衝撃と吸収(3)

衝撃と吸収(3)            09/01/2008

坐禅儀には目はすべからく開くべしとある。実際に坐ってみると目の周りの筋肉は、身体がじっとしている時でも動かすことができる。目は心と肉体の微細な動きが最も現れやすい器官ということができる。衝撃の吸収説が正しいとすると、目は光の衝撃を吸収しているはずだ。目はただ開くことによって外界の明るさや色彩という徳を吸収する。光を吸収するのが目の第一の機能だ。眼を閉じ続けると楽なようだがすぐ辛くなる。光に接する機会を奪われると目の機能はたちまち減衰する。
光の衝撃を吸収するというのは、脳に一番近い神経が外光と交流することだ。静慮にふさわしい静かな交流である。血が流れ呼吸している限り身体の完全な静止はあり得ない。肉体に不動停止はない。生きている限り身体は激動と静穏のあいだにある。坐禅は限りなく静穏に近い。それでも外界の光と交感している。
意識の力を用いず、筋肉に力を入れないで光を吸収する。一番効率がいいのはどこにも力を入れないで瞼を開いていること。光は勝手にやってくる。この時自己は全世界と繋がっている。外と内との戦いはなく平静、安楽である。坐禅の自己は孤立してはいなかった。
ここで肩を壊して床に付すこと二ヶ月、積読本を片付けることにした。その中に興味深い文章があった。要約する、ノーベル賞受賞者の研究とあったので信用できるだろう。目の水晶体は皮膚や毛髪と同じようにいつまでも成長し続けるそうである。大事な器官だから毛細血管が張り巡らされているのは知っていたが、レンズだから変化しないとばかり思っていた。肉体はどの部分も生長変化し続けるものらしい。
水晶体の場合は、毛や皮膚が外側に向かって生長するのとは反対に、内側に、中心に向かって生長する。だから水晶体であるレンズは外側が一番若い。誰でも目が綺麗なのは、磨く必要もない生まれたてを見ているからだ。中心部の古い細胞は死に、血やリンパ液によって運び出される。全身の血液は40分で目に張り巡らされた毛細血管を通る。
目の機能については、紫外線はやはり有害だそうである。そして直接光も良くない。目が柔らかい自然の間接光を受けると酵素やホルモンやビタミンやミネラルが活性化される。毛細血管を通る血液の中の微量成分が刺激されて全身に流れていく。これらはたんぱく質や脂肪などのような身体の土台となる栄養ではないが、各栄養素を美味に料理するときになくてはならない調味料である。美味でないと肩こりや、関節炎や、糖尿病などいろいろな病気になる。われわれの身体は精妙に作られている。
光の微量要素を活性化する力は500%効率が良いとあった。何に比べているか失念したが、この場合、目を閉じたとき、つまり無光に対してということだろう。確かに暗闇の中でも直ちに死ぬことはない。しかし健康を保つことは難しい。何ヶ月耐えられるだろうか。
健康を維持するにはいろいろな方法が考えられる。栄養を摂る、果物を食べる、マッサージ、鍼灸、投薬、運動などなど。その中でも、光が一番効くらしい。というより日光は生あるものの外してはならない土台であろう。そして林の木漏れ日のような間接光が一番良いという。生命は快適、快美の中で最高に顕在潜在を問わず能力を発現する。
というわけで面壁の意味がやっとわかった。われわれは壁に向かって坐るわけだが、なぜ対座はいけないのかと問われて明確に答えられなかった。面壁の方が自己に出会いやすいからだと説明した。壁は目の前にあって動かないから坐っているこちらも安定する。壁を背にして坐ると目の前には広々とした世界が広がる。虫や風にそよぐ葉も見える。どこまでも際限がない。自己に出会うのは難しい。だがそれは好き嫌いの問題ではないかと言われても仕方ない。
眼が柔らかい間接光を受容して全身が活性化するということに着目すると、壁に反射した光が眼に入ってくる。面壁坐禅は身体活性化が保証される方法だということができる。仏道修行は苦行ではないとは真っ当な真理だった。苦行どころか元気はつらつになるのが修行だった。じつに面壁坐禅は安楽な修行だ。眼を常に開くのは光のエネルギーを受け取る扉を開いておくということだ。エネルギー摂取に一番効率良いスタイルが面壁だった。対座では縁側で座るとか公園で座ってみようとかいうことになりやすい、ベストの方法が何かはっきりしない。
内山老師が面壁を当然視して強調されるのには時々閉口したものだった。新参者が来ても面壁しないと怒られた。また釈尊は大きな菩提樹に向かって坐られたと説明された、見てきたように。そこまで面壁を盲信する必要はないのではないかと思った。
眼の生理を知った現在から見直せば、内山老師だけが絶対に正しかった。だから必死になって指導された。ありがたいことである。普通、人は樹下で座ると聞くと木を背にして座ると思う。それはインドの修行者たちも同じだったに違いない。ひょっとしたら釈尊だけが大樹に向かって坐る方法を発見されたのかもしれない。そして大きな利益を享受する自覚を持たれたのではないか。

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