肩(3)

肩(3)           04/28/2008

永平寺に安居したとき、応量器を鼻の高さに捧げてたつ修行があった。重くはないのだが長時間になると辛い。みんな必死で頑張った。指導する方も苦しいのは経験済みだから、精神修養させるつもりである。後になってわかったのだが、この単純な立ち方には途方もない奥深さがあった。
まず応量器そのものが問題だった。応量器は食器なのだが、食は生命の素である。命の素だから仏のお椀で、一番大きいのは頭鉢と呼ぶ。五椀一組が普通で、得度するときに師匠からいただく。これはお経にも書いてある正しい授かりものである。ところで曹洞宗では漆塗りのお椀を応量器という。漆は日本発祥といっても良いくらいで、インドで釈尊は使われなかったはずだ。そこで曹洞宗は仏教か日本教かという問題が出て来る。この問題は徹底的な研究を要しよう。
正しい姿勢については、相撲やバレエを研鑽していれば修行の絶好の機会になったはずだ。肩の力を抜くとか二の腕を返すとか、筋肉ではなくて呼吸で応量器を支えるとか工夫できたのではなかったか。そのころは坐禅以外のことは考える余裕がなかった。知識不足は恐ろしい。
ある澤木老師のお弟子さんであったが、お袈裟の縫い方を教えておられた。経行のとき叉手の姿勢を採ることが話題となった折、「叉手の方が難しいですよ。」と言われた。難しいことをするから修行になるのだし、それが誇りでもあるということだったのだろう。縫い物を専業にしている女性が叉手の姿勢を採ると胸や腕を引っ張り上げる感じになるから難しいかもしれない。バレエを習われていたら全く別の見方を披露されたのではないかとおもう。
澤木老師門下は当たり前のように叉手して経行する。叉手が当然だとして疑わない。それははじめに叉手を教えられたからである。別の型を教えられていたらどうなっていただろうか。叉手はバレエの両腕を前に置く型にほぼ一致する。西でも東でも行われている無理のない姿勢といえる。澤木老師の知識の深さ、修行の確かさを改めて思い知る。師の苦心の成果をただで伝授していただいている。甘露の法雨はありがたい、お礼の言いようがない。
あれから一年、肩が凝る、肩が張るなどは不健康だとはっきりした。肩でバチを打ち下ろすのもすでに間違っている。武術もダンスも肩に力を入れる動きは一つもないようだ。無知から来たことではあるが、肩に力を入れて歯を食いしばった日々が悔やまれる。何のために懸命に努力したのか。
正しい動きでなければおかしな癖を増長するだけ、何もしないほうがよかった。腕も鎖骨も肩甲骨も一つ一つの筋肉も、独立に自由自在に動くのが理想的な身体だった。軽く柔らかい肩を動かしていれば、凝ったり痛くなったりする理由はない。
ある合気道場で坐禅を教えるついでに練習仲間に加えてもらった。まずは子供のクラスだった。練習は相手の手首を握るところから始まる。子供だから柔らかい。そのなかで一人だけ肩で握ってくる子がいた。握るときたなごころから肩まで力が連動している。体が硬いと感じる。逆に言うと掌と肩が分離していない。かつての私と同じ質の筋肉の使い方である。神経回路も似ているのだろう。はっとして名札をみると、10才くらいの日本人の男の子だった。彼も漢字を書いて覚えるのだろう、本を読んで勉強するのだろう。
力が連動すると、腕が棒のようになっているからポキリと折れやすい。肩を支点にするから一点に負荷がかかってケガをしやすい。気になって肩を揉んでやったが、間違った力の回路は他人がマッサージしても言葉で指摘しても正せるものではない。本人が自覚して内側から変革するしかない。一日も早く正しい動き方を発見してもらいたいと願わずにはいられなかった。

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