日本語(2)表絵文字 11/09/2008
日本では総理大臣の演説を全国新聞がボロクソに罵倒する。百年一日のごとく、日本の政治家は演説が下手だ、外国の政治家を見習えと説教を垂れる。内容はあまり変わらないのに外国人だと誉めそやし、自国の首相は軽蔑する。いつも同じ記事だからなぜ変わり映えしないのか疑問が湧く。
日本語は表音文字ではない。日本文化は、現在ではという限定付きだが、音を深いところで信頼していない。立て板に水の弁論を聞くと本当だろうかと疑うのがよい例だ。アメリカでは滅多に見ないことだが、言葉を発するのが商売のアナウンサーでもよくどもっている。テレビでどもる場面をみると、表音文字文化ではないなと確認させられる。高級新聞が下手なアナウンサーではなく政治家の演説だけを槍玉にあげて雑言悪口し続けるのは、政治への信頼感を低下させ、いたずらに社会を混乱させようとする底意があるからだろう。
人は平等ではない。言語が異なるだけで、お互いに決定的に異なる心を持っている。それは記憶に対する重要度の違いだったりする。アメリカ人は物忘れに異常な恐怖心を持っている。政治家や宗教的な指導者が物忘れがひどくなったり声が出なくなったりすると名声と地位が一瞬にして失われる。英語文化圏における音と記憶の関係はもっと深く研究されるべきだろう。日本では軽度の物忘れは人格円満になったという表現があるくらいで、言の葉が紅葉色になったくらいの認識だ。
表意文字では、意味が変わらない限り何千年でも書き方を変える必要はない。漢字の発音が大きく変化しているのは、呉音、漢音、唐音などの区別があるので判る。ただしこんな区別は公式発表だろう。お寺の中だけとか宮廷の中だけだったかもしれない。なぜ発音が大きく変化したか、地域的な差異などもできれば知りたいものである。しかし意味は変わらないから漢字は変わらなかった。
大学の構内を歩いていると一枚のポスターが目に入った。ある漢字の上に英語の翻訳が書いてある。それはケネデー大統領がいった有名な言葉だった。危機とは危険と機会との二つの意味がある。心配するばかりでは意味がない。危機は経済人なら大金持ちになるチャンスなのだし、軍人なら勝利に導く契機になると。問題は、そのポスターには”機”ではなく”机”と書いてあったことだ。それで通りがかりの先生に間違いを指摘しておいた。
十分ほど経って、毛沢東以来、中国では新字体が使われていることを思い出した。”机”は新しい”機”だったのではないか。ポスターはたぶん正しかった。インターネットに接続して新字を印刷したのだろう。日本人が知っている漢字と中国本土人が使っている漢字は違う。日本人が漢字というときは中国大陸で使われている漢字だと思い込んでいるが、実際は日本国内で通用しているだけではないか。台湾人には通じるだろうが。
これを中国大陸人からみるとどうなるか。彼らは日本で流布している漢字を読めない。台湾、香港、シンガポール字も読めない。新字に直さなければ論語も仏教経典も読めない。
合点がいったことがある。こちらで会う中国人からは、孔子の教えの断片も聞いたことがない。儒教の国の民なのに不思議だった。文化大革命の折に孔子批判というのも聞いたことがある。新字に書き直されなければ若い中国人は論語を読めない。毛沢東は論語潰しのために新字を制定したのかもしれない。孔孟老荘を含め、あらゆる文化を抹殺するためには旧字を禁止するのは効果的だ。
毛沢東は秦の始皇帝に匹敵するような大変革をしたのだろうか。始皇帝の焚書坑儒とは新字体を制定しただけのことだったのかもしれない。それだけで次の世代の人は旧字を読めなくなる。そして歴史書に記される大混乱が起こった。毛沢東の改革は第二の焚書坑儒だった。
二千年間字体が変わらなかったから、我々はなんとなく漢字は永遠におなじだと確信を持っていた。じつは五十年以上も昔から日本語の漢字と中国語の漢字は違っていたのだ。カナダやフランス植民地のフランス語はパリでは通じないそうだが、同じことはすでに東京と北京との間で起こっていた。