのではないか。菩薩の位と凡夫の感じ方を一緒にすることはできない。境涯が全く違う。しかし一切皆苦で片付けられる人生でありながら歓喜の位がある。この事実は仏教が苦悩だけを語るのではないことを示す。堅苦しい哲学や思想だけを語るなら、それは歓喜地が語られる華厳経の思想を理解していないことになる。
澤木老師は常に言われたという。「菩薩とは仏の方向に智慧もて勇猛精進する凡夫である。」と。
智慧はわかる気がした。頭が良いという意味であろう。坐禅すれば頭が良くなるだろうと見当がつく。何が良いかは決めかねるが、何かが良くなる。だから坐禅する。より良い何かを求めてせっせと坐った。一時間でも休むと損した気がした。得るべき智慧を逃したという悔恨が残った。
しかし勇猛はどこから来るのだろうか。自らの見通しに自信がなければ不安ばかりで勇猛どころの騒ぎではない。仏教は無常の教えと言われ、事実無常を学び教えた。しかし無常とは原理として見通しが立たないことである。どんな見通しを得ても無常する、雲散霧消する。ということは無常観の反対が勇猛心の本ではないか。
この辺りが、無常は小乗仏教の教えであり、大乗仏教は常を本にすると言われる所以であろう。禅は大乗仏教に基づくし、澤木老師の教えはもちろん大乗である。華厳経は大乗経典であり、だからこそ生命の本の歓喜地が説かれた。勇猛心は歓喜地ありてこそ起こる心情であろう。歓喜地に一番近い凡夫の心が快感であろう。
われわれ仏教徒は無常に洗脳されすぎているようだ。幸福、成功、達成などは、たちまち断滅し、崩壊するとばかり聞いてきた。無常、無情、無力が仏教と思い込んできた。
常に基づく快感があれば凡夫にとっては頼り甲斐がある。行動が快感をもたらすと見通しがつけば近未来の計画が立てられる。身体をほぐしたりバチさばきを練習したりしながら快感に浸る。その契機は音楽でも、スポーツでも、仕事でも坐禅でもよい。苦から楽に至る方法があることが肝要だ。正常な生命は元来快にして楽だ。
自己も他己も生命は快感を本にして活動していると分かれば、自らの修行に躊躇逡巡する必要はない。苦から快へ、快から快へ、楽から楽へ精出し前進するだけだ。それが勇猛心ではないか。勇猛心はやがて無限の世界を解明し、甚深の生命を究明しようとするだろう。
菩薩に無知少知はない。少知に発するプライドを握りしめ、ときどき小さな新知の効果で人生観がひっくり返るような凡夫とは出来が違う。しかしというべきか、だからこそというべきか、菩薩なる理想像を凡夫が人生のモデルとして参照することは有益だ。特に大乗仏教徒にとっては。

 

 

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