宮本武蔵の日本語
名のある雑誌では「西洋思想の超克」とか「西欧文明の行き詰まり」とかのタイトルで座談会がときどき載りますが、いつも肩透かしを食らう。対決だ超克だと言いながら現実は西洋化ばかり。何が日本なのか日本人なのか明確な指摘がない。
明治維新以来日本人は西洋思想を勉強してきた。勉強しすぎてものの見方がすでに西洋発である。学者になるにはフランクフルト学派の先生に逆らえない。日本再生は日本そのものから語られねばならないのではないか。
まず古事記ですが、古事記は聖書ではない。旧約聖書は神と預言者の言葉が書かれていて、一言一句漏らさずナンバーが振られ、研究信仰されている。福音書も疑問を挟める代物ではない。
古事記には製作者の太安万侶が、言い伝えの偽りを削り実を取ると書いている。歴史書か政治文書ではあっても信仰の書ではない。神代編でもイザナギ、イザナミの命(みこと)とされる。命(みこと)は命が繋がっているもの、昔々のわれわれの先祖のことでしょう。神は抽象語で、存在の有無からして問題になる。
天照大神は田植えをし新米を獲て新嘗祭を行われた。蚕も飼い織物小屋をもち機を織られた。そして儀式用の服を自ら縫われ、八百万の神々を敬礼された。「高天原は関東にあった」(田中英道)
歴代天皇がされる新嘗祭や田植えや養蚕などは天照大神がなさったことの「まね」でしょう。別言すれば伝統継承ですが、儀式の中心は「真似」だから、異常心理や超能力が求められるわけではない。平均的な体力と能力の持ち主ならば、出自さえ正しければ就ていただける地位ということになる。
国民にとっては、田植えも養蚕も機織りも社会産業となり日常生活となった。天照大神がされた事業や行動様式を日本国民全体がなぞって来た。古事記をモデルに生活すれば大きな過ちはなかった。天武天皇の偉大な功績です。
天皇は神聖な儀式を通して天照大神と一体となるという宮司さんもいる。見たこともない天照大神と一体になるって?イザナギ神とかスサノオ神とか神の語を多用して偶像崇拝したい人もいるらしい。旧約聖書の解釈に洗脳されているのではないか?
天皇は神武天皇が皇統第一とされ、二千年以上男系男子で継承されてきた。今年は皇紀2678年に当たる。皇室では天照大神は世系第一とされる。世系は系図を作成するときに繋がりがあるという意味で、第一だから最高神の位置づけだが、その存在は皇統が始まる前である。
したがって女系天皇は、女系は天皇ではないという意味でもありえない。名称そのものが矛盾している。有史以来なかった女性宮家を創設しようとする国会議員は、女性宮家創設の意味、数十年後の皇室の見通しを説明すべきだ。
西洋思想は一神教の伝統を踏まえ、日本は多神教の国と言われる。多神教の語は教科書には一言あったがまとまった書を読んだことがない。ヒントをもらおうとネットで検索したら学術書がほとんどない。これでは多神教の国、日本がわからないのは当然だ。ヒントからして自分発になるとは思わなかった。
分かりやすい多神教の例は仏教である。経典を開くと仏の名がたくさん出てくる。まとめて諸仏とされる。さらに仏国土思想があって、宇宙には何億もの国土があり、一国土に一仏がおられる。地球にはたまたま釈迦牟尼仏がおられた。われわれは宗派に分かれて釈尊や阿弥陀仏などそれぞれ一仏を拝む。宗派の中では一神教と変わらない心境になる。じつは諸仏が共存するのが本来の仏教だ。
西洋思想は神が一つで、論理的に一つの絶対正しい真理を求めてきた。ところがプラトンは真理の影しか見えないと言ったし、カントは物自体は認識できないといった。論理の先に真理を認識することは不可能だとわかった。論理は真偽を判断することはできても真理を創造することはできない。
不完全な思想を追いかける体質は日本思想界にとって大問題ではないか。大戦後数十年、マルクス主義の学術書が書店に溢れた。すべてが無価値、クズであった。同じことが学校では別の名前で現在も行われているかもしれない。
印欧語は主語、動詞、目的語の語順である。誰でも知っているように、I like an apple. だ。主語が固定した「 I 」ということには大きな意味がある。I、私は一人だから一神に繋がる。私と世界でまとまった世界観ができる。私を考えるのは意識で、意識の出処は頭で、頭は一つ、脳も一つと、一ばかりだ。独裁者は一人、全体主義は多いように聞こえるが全体は一である。一ですべてまとめて解釈する。創造は一回、一回の受難を起点にして西暦の時間は一定方向に進む。
高級な英仏語ばかり読んでいる学者は日本語に主語がないのが不思議で不満であるようだ。英語公用化論を唱えたり小学生からの英語教育の実験を勧める。彼らはプラトンやカントが真理探しに失敗した事実をどう受け止めるのか。
日本語は主題と叙述が基本形と言われ、真理ではなく真実(真の事実または現実)を問題にする。意識で曇りやすい主語がないのは、事実や現実に直面するときの利点になる。主語と主語が衝突する必要がないから人間関係も円滑に流れやすい。
また仏教の例を出して恐縮だが、般若心経に眼耳鼻舌身意という言葉がある、まとめて六根という。六根は六つの感覚器官で、その中には意(意識)も含まれる。現実に対面するとき意識以外の器官でも感受する。一ではなく多数の器官を通して事実現実と向き合うのが仏教の認識論であり真理論である。仏教も神道も多神教だから、双方の認識論、真理論は共有されうる。
日本の学者や評論家が西洋思想の超克と言いながら解決策が提出されなかったのは、多神教の認識論と真理論を知らなかったからだろう。あるいは見逃したか卑下したか。明治維新以来、ほとんどの学者は、外国発の意識の産物である思想や歴史を翻訳することで飯を食ってきた。そして知らず識らずのうちに洗脳された。
「 I 」をいつも使うせいか、印欧語族の人々は論理に注意を惹かれるようである。仏教は、印欧語族の中でも論理や知識を徹底的に研究してできた教えである。仏教の論理はほぼ完結していて、真理は多神教の原理(諸仏や眼耳鼻舌身意など)で表現される。意識一つだけに目を向ける西洋思想とは異なる。
日本語は真実を求めると言ったが、事実、現実と向き合うということは、言語そのものとしては完結していないといえる。現実と言葉を擦り合わせようとするから相互依存が基本である。見方を変えれば、現実の変化と自己の修行向上に沿って常に生成発展していく機能を内包している。しかも英仏語に比べて表現能力は見劣りしない。
宮本武蔵は生涯で六十回以上決闘した。相手の武器は刀、槍、鎖鎌などが知られているが、手裏剣だって石だって武器になりうる。全身の器官と能力を総動員して、過去を忘れ未来を思わず(無始無終)戦ったであろう。自我や意識を捨てて現実と直面できる日本語は、決闘を乗り切る縁となった。頼れるものは自分ひとり、神仏を敬い神仏を恃まずの心構えは自然だった。それは八百万の神々を礼拝された最高神である天照大神の気持ちに通じる。宮本武蔵もまた天照大神の真似をした。その態度は今も日本人一般に通じる心構えではないかと思う。
五輪書は虚飾を排した武芸における技術書と言われる。それは日本語話者の、まっすぐに現実と向き合う態度に合致する。重要文化財になっている水墨画は、美的感覚と腕の筋肉と気合が渾然一体となって描かれている。多神教には、気合いの認識論、真理論も含まれるようだ。