衝撃と吸収(1) 09/01/2008
雪に閉じ込められて何もできない冬のある日、鈴木大拙師のDVDの広告が入ってきた。深山で身動きできないときも世の動きが伝わってくる。インターネットが世界を変えたことを実感する。参詣者にサービスする必要を感じて注文した。日本文化に触れてもらいたいとも思ったので、いっしょに歌舞伎と相撲のDVDも追加した。
相撲のDVDは相撲協会による入門編だった。内容は盛りだくさんで、国技館の紹介、横綱の作り方、水や塩の意味、決まった挨拶の仕方、行司、呼び出し、髪結いなどなど。行司はとてつもなく忙しい職業だった。土俵で判定を下すのは仕事の一部で、番付書き、口上、各種儀式を次から次へ執り行っている。相撲世界が複雑華麗なことが良くわかる。伝えたいことがありすぎて、取り組みは三番しかなかった。
貴乃花と曙が立ち会ってがっぷり四つに組む場面がある。両者とも肩の筋肉が盛り上がって全盛期である。腕も大きいだろうが胸の厚さで小さく見える。塩を撒いて仕切り直し数番の後、気合い十分で立ち上がった瞬間、両方もろ差しになった。画面は切り替わって国技館の説明へと移った。
両者激突の場面を見直すと、二人の突進力はどこへ消えたのかと考えさせられた。ふたりとも世界最強の関取である。大の男十人を跳ね飛ばすくらいの力はあるだろう。そのふたりが正面からぶつかる。胸や肩の骨が粉々になっても不思議ではない。物理学の公式で剛体と剛体が衝突する計算をすると、両者が壊れる結果が出るに違いない。
衝撃というか衝撃の力はどこへ行ったのか。ふたりの肉体に吸収されたに違いない。あるいは分散されて無力化されたとも言える。しかし正面から組み合っているのだから吸収の方が適語だろう。盛り上がった肩や背中や胸板は衝撃を吸収する役割を果たしている。衝撃の吸収が相撲の本質だったのか。貴乃花の盛り上がった肩は攻撃のためではなく、まず衝撃を吸収するために使われていた。
力士は毎日稽古するが、彼らは四股や鉄砲の鍛錬を通して、自らを強い衝撃を吸収する体に作り変えている。一日の変化は小さくとも、五年、十年経てば本番の衝撃にあっても耐えられる。自分の体を作り直すことが稽古の眼目だ。対戦相手に勝つか負けるかは究極の目的ではない。
衝撃の吸収が目的になると、吸収するのは自分の体全体である。稽古は自分の肩や背中の使い方を練習する。目の前の相手を見るよりも、背中の筋肉の動きを感じ取る。相手と組んでいるときも背中の目ははっきりと見開かれていなければならない。ひとりやふたり倒したって仕方ない、その間に自分が成長しなければ。
では相撲取りは衝撃や吸収や背中の目とか考えているかというと、そんな暇はない。余計なことを考える前に、食って飲んで寝て、文字通り体を作らなければならない。相撲部屋の生活様式に従って強くなる基本を学び、実践する。各部屋には先人の知恵が受け継がれている。相撲が相撲道に、生き方にまで磨き上げられている。
相撲はライバル同士が稽古で激突して切磋琢磨する。衝撃を吸収しながら強くなる。相手がいなければさらに強くなることは難しい。栃若時代、白鳳時代と称揚される所以である。稽古相手、アドバイザーは仲間であり恩人である。お互いに親しみもわくし、相手の体を知ることは自分の体を知ることでもある。綺麗事だけで済むわけではないが、理念がなければ喧嘩の明け暮れで終わる。
相撲の起源は竹内の宿禰ということになっている。実際には人類出現の時が相撲の起源だろう。腕相撲や力自慢はどこでもある。相撲がユニークなのは、怪力や強力の持ち主が生活できる組織であることだ。強者は粗暴者になる可能性が強い、関取は体が一瞬のうちに凶器に変わりうる。そのような、力と体を持て余している大男同士がぶつかり合って文句が出ない環境は数多くあるものではない。日本の相撲文化は、並外れた精力の持ち主達を社会の中に上手に取り込んだ。素晴らしい興行を発明したものだと感心する。
相撲では対戦相手は稽古相手でもある。お互いに手の内を知り尽くしている。勝っても負けてもそれきりバイバイというわけにはいかない。八百長すれすれの心理が働きやすい。お客の人気も考えなければならない。勝ち負けがはっきりしない要素が多い。相撲には勝ち負けだけを争う近代スポーツとは一線を画する面があると思われる。