天皇の祈り(3)

天皇の祈り(3) 05/20/2011

昭和天皇が御巡幸を始められたのは敗戦の翌年、昭和二十一年だった。全国が焦土となり、茫然自失となった国民を激励し復興を勧められる目的のもと発願された。
国民とすれば歴史上体験したことのない災難だ。他国から征服者づらした権力者がやってきて勝手に命令し法律を作り乱暴狼藉をはたらく。普通の日本社会なら乱暴者は警察が引っ張っていき裁判にかけ善悪をつまびらかにする。その機能が占領軍によって意図的に破壊された。治安回復とは逆方向の政策が取られた。経済は成長しないように抑圧された。教育制度は子供がバカになる方向で’改革’された。
連合軍兵士の犯罪は捜査できなかった。裁判は連合軍がやった。洗脳と検閲は日常生活で、国民は分断され孤立化した。お互いに疑心暗鬼を抱く社会となった。食うだけで精一杯の日々が続いた。国会は占領軍への支払いを優先し、国民への施策は後回しにされた。公職追放には議員も大臣もなかった。マッカーサーたちは高みの見物で笑っていた。
御巡幸には丸腰の侍従が二、三人同伴するだけだった。敗戦国とはいえ国を代表する元首である、身辺警護するのは常識であろう。最重要人物を危険な状況に晒す、連合軍の底意が示されていた。事前に陛下を貶める情報が新聞やラジオで宣伝され、その上で放り出された。
陛下に出会った人々は感激し、万歳三唱が響き渡った。今上陛下の人気は高まるばかりで、数ヶ月後には御巡幸の中止命令が出された。事態が好転すると邪魔をする、マッカーサー流が露わになった。実際には元兵士などが密かにまた組織的に昭和天皇の身辺警護に当たったという。歴史には表に出ない事柄がある。
昭和天皇にしてみれば、不本意とはいえ国を敗戦に至らせた最高責任者である。天皇の名において数百万の国民が命を落とし、生き永らえた者も負傷、飢餓、離別と塗炭の苦しみを経験した。本音どころか言い訳を聞いてもらえる相手はいない。いっそ恨みの果て暴漢に襲われて死んだ方がマシだと思われなかっただろうか。日本再興は全国民を巻き込んだ命がけの大事業だった。

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ときどき人の不幸を聞くときがある。いろいろあるが、病気になるとか人間関係が悪くなるのが多い。その中で、二十代の一人息子や一人娘を失ったケースがある。手塩にかけて育ててきた掛け替えのない身近な命を失うことの喪失感はいかばかりか。年齢を勘案して慰める言葉もない。
一人っ子を失う悲劇は、現代人の奢りに対する報いではないかと思われる。現代医学は発達した、子供は一人で十分だ、空いた時間は人生を楽しむために使おうなどと余裕たっぷりの人生観に裏切られたのではないか。個人主義、効率主義、資本主義、科学技術至上主義、快楽主義などに頼りすぎたのではないか。事故、病気、自殺などによる破綻を見逃していた側面がある。別の言葉では浅知恵という。
日本人なら古事記に何が書かれてあるか概略は知っておく方が良い。天照大御神が女神で最高神ということは誰でも知っている。そこから美人の神様を礼拝する心持ちが自然に発生する。仰ぎ見る存在で信仰の対象となる。多くの人はマリアさまやキリストと同じように思うだろう。聖なる存在である。しかしそれだけでは一神教になる。唯一神は一人っ子だ
日本は多神教の国であり、古事記は多神教の視点によって書かれた。天照大御神の子孫である天皇は多神教である神道の祭祀長である。一神教と多神教との違いは明確にされるべきだが近年では学者も知らない。
天照大御神は須佐之男命との間に二人の男子と三人の女子を設けたと書いてある。一方の男子の子(孫)が瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)で天孫降臨された。尊は神武天皇の曽祖父にあたる。天皇の系図は一人から一人へ継承されるが、男系男子、万世一系の皇統の裏には常に数人の予備軍があった。瓊瓊杵尊や神武天皇は最適任者として選ばれたのだが、一人っ子ではなかった。
天照大御神の真似をして五人の子供を育てていたら、一人息子や一人娘を失ってすべての生き甲斐を失うという悲劇は起こらなかったであろう。敬虔な信仰心を持つ必要などなく、ただ生き方の真似をするだけで不幸から免れることができた。日本国家全体としても少子化問題などたちまち解消する。
聖典、聖書、経典、教典など世に尊崇される大切な典籍は多々あるわけだが、なぜ聖典と呼称されるか知っている人は少ない。神の本質や存在について思考する形而上学が大事だとのめり込む。論理を駆使し絶対的真理に到達しようと志向する。物語の背景にある歴史的事象や関係を解きほぐす。日常生活から離れて神秘的な体験をしたい。聖典を前にしてわれわれはどうすべきなのか。
道元禅師は正法眼蔵弁道話巻で、仏典の存在意義は、教えの通りに修行すれば道を得られるからだと言われる。この意味を知り実践したい。古事記も聖典だから、ご活躍される神様の真似をすれば、多くの問題が起こる前に芽を摘まれるであろう。
徳川幕府は将軍家のほかに水戸、尾張、紀州の御三家を置いた。直系が絶えると藩屏の御三家から連れてきて将軍にした。天皇と皇族との関係を真似ている。経済はコメ本位制で回した。天照大御神の大八洲を瑞穂の国にせよとの詔勅を具体的に実行した。徳川幕府が十五代、二百五十年の平和を築いた原因は古事記をはじめとする古代からの日本の智慧を摂り入れたことにあった。

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