日本語(2)表絵文字 11/09/2008
言葉を創造する人、つまり日本語の創造者はまづ文学者であろう。それは小説家であったり詩人や歌人であったりする。そのなかには言葉に対するセンスの良さ、知識の該博さに対して脱帽するしかないような優れた人たちがいる。しかし名のある文学者が国字国語審議会の委員になったという話は聞いたことがない。日本文学に関与できないような先生が日本語をいじくり回している。
日本語を改めたい、あるいは滅ぼしたいと考える日本人がいるようだ。反日日本人と呼ばれる人たちで、なぜか要職を占める方法を知っている。普通人には気づかれないように日本語は貶められてきた。大きな方法は漢字制限だった。戦後五十年間になされた漢字排斥の影響は心ある人々を戦慄させた。その先には小学生並みの日本語が予想されたからだ。ところが急速なコンピューターの発達で、漢字制限はまったく無意味なことがわかった。間に合った、僥倖だった。
パラドックスかもしれないが、表現方法を制限された芸術家たちは本来の日本語の潜在能力を漢字以外の媒体を使って爆発させた。それが漫画でありアニメであろう。それは同時にほとんどの日本人が自国語について感じていた誤解を見直す契機ともなった。日本語は表意文字ではなかった。表音文字でもなかった。かなという表音文字のあいだに漢字をはじめとする絵をちりばめた表絵文字だったのだ。
古代の日本人は言霊信仰を持っていたとされる。言霊信仰の概念で、呪文、神話などのおどろおどろしい雰囲気の現象について説明されることが多い。連綿として続いている日本語である、言霊信仰の現代的意味を考え直すのは、自国語を理解する一助になるのではないか。
言霊信仰とは端的に言えば言葉を信仰していないということだ。日本人は言葉ではなく霊を信仰している。信仰するとは仰ぎ見ること、頼りにすること。霊に頼っている。頼ることができるのは、霊が存在していると思っているからだ。
霊とは何だろう。目に見えるものではない。聞こえもしないし触れもしない。しかし古代から日本人は知っていたのだ。言葉で通じるとは単にロジック、論理が交換されることであって、本当の通じ合いではないと。誤解や曲解はいまも日常生活の中でしょっちゅう起こっている。本当に通じ合うためには言葉以前の何かが通じあわなければならない。その何かが霊と名付けられた。
言葉は霊を表現する手段の一つである。言の葉は霊という幹ではない。霊が通じ合うためには言葉以外の方法も使える。源氏物語も、文章だけでなく絵巻物となって広く知られた。漫画やアニメが何の障害もなく発達発展する基礎は、絵巻物の中にすでに具現されていた。その先は音楽、ダンス、武術なども霊の表現方法として理解されるようになるだろう。
外来語の漢字は絵として受け入れられた。横文字、カタカナ語が氾濫する現代日本語は、霊の表現方法が豊かになったと解釈できる。表絵文字にはいつの時代にもどんな言語にも柔軟に対応できる機能が備わっているのではないか。英語が苦手な人が多いのも、英語に全面的に切り替える必要がないからだ。日本語は言霊とともにある。
終わり