中半身(3) 01/05/2009
われわれは引力で地球に張り付けになっている、引力を受ける中心として重心が想定される。下半身が意識されるとき、骨盤の辺りに重心を見つけようとしなかっただろうか。そして重心を鍛錬しようとしなかっただろうか。さらに脚下照顧、石橋を叩いて渡る、大地を踏みしめてなどの言葉がのしかかって重さを減ずる発想が起こらない。ほとんどの人が下へ下へと趣向してきた。
重心は水の中では浮心になる。だが実は空気中でも浮心として働いているのではないか。重心という言葉は真理の半分しか語っていないようだ。重心がみぞおちの近くにあると想像したことはあっただろうか。重力だけでは全てが押しつぶされて終わる。強い重力で自分が押し潰されないのはなぜかと自問しただろうか。
尾てい骨は敏感で支点として力が加わると激痛が走る。尾てい骨は直接固体と接してはならない。だから坐禅の時ただ腰を下ろすだけでは尾てい骨を傷めてしまう。安全な座り方は尾てい骨を着地させないこと。そのためには腰を押し上げる気持ちで座ることだ。外からはただ座っているように見えるが、心もちは跳躍寸前の身構えだ。その緊張感が坐相にキリッとした迫力を与える。
身体の動き方を知るか知らないかは人生の送り方に決定的な影響を与える。誰もが十代のうちに正しい知識を持つべきだ。無知少知でうかうかと過ごした時間は取り返せない。気が付いた時は常に遅すぎる。
しかし身学道としては遅すぎることも早すぎることもない。その時その場で最善を尽くすだけだ。歳をとれば身体を重く感じることが多い。さらに齢を重ねるとますます重くなっていくだろう。そのさきは億劫から鬱が待っている。重さではなく軽さで、重力でなく浮力で生活することはますます切実になってくる。
坐相を見直してみる。坐禅は座行だ。低い位置に座っている。見た目から下へ下へと重心を求める傾向はないだろうか。坐禅を始めた頃尾てい骨で押し上げなさいと言われたことはあったのだが、その時は尾てい骨は最下端にあるから重心は下へ行くほど大事で、低いほど良いと思った。また尾てい骨の一点で上体を支え続けるのが要点だと受け取った。先入見と偏見と未経験と無知は恐ろしい。
坐禅の坐は正座や静座の座ではない。座は上に屋根がある。天井でもいいが、すぐ限界に突き当たる。座は上方へは伸びしろがないから下方向へ趣向する。
坐は屋根がない、上方に突き抜けて、限界がない。坐は上にスッと伸びられる、あるいは天から吊り下げられる。
だから静座や正座と坐禅との間には座り方に質的な違いがある。重力で座って沈むか、浮力で天まで背筋を伸ばして坐るか。
普勧坐禅儀には虎が出てくる。躍動の象徴としての虎だから山を我が物顔で駆け巡るとされている。さて、虎が坐禅したらどうなるのか気になっていた。背骨が曲がっているように見えるから坐ったら安定しないだろうところがますます気にかかる。重力でさらに曲がってしまうからだ。しかし天から吊り上げられるとすれば虎でも身軽になって坐れる。
こんなことがなぜ早くわからなかったかというと、中半身があるという視点が欠けていたからだろう。身体は上半身と下半身との二分法だった。下部は力を入れて上の重さを支える、上部は骨盤の上でまっすぐ鉛直線のように落ち着く。下部と上部との繋がりはなかった。身体観も断絶思想に毒されていたようだ。上半身と下半身が繋がるメカニズムがあると想像できなかった。
坐禅はやさしい座行ではない。だから懸命に努力する。それで一つの不安があった。長年やっていると、重力が背骨を押しつぶすのではないかということだ。健康でできるだけ坐るというのでは不十分だ。重力は常に働くからいずれ肉体が負けるのは時間の問題だ。重力に負けない原理はないだろうか。それが解らなければ坐禅は大安楽の法門たり得ない。
中半身の発見は、長年の参究がやっと実ったと言えるかもしれない。尾てい骨で上体を押し上げることは重力に負けない一つの方法である。また天からのロープも知った。何事も学問精進すれば、納得でき安心できる経験と知恵を積み重ねることができる。呼吸法やダイエットなども研究する価値があるかもしれない。
極端なことを言えば安楽で軽々しくなければどんな行も長く続けられない。人の身体は軽くない。何十年も同じ相で座すれば一滴の水が岩を穿つように脊椎や腰を痛めるのは間違いない。だからなんとしても軽、快、楽を追求するしかない。身体が軽くなれば脊椎にも軟骨にもかかる力が減ずる。腰の重力が減る。そうすればいつまでもとはいえないが、永く坐れる。
身体の修行は支点のない軽快な坐法を見つけそれを行ずることのようだ。下半身の重力でではなく、中半身の浮力で坐ることは根本的なヒントになる。体得はできないが、できる可能性は少ないかもしれないが、やっと坐り方の方法と方向性がはっきりしてきた。
終わり