祖師仏 (3) 11.17. 2007
子供の養育の実際は、毎日が戦場のようだという。何が起こるかわからない日々の連続で、家族が生き延びるのが奇跡だという思いだろう。家族は何のために奮闘しているのだろうか。ときどきは戦いの意味と方向性について考えてみるべきだろう。とくに団塊世代は反抗と破壊の衝動を戦後教育によって刷り込まれた。その反省の上に立って、刷り込みから脱却する原理の一つを提示したい。誤りの元がわかれば建設にも改革にも取り組やすい。
実在した釈尊の前になぜ非実在の諸仏が設定されたのか。架空の仏がなぜ礼拝の対象になるのか。過去七仏とはおとぎ話を持ち込んでいるだけではないのか。このように近代科学的な論理で追求されては、答えられる師匠方は少ないだろう。それは仏教の権威の失墜を意味する。わたしを含めて質問者は鼻高々であった。アメリカの敗戦後の教育改革の成果を満喫したのが団塊世代だった。
数十年の習学のあとで、答えを知らないでする追求や質問はただの争いごとに過ぎないと反省させられている。本当にするべきことは自己の解明、使命の発見と地道な努力だ。他者、他事に関わるのは多く時間の無駄だ。まして真理の探求とはいえ、見境なく老師や先生を問い詰めるべきでは無かった。誰も教えてくれない焦燥感はもっと大人になる方向へ向けるべきだった。
子供を納得させるために神話が編み出されたと書いたが、じつは大人だって同じだ。最初の人類はひとですよと答えられたら同語反復だ。多くの人ははぐらかされた、ごまかされた、騙されたと感じる。このような感じ方がすでに失望、軽蔑、憤怒を胚胎している。この世には直答できない深い問題があると理解するには、やはり大乗仏教を学ぶ必要があるだろう。そうでないとひとの祖先や宇宙の果てや時間の始まりのような議論をすなおに理解することは難しい。
冷静になって考えてみると、過去七仏は神話の一つではなかった。古い非実在の話はぜんぶ作り話だと思っていたのは誤解だった。過去七仏は、仏の師匠は仏ですと言っているだけだ。ひとの親はひとであり、どこまでいってもサルにはならない。ヒヨコは鶏の卵から産まれる。これは事実であって作り話でも神話でもない。同じように仏の師はどこまで遡っても仏であり、仏教徒の祖先は仏教徒である。これが普遍的な生命の事実であり、また過去仏存在の形式論理である。
実質的には、仏は永遠無限の仏法を自覚し、修行し、実現し、伝授する。無限智は無数の仏が無限の時間修行して獲得できる智慧だ。釈尊一代ですべてが解明されたと受け取るのは無理がある。無限の過去から諸仏が蓄積してきた智慧を受容されたと考えるのが自然だ。その一片しかわれわれ凡夫は理解し実践することはできないのだが、無限に学道する手がかりはつかめた。
過去仏から続く祖師がたを崇敬礼拝することは儀式化されている。祖師仏礼拝の儀式が間違いのない事実を踏まえて厳密な論理で貫かれているのは新鮮な驚きだった。行事ひとつが正見正知の産物だった。宗門では、道元禅師の完璧さには手も足も出ないことは当たり前だが、儀式を創案し継承し続けてきた祖師がたもそれぞれ深い知恵を持っておられた。
祖師仏の項 終わり