衝撃と吸収(2)

衝撃と吸収(2) 09/01/2008
このように考えているうち、衝撃の吸収は生命体の生きる原理ではないかという気がしてきた。歩くとき、身体は大地からの衝撃を吸収している。舗装された道、石ころだらけの道、田んぼのあぜ道と、道といっても表面の質は違う。身体は硬さや荒さの違いに応じて衝撃を吸収する
消化は異物である食物を消化器官で肉体に同化する。消化は異物の衝撃を吸収する一つの方法である。寝る子は育つという言葉もある。眠っている間の方が栄養摂取の効率は良いはずだ。吸収しなかったら子供は成長しない。
アメーバが異物に当たると逃げたり方向転換したりする映像はよく見られる。微生物の段階ですでに、衝撃にいかに対応するか生き物は知っている。必要なものに出会ったら食べて生長する。有害なもの、不必要なものからは離れていく。
物理の教科書では剛体と剛体の衝突反応が数式で表される。衝突の前後で剛体そのものの変化は無視されるほど小さいということになっている。衝撃を吸収するメカニズムは観察されない。
生物学では刺激と反応だ。アメーバが異物と出会ったときの反応は良く観察されているが、アメーバ自身の体内の変化はあまり注目されない。全然変化しないのかもしれないが。ニュートンの運動法則や刺激と反応説は、同一刺激には同じような反応をする。受容体自身は変化しない。
日本に畳が普及する前、人々はどんな生活をしていたのだろうか。板の間や土間に正座していたのだろうか。正座を避ける工夫をしていたのだろうか。柔術を板の間で稽古したらどうなるか。畳がなければ板の間で練習するしかない。あるいは大地の上で転げ回ることもあったのか。いずれにしても練習だけでも大変な苦痛を伴っただろう。また実際の決闘や喧嘩は設備の整った剣術場の中とは限らない。荒地や草地や林でも通用する格闘技でなければ役に立たない。
安易な生活からは想像もできない厳しい状況を昔の人は生き抜いてきた。それはわかっているが、そんな時代に投げ込まれたら行き延びることは不可能だと思っていた。テレビの時代劇を見てよくわかる。電気も車もなかった時代の人々の生活は容易ではなかったはずだ。飲み水を桶で運び、鈍い斧で木を切って薪に割る。トラクターなしで巨石を積み上げる。あばら家に帰ってもソファーや柔らかい寝具はない。苦界から逃げ出そうにも自動車はない。
しかし衝撃の吸収が生命の原理なら、昔の生活も想像することはできるようになる。歩いたり座ったり走ったりするたびに身体は衝撃を吸収する。そして身体が衝撃に適応するようになる。根本的にはどんな環境の下でも人は生きて行くことができる。苦痛に慣れ、快適に慣れ、貧乏に慣れ、金持ちに慣れ、艱難辛苦に慣れ、飽食怠惰にも慣れる。そして誰もがより良い生活を目指して努力する。
古人の厳しい生活環境に想いを馳せたが、未来は明るく楽しく優しい時代だろうか。数年前から地下資源の枯渇が叫ばれている。食糧生産は人口増加に追いつかない。金はあっても買う食料がない時がやがてくる。水の値段が何倍にもなる日を迎えるかも。そしていつか文明発生以前の世界に戻らないと誰が断言できよう。すでに核兵器は何千発も使用されるのを待っている。
暗い予測ばかりでは生きる希望もなくなる。自分はまだしも子や孫の世代はずっと長く辛い時間を生きねばならない。希望なくしてなんのための人生か。内山老師からは悲観論を聞かされた。老師の見方は現実と矛盾しない。数年前に知ったのは、かなりの日本人が悲観論を抱いて生きているということだった。深刻そうに見えるのは格好いい。しかしみんなが将来を悲観しては。
将来の見方や心理についても、衝撃の吸収が生命の原理なら見方は変わってくる。どんな環境にあってもいかに衝撃を吸収しようかと考えればいい。別の言葉では環境に適応するということだ。適応さえすれば、相撲取りが強くなっていくようにみんな生長し生き延びられる。悲観論だけで世界を見るのは偏見の一種と言える。どんな環境でもいつの時代でも強くたくましくなっていけばいい。新技術も新知識も衝撃だ、学び吸収すればいい。艱難も幸福も衝撃だ、ともに吸収して自己の栄養にしていけばいい。

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