ロチェスターの朝 (3) 01/18/2008
経済学は富の分配を研究する学問であると定義した人もいた。マル経の説だろう。富を資本家や金持ちから略奪して分けようというものだ。唯物論はカネ(普通は物質という翻訳語が使われる)が国も社会も個人の心まで決定する。
マルクス主義は国の仕組み、社会の変遷、個人の行動から心の中まで説明できた。大思想と見なされた所以である。しかし本家のソ連邦が崩壊してしまうと、経済学だけでなく思想や歴史の見方についても信用度に疑問符がつく。なぜマルクス経済学は行き詰まったのか。
労働は何かを生産する働きである。資本家は生産手段の所有者である。生産手段に手を加えて、たとえば車を作る。あらゆる生産物には値段がつく。ところが売れなければどんな値段をつけようとカネと交換できない。買う人がいなければ価格だけでなくその中に含まれている労働価値もゼロになる。労賃は払えない。クルマ社会の中で人力車を大量生産する光景を考えたらわかる。労働価値説が成立しないのだ。
売るために値下げすることは可能だが、その場合赤字続きとなって倒産がわずかに先延ばしされる。マルクスの大発見を押し通そうとすれば、一種類の車しか作らないとか、外国からの輸入は禁止するとかして統制経済を強制しなければならない。その無理は70年しか維持できなかった。経済学が間違っていたためにカネが回らなくなった。その結果、国も国民もどうしていいかわからなくなった。
売るとは逆方向から見ると販売代金を受け取ることである。これが富の創造だ。世間ではカネが手に入るとか儲けるとか言う。富が創造されて、つまりカネが入って初めて労賃を払うことができる。これはものを売ったことがある人には自明の理であろう。経済活動においてより根本的なのは労働することではなくて売ることだったのだ。近代経済学は販売から出発している。いかにして儲けるかが問題だ。
カネが入らなければ何も始まらない。原料の仕入れも労賃の支払いも研究開発への投資も税金とか販売とかでカネを集めたあとの話である。富の分配とはカネの奪い合いでもある。
経済学者が富を創造することは考えないで分前だけを研究すれば国民は貧乏になり、国家も維持できなくなる。平等社会などは過去にも未来にも実際に存在することはなかったのだ。
一つの原理で世界を統一的に解釈する大思想は偉大すぎた。何しろすべてがわかるのである。怠け者のための世界観だった。今でも資本主義は行き詰まると講演してまわっている政党の党首がいるが、妄想、妄説である。ロチェスターで聞いた揺るぎない知恵とは比ぶべきもない。経済学も無限の世界を無数通りに把握できる方法を持たなければすぐに寿命が尽きる。
戦後社会党の理論的指導者だった向坂逸郎は高度経済成長の真っ只中で1930年台の経済ばかり論じていた。とっくに済んだ現象を解釈することくらい楽なことはない。そして現実を見ないではパン一個も売ることはできない。氏自身は金持ちだったらしいが、弟子や追随者や同調者はその後どうなったのだろうか。得た知識で社会の役に立ったことがあっただろうか。無一文の若者もいただろうが、50年前の、それも体制の異なる経済ばかり研究してどうなるのか。何よりも、真剣な勉強と努力が自己自身を利益しただろうか。成功した例があれば聞きたい。
近代経済学は応用範囲が無限に広い。商売人の数だけ学派ができておかしくない。売るための研究だから終わりはない。小は食うために何かを売ってカネを得、食べ物を手に入れるところから始まる。売るものがなければ肉体労働でも知識でも魅力でも売る。売るのが面白ければ売り続ければ良い。どんな生き方も原則として許容される。所有財産が保証される不平等で自由な経済社会が繁栄する。
終わり