表絵文字(4)

日本語(2)表絵文字       11/09/2008

ところで日本語は表意文字なのか表音文字なのか。学問の世界ではどうか知らないが、耳学問でははっきりした答えは聞いたことがない。日本語は表音文字の”かな”を基本にして漢字という絵を加えている表絵文字ではないかというのがわたしの問題提起である。
日本は中国と同文同種の文化を持つとはよく聞いたセリフである。たしかに日本人は漢字を勉強してきた。漢字を知ることが知識の信頼性を保証した。康熙字典の四万字とまではいかなくても、今でも一万字くらい読み書きできる人は少なくないだろう。漢字は日本文化に影響を与えたどころか日本文化の背骨だという人もいる。
だから国字国語審議会が当用漢字や常用漢字を決めたりすると必ず反発が起きる。伝統的な文化を破壊しようと意図しているのではないか、国民の思考を単純化しようとしているのではないかなどなど。新仮名遣い派と旧仮名遣い派との論争は熾烈である。
事実あらゆる改革案は日本語の単純化を目指していた。ローマ字運動というのがあった。日本語をローマ字表記にして英語に近づけようとすることだ。ある人がローマ字だけの本を出版したそうである。読めたものではなかった。ローマ字一本やりでは実用にならないと実証するための出版だったそうだから目的は達せられた。かな文字会というのも聞いたことがある。これはひらがなだけにしてしまえという主張だった。
良い先例がある。ベトナム語はフランスの植民地政策の下でローマ字表記にされた。ベトナム人から辞書を見せてもらった。漢字に基づいた単語がたくさんある。われわれなら熟語を連想する方法で理解できる言葉が、ベトナム人には連想する繋がりが切断されている。学問、学校、学生、見学、数学などはみんな学問に関係している言葉だと日本人ならすぐわかる。それは漢字を見て意味を理解できるからだ。それがすべてガクまたはgakuでは大変なことになる。金額、音楽、山岳、驚愕、碩学とローマ字だけで書かれるとどのガクかわからない。
そうなると英語を体系的に学ぶ方がベトナム語を理解できる近道になる。彼らにとって一番簡単なのは母語を捨てて英語だけにすることだろう。ローマ字運動がいかに罪深いものだったか判る。
だいたい言語変革運動をするほどの人は、変革の結果何が起こるか外国の例なども研究しているはずだ。なおかつ単純に変えてしまえというのはどんな理由によるのか。審議会の委員たちは何の目的で漢字使用を制限しようとするのか。日本人をバカにしようとしているのかもしれない。それは日本人以外の人々に歓迎される思想ではあろう。

表絵文字(3)

日本語(2)表絵文字           11/09/2008
日本では総理大臣の演説を全国新聞がボロクソに罵倒する。百年一日のごとく、日本の政治家は演説が下手だ、外国の政治家を見習えと説教を垂れる。内容はあまり変わらないのに外国人だと誉めそやし、自国の首相は軽蔑する。いつも同じ記事だからなぜ変わり映えしないのか疑問が湧く。
日本語は表音文字ではない。日本文化は、現在ではという限定付きだが、音を深いところで信頼していない。立て板に水の弁論を聞くと本当だろうかと疑うのがよい例だ。アメリカでは滅多に見ないことだが、言葉を発するのが商売のアナウンサーでもよくどもっている。テレビでどもる場面をみると、表音文字文化ではないなと確認させられる。高級新聞が下手なアナウンサーではなく政治家の演説だけを槍玉にあげて雑言悪口し続けるのは、政治への信頼感を低下させ、いたずらに社会を混乱させようとする底意があるからだろう。
人は平等ではない。言語が異なるだけで、お互いに決定的に異なる心を持っている。それは記憶に対する重要度の違いだったりする。アメリカ人は物忘れに異常な恐怖心を持っている。政治家や宗教的な指導者が物忘れがひどくなったり声が出なくなったりすると名声と地位が一瞬にして失われる。英語文化圏における音と記憶の関係はもっと深く研究されるべきだろう。日本では軽度の物忘れは人格円満になったという表現があるくらいで、言の葉が紅葉色になったくらいの認識だ。
表意文字では、意味が変わらない限り何千年でも書き方を変える必要はない。漢字の発音が大きく変化しているのは、呉音、漢音、唐音などの区別があるので判る。ただしこんな区別は公式発表だろう。お寺の中だけとか宮廷の中だけだったかもしれない。なぜ発音が大きく変化したか、地域的な差異などもできれば知りたいものである。しかし意味は変わらないから漢字は変わらなかった。
大学の構内を歩いていると一枚のポスターが目に入った。ある漢字の上に英語の翻訳が書いてある。それはケネデー大統領がいった有名な言葉だった。危機とは危険と機会との二つの意味がある。心配するばかりでは意味がない。危機は経済人なら大金持ちになるチャンスなのだし、軍人なら勝利に導く契機になると。問題は、そのポスターには”機”ではなく”机”と書いてあったことだ。それで通りがかりの先生に間違いを指摘しておいた。
十分ほど経って、毛沢東以来、中国では新字体が使われていることを思い出した。”机”は新しい”機”だったのではないか。ポスターはたぶん正しかった。インターネットに接続して新字を印刷したのだろう。日本人が知っている漢字と中国本土人が使っている漢字は違う。日本人が漢字というときは中国大陸で使われている漢字だと思い込んでいるが、実際は日本国内で通用しているだけではないか。台湾人には通じるだろうが。
これを中国大陸人からみるとどうなるか。彼らは日本で流布している漢字を読めない。台湾、香港、シンガポール字も読めない。新字に直さなければ論語も仏教経典も読めない。
合点がいったことがある。こちらで会う中国人からは、孔子の教えの断片も聞いたことがない。儒教の国の民なのに不思議だった。文化大革命の折に孔子批判というのも聞いたことがある。新字に書き直されなければ若い中国人は論語を読めない。毛沢東は論語潰しのために新字を制定したのかもしれない。孔孟老荘を含め、あらゆる文化を抹殺するためには旧字を禁止するのは効果的だ。
毛沢東は秦の始皇帝に匹敵するような大変革をしたのだろうか。始皇帝の焚書坑儒とは新字体を制定しただけのことだったのかもしれない。それだけで次の世代の人は旧字を読めなくなる。そして歴史書に記される大混乱が起こった。毛沢東の改革は第二の焚書坑儒だった。
二千年間字体が変わらなかったから、我々はなんとなく漢字は永遠におなじだと確信を持っていた。じつは五十年以上も昔から日本語の漢字と中国語の漢字は違っていたのだ。カナダやフランス植民地のフランス語はパリでは通じないそうだが、同じことはすでに東京と北京との間で起こっていた。

 

 

表絵文字(2)

日本語(2)表絵文字         11/09/2008

書き言葉には表意文字と表音文字があると教わった。漢字は表意文字で英語は表音文字である。表音文字は音を書き表す。現代ではアルファベットが一番効率が良いようだ。音は変わりやすい。発音が変われば書き方も変わる。発音が主、文字は従である。文字が音を真似る。文字は音を記録するための道具だ。だからだろうか、アメリカ人は文字よりも音を信頼しているように見える。
アメリカ人からはよく英語の綴りを教えてくれと頼まれた。みんな大学卒業生であるが、自国語を正確に書けないことを恥じる気配がない。日本人が外国人に日本語の書き方を教わることはまずない。漢字の間違いを見つけられたら恥ずかしく思う。この辺りが英語文化と日本語文化とは根本的な違いがあるらしいと気付いた初めだった。問題の捉え方がまるきり違うらしい。スペリングの間違いだけを取り上げて教育劣化、学力低下とかんたんに片付けられないのではないか。当初は気づかなかったが、彼らは文字が間違っても、もっと大事な物、音を理解できているのだから平気だったのだ。
小さな事務所で働いていた頃の話である。ボスは普通のアメリカ人だった。日本人の奥さんから習ったのだろう、日本語を不自由なく話した。私とは、日本語、英語のどちらでも通じた。ただし日本語を読むことはできないと言われていた。読めなくても流暢に外国語を話せる人物の存在は驚きだった。相当数の単語を記憶しているはずだが苦労して覚えているようにも見えなかった。
あるとき日本語の手紙を持ってきた。翻訳ですかと聞くと、自分の耳を指差して読んでくれという。アナウンサーのように声を張り上げて読んだ。一回読むとサンキューといって立ち去った。一回の音読で全て分かったようだ。訓練されていない私の声音でどうして文章が理解できたのかわからない。音だけで外国語を理解する人がアメリカにはいるのだ。
ワシントンでFBI本部を見学したことがある。公開講座を開いて射撃や逮捕の実演を見せたりする。会場に入ると、小学六年生の修学旅行と思しき集団が着席して説明を聞いていた。百人くらいか。説明が終わって担当者がでは次の部屋に行きますと言った。その瞬間全員がさっと立ち上がった。小魚の群れが瞬時に向きを変えるような感じだった。集団としての見事な身のこなしに唖然とした。左右を見回したり、動作が遅いグズがいてもよさそうなのに。兵隊の訓練を受ける前に、行進、停止、反転などができる感覚が身についているようだった。
その時思い出したのは最初の大きなハイジャック事件だった。イスラエル航空機が乗っ取られエンテベに着陸させられた。犯人との交渉はリアルタイムで報道され世界中が固唾をのんでいた。三日目にイスラエルの特殊部隊が突入して乗客をほぼ全員救出した。
特殊部隊は突入すると煙幕弾を投げると同時に、「伏せろ!」とヘブライ語で叫んだそうである。ヘブライ語を理解しないものが立っている。鮮やかな事件収束に感嘆した。どうして民間人がぱっと身を伏せられたのか想像できなかった。「えっ」と見回しているうちに射殺されてしまう。頭にも耳にも体にも音を信頼する感覚が身についていればこそ可能な作戦だったはずだ。
十冊ほど本を出版している人に英語の原稿を直してもらったことがある。なんでも手伝うからと言われたので頼んだのだったが、一箇所しか直してくれなかった。がっかりしたけどなんとか完成しなければならない。原稿を読み進めて行くと、最後に註がついていて、「だいたい良いから、あとは自分で声を出して読んでみて、文章の調子が自然になるように修正しなさい。」とあった。図らずも英作文の基本を教えてもらった。
英語では書くにも読むにも発声が基本になる。彼のインストラクションなら自分自身で下手は下手なりに勉強向上できる。同じ方法で練習していけば、文章作法も洗練していくに違いない。最後はセンスの良さが決め手になるだろう。ベストセラーを書くほどの人は文章と音読と身体のリズムの関係まで知悉しているはずだ。夢中で読んだ本は、考えてみれば文章にリズムがあった。
アメリカ人は演説が上手い。なかでもクリントン大統領は飛び抜けてうまかった。鮮やかな記憶として残っているのは、大統領候補受諾の演説だ。その前夜にゴア副大統領候補が素晴らしい演説をした。もうクリントンの出番はないのではないかと思いながらテレビを見た。終わってみれば期待以上の見事な出来だった。政策や人格は別として、超一流の演説だった。
超多忙な政治家である。原稿をひとつひとつ書いている暇はないからスピーチライターの職がある。他人が書いた原稿だが、壇上では見事な演技をする。テーマの並べ方、間合いの取り方、声量、身振り、笑わせ方、そして聴かせ方まで、これでもかこれでもかと惹きつけられた。音に価値を置いた文化、表音文字文化の頂点を極めた演説だった。

表絵文字(1)

 

日本語(2)表絵文字       11/09/2008

大学卒業したばかりのアンドルーという若者が泊りにきたことがあった。サービスついでに紅白歌合戦のビデオを見せた。こんなお祭り騒ぎアメリカにはないよと言いながら興味深そうに鑑賞していた。音感が良いらしく、どの歌手がうまいとか的確な批評をする。英語の発音について聞くと違和感はないという。一流歌手の英語はこなれているようだ。
そのうち「なぜ日本語のあいだに英語が入るのだろう?」と質問してきた。いつから始まったのか知らないが、テレビでは歌と一緒に字幕が映る。その中には単語ばかりでなく短い英文が出てくることがある。それが驚きだったようだ。日本人には当たり前すぎて答えようがなかった。日本のテレビを普段に見る環境にないものにとっても当たり前なのだ。それが日本語なんだよとだけ返答した。
指摘されてみれば盲点だった。あらためて週刊誌のタイムを見直すと、文章は全部英語と数字である。写真とイラストが多くなって読む部分が少なくなったと感じていたけれど、文章は英語だらけだ。店頭に並んでいる雑誌も同じ。ページ数の多いロマンス小説も売れているが全部英語だ。英語の国だから文章は英語で書かれていて当然ではないか、何が問題なんだと言われそうであるが、一種類のアルファベッドだけで書かれている事実に気づいたのが驚きだった。
日本語だったらどうか。漢字ばかり、カタカナばかり、ひらがなばかりの新聞や週刊誌など想像できないであろう。写真やイラストを挿入する以前から文字そのものが多様性を持っているのが日本語だ。小説家なら漢字とひらがなの割合、カタカナやローマ字を使った場合の視覚効果などを計算に入れて文章を書いているだろう。論理や心理、情景描写だけでなく文字そのものをいかに見せて買わせるかを考えるに違いない。読者の心をつかめるならば、文字の代わりに漫画や挿絵を利用する人が出てくるのも当然である。
あるとき香港を旅したアメリカ人から小さな経典を送ってもらった。観音経と般若心経が入っているのだが、とにかく読みづらい。漢字文化圏からの贈り物だから当然ではあるが、漢字ばかりで全体の印象が硬く暗い。眼に優しくない。わざわざ読みづらく印刷してあるのかと思った。
難読本を前にすると自分の学力不足をまず嘆くのが常であったが、アンドルーの発言以来見方が変わった。なぜ読みにくいのか日本語の経本と比べてみた。日本語版にはふりがなが打ってあるのを”発見”した。漢字自体にしても、小さくても読みやすいように工夫されている。印字の太さ、線の曲がり具合、隣の字との間隔など、多方面から気持ちよく読めるように配慮されてある。小説家の苦心を推し量ったけれども、印刷社も同じように苦心しているのだ。経典でさえ、読ませないではおかないという心構えで。
アメリカに進出している日本の本屋はアニメや漫画のコーナーを広くとっている。そこに若いアメリカ人が群がって夢中になっている。彼らや彼女たちに日本文化が理解できるはずはないと決めつけるのはたやすい。しかし何が彼らや彼女たちを夢中にさせるのか。それは漫画家やアニメ作家たちのサービス精神だろう。作家たちは読者や観客たちを楽しませるための物語を創作しようと試みる。絵で性格や動き、喜びや悲しみまで描き尽くそうとする。そんな作家魂に引き込まれる若者たちが足を運ぶのではないか。
売れっ子の有名漫画家が若い貧乏時代に”トキワ荘”というアパートに集まって住んでいた話はよく知られている。なぜ漫画家は集団生活したのか。彼らはそこでサービス精神を磨き上げたのだろう。容易なことではない。最後には精力を使い果たして往く人が多い。喧嘩でもなく闘争でもないのにボロボロになるまで生命を燃焼させる。その凄まじい情熱が、見られ読まれるに堪えうる絵を産み出した。彼らは絵を通してひとびとの感情を揺さぶった。その心意気はアメリカの若者にも届いている。

衝撃と吸収(4)

 

 

衝撃と吸収(4)          09/01/2008

それは健康のための本だったから、自然の間接光をたくさん摂取するようにと指導されていた。あらためて気づいたのだが、曹洞宗の僧侶には長生きする人が多い。鎌倉時代に道元禅師の後継者となられた方々は80歳、90歳の長寿を全うされた。いまも老僧と呼ばれる人は少なくない。釈尊も2500年前のインドで80歳の寿命を生きられた。仏道修行、面壁打坐は寿命を延ばす効果があるようだ。眼の生理を合わせ考えると蓋然性は高い。
僧堂では面壁して間接光をふんだんに吸収するので体中の栄養がムダなくエネルギーに励起される。その活動が蓄積されて長寿という結果につながるのではないか。壁が修行者の、僧侶の生命力を強健にしたのではないか。
ただし直接光を避ける目的でサングラスをかけるのはまた弊害があるそうである。それは必要な自然光を遮ってしまうからだという。全身の無数無量の微量要素が活性化するには豊富な光エネルギーを要する。光の量が少なくなると体内を十分に活性できない。雨や曇りの日々が続くと元気を失ったり陰気になったりするのも同じ理由による。昼寝て夜働く生活が不自然なのも当り前だと分かる。偉大な自然光の恩恵に浴さないからだ。
深編笠を発明したのは誰だろうか。普及したのは日本だけのようだ。炎天下で間接光を摂取するのには理想的である。雲水も編笠をかぶって歩く。若い女性が夏の日に日傘をさして野原を散歩するのは健康の面からも美容の面からも素敵な生活様式だ。田植えの季節には大勢が集まって仕事していたが、全員が幅広の帽子を被り、手ぬぐいで顔を覆っていた。最適のスタイルが確立されていた。日本人はお互いに伝統的な知恵を学習し合いながら長寿社会を実現してきた。
逆に引きこもりとて部屋の中に閉じこもっているのは自殺に等しい。苦を逃れて楽を求めているつもりが、じつは緩やかに自らの命を殺している。生きている限りはどんなことをしても燦々と輝く日の下に出て行くしかない。それがじつは救いだ。しかも簡単なことだ。マラソンはどうか。直接光が過ぎて寿命を縮めるかもしれない。
朝、ほとんどの人は寝ぼけ眼で起きる。子供も初めから元気はつらつではない。のろのろと歯を磨いたり顔を洗ってトイレに行ったりする。急いで朝食をとって身だしなみを整える。その間に動作が機敏になりだんだん眼が輝いてくる。会社や学校に向かって駆け出すまでが四十分だろう。それはすべての血が眼底を通る時間だ。
学校や職場を意識するからシャキッとすると思っていたけれど、じつは十分な光を吸収するから背筋がピンと伸びるという方が当たっている。寝ぼけているのは光エネルギーを十分に受け取っていない間だ。血液内の成分が十分に働き始めるまでには時間がかかる。その間に朝食をとる儀式がある。朝食は粗食軽食が良い。目を開いていることが根本だから、腹具合によっては大食してもよし、コーヒーだけでも良い。相撲取りは朝食をとらないで稽古する。朝食の力より光の力の方が強いということだろうか。
澤木老師は宇宙とぶっ続きの坐禅と言われた。内山老師は天地いっぱいの自己と言われた。論理的にも感情的にも倫理的にもその通りだ。限定された肉体を持つ個人がどうして無限とぶっ続きになれるのか?小さな自己がいかにして天地いっぱいと言えるのか?もうひとつピンとこなかったというのが正直な感想だ。
宇宙にみなぎっている光の衝撃を眼を通して受け取ることで身体が活性化するとすれば、宇宙と自己とは分け隔てがない。光エネルギーの正しい受容の仕方は道元禅師が示された。生理的、生物学的に見ても面壁坐禅は自己の修行であり、同時に生命の修行だ。修行はまた生命増長でも安楽増進でもある。
この項終わり