彼らがやった (1)

彼らがやった          02/28/2008

今年に入ってオーストラリア議会がアボリジニー虐殺を謝罪する決議を行ったというニュースがあった。歴史の過酷さと複雑さに思いを馳せた。彼の地では都市にも田舎にも荒々しい自然が残っていて、珍しい鳥や動物を見ることができる。加工されていない自然の中では人々も東京やニューヨークと違って見えた。メルボルンは世界一住みやすい都市ということであったが、狐が町の真ん中に出現するのだ。
若者たちと話している時、一人が ”彼らがアボリジニーを殺した。” と言った。アボリジニーはオーストラリア原住民のことだ。イギリスから移住して来た人々が数百万の原住民を殺害したと読んだことがある。それならオーストラリア人が、つまり目の前にいる人々が殺したことになる。
”彼らとは誰のことですか?” と私。 ”我々の祖父たちのことだ。” と答えが返って来た。目を丸くした。彼らの祖父たちは我々ではなくて彼らだった。どこかが食い違っている。頭が混乱した。
言いたいことは分かった。祖父たちは原住民殺害に手を染めた、彼らは悪いことをした。我々は正しい人間である、彼ら祖父たちは我々善人とは違うと言っているのだ。自己正当化である。
人に会うとはカルチャーショックを受けるということでもあろう。この時のやりとりは長くショックであった。この論理を拡張して行くと、ヒットラーやスターリンや毛沢東の大虐殺も彼らがやったで済ませられることになる。アメリカの奴隷制やインデアン虐殺も、イギリス、フランス、オランダの植民地収奪も彼らがやったのである、我々とは関係ない。こんな論法は良識、いや常識に反するのではないか。
上の会話を胸にしまって気をつけていると、普通のアメリカ人は日本の教科書とは正反対のことを考えているらしいと分かって来た。彼らは過去に悪いこともひどいこともあったけれど、努力して良い社会を作って来たと思っている。200年で世界一になったぞと誇らしげに語る。主観の問題だと片付けられない。誰だって明るい世界をより良い将来に向けて生きたいではないか。その願いを素直に表明しているだけだ。過去が悪いほど現在も未来も良く見える。
小さな会話や経験から一国の全体像をつかむのは難しい。ベトナム戦争はねと話しかけると、 ”あああの戦争は大統領が勝手にやっているんだ。” でおしまい。ジャッキーのことを持ち出すと、 ”大統領夫人が再婚して問題があるのか。” と相手にされない。”風と共に去りぬ” の名場面を持ち出すと、読んでいないという。音楽については造詣がない。どうしたらアメリカがわかるのだろうかと落胆した。今から振り返ると、あっけらかんとした個人主義、孤人主義は教科書に書いてなかった。
アメリカ史を学ぶと、メイフラワー号、インデアンとの遭遇と戦い、奴隷制、独立戦争、南北戦争と大事件が並ぶ。そこでアメリカ人はインデアン虐殺や奴隷制のトラウマを抱えていると解説する心理学者がいる。見聞の範囲が狭いせいかもしれないが、そんなトラウマを抱えたアメリカ人に会ったことがない。むしろインデアンたちの方がトラウマを抱えてひっそりと暮らしている印象の方が強い。日本人は整理された歴史を勉強しすぎる。そして間違う。
祖父たちが我々か彼らかということは、歴史認識の問題と言い換えることができる。先祖が悪いことをした謝れという者がいると、ハイと頭を下げて卑下するのが我々と言わせる歴史認識である。祖父を彼らというものは、他人が勝手にやったことで自分とは関係ないと認識している。前者は先祖と一体感を持ち、善悪も誇りも共有する。後者は先祖と隔たっている。あるいは正義人、善人としての価値判断が先にあって、その上でストーリーとしての歴史を作っている。

 

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