祖師仏 (2)

祖師仏 (2)       11.17.2007

進化論では、種は下等存在から上等存在へと変位する。マウスやハエや大腸菌を尊敬しないのは下等存在と思うからだ。弱者、愚者を崇拝する気にはならない。それ以上に人間以下の生き物は食う対象だ。胃の中で消化しながら崇拝する図は考えにくい。だから進化論者にとって進化の頂点は自分である。自分以外はばかで下等だ、見下して当然だ。先輩も師も親も先祖も古いものはすべて劣っている。昔のものは何から何まで劣等、下等、愚昧である。
進化論を勉強すれば、なぜ親や先祖を敬わねばならないのかという理由は見つからない。それどころか科学技術の日進月歩の世の中で、最先端の情報や器具を使いこなせない年長者はバカに見える。少年少女が老人殺し、親殺しに走る心理的準備はかくして出来上がる。伝統や伝承をやみくもに無視したり軽視したりするのも、自分の方がより優秀で進んでいると思っているからだ。
産経新聞9月27日に、細川元総理が父である細川護貞氏に対し、’どうだ、ざまあみろ!’と吐き捨てるような文章を寄稿しているそうである。その文章を引用している中村粲氏は、人間の退廃、内面の荒廃、品性の貧困を嘆いておられた。位人臣を極めた人の文章かと驚かざるを得ない。家柄で総理大臣になった人が、大恩ある家と親を蹴飛ばす。近代西洋思想とアメリカの占領政策のなせる業であろう。
位も力もない下々から見上げると理解の範囲を超えているが、細川氏の例は荒んだ世相にマッチしている。牽強付会だろうけど、世に溢れている進化論の類をすなおに摂取しすぎた結果の言説ではないかと思う。二代前の悲劇を(近衛文麿は祖父に当たる)身近に知っているはずなのに、勉強すればするほど間違う知識や学問があるのではないかと疑うことはなかったのだろうか。
進化論なる不完全な思想のメガネを外せばどうなるか。あらゆる生き物は、子は親から産まれ、親は子を養育する。身体も健康も多くの知識も社会の中の位置さえも親が与える。親の貢献を知って子は親に感謝する。進化論という妄想が消えれば、親は子にとって慈悲深い親であり、子は親から愛情を注がれる子だ。これが太古より変わらぬ親子関係だろう。この基本を押さえて生きれば親殺しのような思いは出てこない。事故は起きても事件は起きない。
子は親を賢いとか金持ちだからという理由で敬うのではないとは言い古された言葉である。じつは自らに無限の可能性と爽快感を体験できる生命を与えてくれたから感謝するのだ。生命のダイナミズムを体得実現することほど素晴らしいことはない。
親は子供を分け隔てなく養う。えこひいきすれば良心がうずく。これは感情論だけでなく、生命の事実から帰結される結論でもある。生物界においてはゴキブリもアリも大腸菌も何億年前と変わらないように、格ツケが不可能な点で人もみな平等だ。
個人は他と掛け替えのない無限の潜在能力を備えて産まれてくる。音楽の才能、文学のセンス、粘り強さ、あるいは勇敢さと、普遍的にして個性的な能力は誰にも十分すぎるほど与えられている。あとは各々の人生で好きなことに全力投入して大政治家、大実業家、大将軍、大文学者、大芸術家、大冒険家、大科学者、偉大なスポーツマンなどになればいい。小より大の方がいいので大としたが、小でもじつは大だ。平等でありながら千差万別の花が咲くのが人間の実相だ。
親と子という事実から出発する心の姿勢は進化論者とは異なる。親や先祖を見上げ、彼らの事績を讃仰し、真摯な努力に感謝する方向だ。無限の生命を与えられたことに感謝し、能力を精一杯開花しようとする。古人を慕い、古徳のようになることを目標にする人もいる。天照大御神の名前そのものに感謝報恩の念が託されている。神話は連綿と続いてきた生命に目覚め、その慈愛をすなおに受け入れる思想の表現であろう。具体的には初詣したり御輿を担いでお祭りするのだが。

 

(祖師仏(2)はなぜか(3)の前に投稿されていなかった。当方の勘違いによる。1、2、3と読んでいただければありがたい。)

祖師仏 (3)

 

祖師仏 (3)        11.17. 2007

子供の養育の実際は、毎日が戦場のようだという。何が起こるかわからない日々の連続で、家族が生き延びるのが奇跡だという思いだろう。家族は何のために奮闘しているのだろうか。ときどきは戦いの意味と方向性について考えてみるべきだろう。とくに団塊世代は反抗と破壊の衝動を戦後教育によって刷り込まれた。その反省の上に立って、刷り込みから脱却する原理の一つを提示したい。誤りの元がわかれば建設にも改革にも取り組やすい。
実在した釈尊の前になぜ非実在の諸仏が設定されたのか。架空の仏がなぜ礼拝の対象になるのか。過去七仏とはおとぎ話を持ち込んでいるだけではないのか。このように近代科学的な論理で追求されては、答えられる師匠方は少ないだろう。それは仏教の権威の失墜を意味する。わたしを含めて質問者は鼻高々であった。アメリカの敗戦後の教育改革の成果を満喫したのが団塊世代だった。
数十年の習学のあとで、答えを知らないでする追求や質問はただの争いごとに過ぎないと反省させられている。本当にするべきことは自己の解明、使命の発見と地道な努力だ。他者、他事に関わるのは多く時間の無駄だ。まして真理の探求とはいえ、見境なく老師や先生を問い詰めるべきでは無かった。誰も教えてくれない焦燥感はもっと大人になる方向へ向けるべきだった。
子供を納得させるために神話が編み出されたと書いたが、じつは大人だって同じだ。最初の人類はひとですよと答えられたら同語反復だ。多くの人ははぐらかされた、ごまかされた、騙されたと感じる。このような感じ方がすでに失望、軽蔑、憤怒を胚胎している。この世には直答できない深い問題があると理解するには、やはり大乗仏教を学ぶ必要があるだろう。そうでないとひとの祖先や宇宙の果てや時間の始まりのような議論をすなおに理解することは難しい。
冷静になって考えてみると、過去七仏は神話の一つではなかった。古い非実在の話はぜんぶ作り話だと思っていたのは誤解だった。過去七仏は、仏の師匠は仏ですと言っているだけだ。ひとの親はひとであり、どこまでいってもサルにはならない。ヒヨコは鶏の卵から産まれる。これは事実であって作り話でも神話でもない。同じように仏の師はどこまで遡っても仏であり、仏教徒の祖先は仏教徒である。これが普遍的な生命の事実であり、また過去仏存在の形式論理である。
実質的には、仏は永遠無限の仏法を自覚し、修行し、実現し、伝授する。無限智は無数の仏が無限の時間修行して獲得できる智慧だ。釈尊一代ですべてが解明されたと受け取るのは無理がある。無限の過去から諸仏が蓄積してきた智慧を受容されたと考えるのが自然だ。その一片しかわれわれ凡夫は理解し実践することはできないのだが、無限に学道する手がかりはつかめた。
過去仏から続く祖師がたを崇敬礼拝することは儀式化されている。祖師仏礼拝の儀式が間違いのない事実を踏まえて厳密な論理で貫かれているのは新鮮な驚きだった。行事ひとつが正見正知の産物だった。宗門では、道元禅師の完璧さには手も足も出ないことは当たり前だが、儀式を創案し継承し続けてきた祖師がたもそれぞれ深い知恵を持っておられた。
祖師仏の項 終わり