里山文明

里山文明

「ポツンと一軒家」テレビシリーズがユーチューブにあるのを知った。一作ごとに偶然と未知の物語が展開され、興味深い事柄が映し出される。教えられることが多い。孤立した一軒家の物語は日本を映し出している。

愛知県の今泉さんの話は面白かった。最初に現れたときは下草刈り中だった。
「下草刈りは林や花などに日が当たるようにする作業だ。草刈りの最中も神経を研ぎ澄ませている。ツツジなど自生している花や草木を残す。数年すれば花が咲き乱れる山になる。種など買わない、自然の可能性を伸ばすだけだ。」
「人間が手をつけないのが自然ではないですか。」
「いや里山文化から見れば、生活の中で間伐をし花木を保護してその結果できたものが自然だ。何もせず草ぼうぼうのままほったらかしているのは自然ではない。」

今泉さんは江戸時代から続く里山文化を子供のころから肌身で体験した。田畑を作り、家の裏は山だった。近所の人も一緒に薪をとったりキノコや山菜を採った。山が荒れないように定期的に間伐した。頻繁に人が山に入り、動物の方も棲み分けて村に降りることは少なかった。里山が自然を作った。
他の動画でも秀逸な話が出てくる。和歌山県で若夫婦が田の草取りの助けにしようとヤギを飼っていた。子が生まれた。白い親ヤギから黒い子ヤギが生まれた。珍事件として新聞に載った。新聞を読んだ人がレポーターに訪問することを勧めた。訪れてみると驚くべき展開になった。
静岡県の茶畑で黄色い絨毯が覆っているような写真があった。やっとたどり着いた場所では、緑の茶畑と黄色の茶畑が並存していた。聞いてみると、一枚の黄色い茶葉を見つけたことから始まった。挿し木して増やし試しに飲んでみると香りが甘い。緑茶より栄養分が濃い。甘くて、飲みすぎると胃を壊す。飲み方食べ方から工夫し、炒ったり蒸したり製品化を考えた。県の一等級銘茶と認定された。
突然変異と言われるが、植物も動物も変異種が現れるのは珍しくないようだ。普段は見逃すのだが、見える人には違いが見える。功利主義からではなく興味が湧いて育てようとする人は少なくない。何億枚の葉っぱの中から一枚の黄色い葉っぱを見いだすのは研ぎ澄まされた感性の持ち主だろう。
茶畑を耕作しながら黄色茶を見出したように、先人は桜の変種も見出した。多数の異なる桜があるのは里山文化が日本中に根付いていたせいだ。人々がこぞって新種を見つけようとした。八百屋へ買い出しに行かなくとも、自生の山菜を収穫できる。その中からじゅん菜や大根やネギなどに成長した。錦鯉や金魚の種類の多さはは芸術的だ。稲も同じようにして発見され栽培されてきたのではないか。
人は一人では生きられないとはよく聞く言葉だ。普通は人はお互い支え合って生活が成り立つという意味に理解する。実は土も水も山も動植物もお互いに助け合って生きている。自分が生きるとは環境と共に生きることで、それを里山文化と言った。山への入り口には鳥居が建って神社があり、鎮守の森と言われた。それが日本全国にあった。日本は和の国、神道の国だった。
人と人だけでなく人と周囲の環境は切り離せない。家族は夫婦が元になる。個人としての男と女なら切り離せられるが、夫婦と家族は概念として一体だ。仏教はお釈迦様個人の苦しみから始まったが、依正不二論の結論に至った。依報(周囲環境)と正報(自己)とは分けられない。里山文化は里と山が一体の生活方法論だ。
動かない花や野菜だけでなく山には狼やイノシシや鹿もいる。彼らも餌が欲しい。時に里に降りて畑を荒らす。人間の側としては退治せざるをえない。猟友会が村や町にある。里山文化の徒としては山と里は血を流さず共存共栄したい。本意に背く殺生には懺悔と報恩感謝の念を表す。そのため一年に二、三回お寺で法要をする。その場面も放映された。
縄文遺跡の発掘はここ五十年で長足の進歩を遂げた。最古の土器は二万年ほど前に遡る。集落のそばには漆や栗の木が植えられていた。大木を伐り家を建てた縄文人が野菜を栽培しなかったはずはない。縄文文明とは里山の文明でもあった。大昔から日本人は里山文化を実践し続けてきた。
日本の里山文化は、自然の中から悪いものは退け良いものを守り育てる。その結果出現するのがお互いに持続可能な自然だ。里と山は一つであるという世界観だ。縄文文明は栗と漆と貝の時代から里山文化だった。邇邇芸命と木花佐久夜毘売のクニ、神武天皇朝、万世一系の天皇が知らすのは縄文時代から一貫して里山文明だった。

里山文明と言った日本人学者はいない。いわゆる学者は西洋の論文を読んで飲み込むのが学問であり出世の道と心得ている。そして西洋に里山文化はなかった。
手をつけない雑草だらけの草原と聞いて思い起こすのはイギリスだ。見渡す限りススキのような草だらけで森が見えない。芝生にしても一種類の草だけで、お城のような広大な芝生もひたすら刈り続ける。人が快く生きるために花も木の芽もすべて刈り取る。ただ一色の綺麗な芝生、人工的な庭園。見事な一面性、単純性だ。
アメリカがイラクを攻撃した時クルド族が独立目指して立ち上がった。クルド人女性兵士が気勢を挙げている写真があって、背景に草原が写っていた。雨が降るんだ。聖書には人がライオンと戦った話が出てくる。クルド族の地方は一万年前にはゾウやライオンがいたと思われる。近くにレバノン杉で有名な国があるが、ローマ時代すでに軍船や商船を作るために切られていた。今や消滅寸前というが、杉が消滅すれば沙漠になる。なぜ植林しなかったのか。里山文化がなかったからであろう。
トマト、ジャガイモ、タバコ、トウモロコシ、かぼちゃ、ナス、無数の豆類、
現在我々が食している多種多様な食材は、日本を除けば新大陸原産ばかりである。
西洋原産ってなんだろうかと考えたとき、小麦、大麦、ライ麦くらいしか思いつかない。地中海沿岸ではオリーブやイチジク。馬に牛、羊とヤギは肉食文化、牧畜文化を生んだ。馬を乗り回す、牛や羊をコントロールする、肉、乳、皮など主に動物の扱いに気が回った。草は動物が食べられればよい、木は伐るだけ。
西洋の近代思想(実はずーっと)は自己中心主義だ。自己と他者を峻別する。周りの自然は他者だ。したがって純粋な自然とは手を加えない密林や草ぼうぼうの地だ。純粋な自己もまた他者から侵入干渉されない個人である。人と自然は分断する。日本の学校では西洋思想と西洋文化ばかり教える。これが、レポーターが「手を触れないのが自然ではないですか。」と言った背景だ。
人は正直でもいられるが嘘を言う可能性もある、いつ裏切るかわからない。人間は完全でも真理でもない。自然は嘘をつかない。嘘を言う人間が手をつけたら自然が不自然になる、不真理になる、汚れる。
「はじめに言葉ありき」(新約聖書、ヨハネ伝)とはよく言ったものだ。自分と他者、自分と社会、自分と世界のように、はじめに言葉を定義すると自己と世界との分断が決定的になる。そして自分と自然も隔絶される。西洋の学問は生活から始まったのではなく、観念、言葉、論理から始まった。言葉が峻別した自己と自然を実際の自分と自然だと思い込んだ。

英語では自然の哲学と実践のように表現する。哲学は言葉で表現する理念だ。言葉だけでは生活にならないから実践を加えて行動になる。まず言葉が自己と他者を分けるから後で統一する作業が必要だ。言葉も生活も自然も分断される。
西洋個人主義の自然と里山文明の自然とは明らかに異なる。里山文化は縄文時代から日本人が実践してきた。初めから終わりまで多様性そのものの里山文化だが、生活から出発するから一語ですべてを表すことができる。
日本の根本問題は偏頗不完全な西洋学問への崇拝がすぎることだ。西洋風ライフスタイルが上等と思い込んでいる。そのため創造発展の方法である里山文明を忘れようとしている。学校を信頼しアスファルトとビルの都会に生活すれば、里からも山からも切り離される。自然を失い自分も失う。
「ポツンと一軒家」シリーズを見よう。

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