MUJHSE DOSTI KAROGE! (3) 06/28/2011
MUJHSE DOSTI KAROGE! の主題歌はハミングだ。全編を通して様々に編曲しながら何度も流れる。どれも魂が洗われるような、同時に生きる力が湧いてくるような清冽な響きがする。
ハミングを横たわりながら真似するのは難しかった。何度も試してなんとかトーンは手に入れたが、力強さと柔軟さはどうしてもモノにならない。発声法がわからないからだろう。
体力回復のためにジムで走り始めたとき、呼吸法を知らないことに気がついた。すぐ苦しくなる。走りながらハミングを試してみた。すると吐くとか吸うとか考える必要がなくなり途端に楽になった。映画の主題歌は呼吸のリズムにぴったり合っていた。生命のリズムに合っていたというべきか。
ハミングを聴きながら、妙法蓮華経にある「此の経を誦する者は記を受く。」という一節を思い出した。誦すとは声に出して文章を読むことで、誦経と書けばお経を声を出して読むことだ。お寺でときどき僧侶が集まって経典を読む儀式がある。記を受くとは漢文では受記だ。記は未来に成仏する約束のことで現在の修行が間違っていないことを証明する。妙法蓮華経を声を出して読む者は未来に成仏する。
お経は文字で書いてある、ほとんどは漢字だ。漢字を読むということは、日本人は普通には目で読む、黙読する。だからお寺で読経するとわざとらしく見える、芝居しているのではないかと。この辺り、雑行雑修と笑われることがある。
黙読は目と脳の働きですむ。声を出すにはまず喉の筋肉が動く必要がある。発声には頭、口、鼻、喉、胸、肺、背骨から腹の筋肉の動きまで関係している。美声、正声を出すにはどうすればよいか。全身の筋肉から感情まで関与することになる。正しい誦経をするには完璧な発声が肝要で、実際にはそんなことができれば仏にもなれるということだ。
他の映画を見ると、インドでは古くから歌いながら教理を覚えたり、先生の恩を称えたり、神々や弓矢や剣の徳を拝んだりしている。武芸も音楽とともに学び、文章も声を出して学習するのが伝統のようだ。
印欧語は表音文字と言われるが、文字より先に音声が来る。彼らは声に出すことを恐れない。発声は全身運動である。口数が少ないというだけで運動量が足りないという考え方もありうる。映画の主題歌であるハミングが自分の人生観を変えたというのは大袈裟ではない。
翻って日本人に引っ込み思案が多いのは日本語が表絵文字だからだろう。声を交換して知識や意味を伝えるのではなく、絵を見ることによって理解するのが基本だ。文章だってひらがな、カタカナ、漢字と書き分ける。文章が絵になっている。よくも悪しくも絵に頼りすぎるところがある。
インドの音楽はベーダ文学の頃からの伝統で、五千年以上の歴史を持つと教えてくれた人もいる。待てよ、インドには歴史が無いと学生時代に哲学思想としてよく聞いた。歴史が無い思想があるというのだ。あれはなんだったのか。単なる嘘だったのかもしれない、偏見や誤解だったのかもしれない、学者が研究しなかったのかもしれない。
マハーバーラタという物語がある。1990年頃インドでテレビ放送された。放送時間には街から人影が絶えた伝説を持つ。一年を通して放送され、インドの魂をインドの放送局が描ききった。画像はぼやけているが、かえって重厚さが漂う。16枚の DVD に納められて見終わるには六十時間かかる。
原作は国民的叙事物語で五千年前頃に作られ、時間の経過とともに増補修正が繰り返された。ストーリーは多彩で甚深、数々の場面で人間の深層心理が抉り出される。マハーバーラタからは学術論文が何本書けるかわからない。インド人はそれほど充実している内容を頭の中にいれて生活している。現実を見てもほとんどの事柄は物語の中で語られ解決されたことばかりだ。彼らが落ち着いて見えるのも腑に落ちる。
第二次大戦後、日本だけが悪事をしたと決めつけられ洗脳されたものだが、インドについても同じようなことが外国勢力からされているのかもしれない。真相はこれからインド人自身が明らかにするだろう。何しろ世界一雄大な最古の物語を共有している人々の国なのだ。
インドの映画ではめでたいことがあると当人にお菓子を食べさせる。口を開けているところへおめでとうと言ってお菓子を放り込む。儀式になっている。我が手で食べるのではない。初め違和感があった、アメリカでは不可能な行動だ。慣れてくると、お布施の原型を見ているのかと見直した。人に与えるのが当たり前にできる社会がインドだった。だから仏教の第一の教えは布施であり得たし、仏教徒は托鉢しながら貰い物で生きることができた。西洋近代思想である唯物論、孤人主義、資本主義、マルクス主義と、学校で習ったことはことごとく掠奪思想だった。
インドに行ったことのあるアメリカ人は多い。至る所で力強い音楽を聞いたそうである。周りに迷惑かけないようにヘッドフォンをつける感覚とは異なるようだ。映画では超ミニスカートを着ているのだが、普通の風俗だという。村では象が悠々と散歩している。映画はただのフィクションじゃなかった。
MUJHSE DOSTI KAROGE! は十五年間の物語である。その間ずっと想い続けた方が結婚にたどり着く筋書きになっている。これは因果応報、因縁果の法則でもある。ある本には、インド人は因果律を思考すること先天的と言ってもいいくらいだとあった。たしかに他のボリウッド映画でも時間軸が長く因果律を踏まえている。観客が結果を納得しやすい。ヒンズー文明から生まれた仏教は因果律を基礎に置く。
ロミオとジュリエットが二、三日の事件なのを始め、洋画で因果律を強く意識した映画は少ない。それより因果関係をくらませる物語が多い。爆発が多用されるのは一例だ。インド人が数理に強く、ハイテク産業で重要な役割を果たしているのは、因果の論理が骨に染み込んでいるからに違いない。
音楽とダンスで映画は始まるのだが、ヒップホップダンスに似ているのでえっと思った。最初のボリウッド映画だから違和感ばかりではあった。後でボリウッドダンスがあるのを知った。近くの大学では学生相手のサークル活動もあった。ダンスは体を動かす間に楽しくなり健康になる。社交ダンスだけでなくベリーダンスやヒップホップなど幸せを演出するには手っ取り早い。そしてボリウッド映画はあらゆるダンスを取り入れようと努力してきた。
映画は最先端の大衆芸術だから国の勃興期には健康で明るい名作が製作される。アメリカでは1930年代に’風と共に去りぬ’ができた。空前絶後のヒット作で興行収入では時価換算で今でもダントツの記録を保持する。フレッド アステアとジンジャー ロジャーズのタップダンスの数々の映画も同じ頃作られた。大恐慌のさなかでも人々は明るい健康な映画を見ながら気分を奮い立たせた。
ボンベイで次々と大作が作られるのは国の興隆期だからだろう。画面に一万人以上が映ったり、数千人のダンスがあったり、二百頭の象軍が出てくるなどスケールが大きい。砂漠、川、山と知らなかった亜大陸が紹介される。何よりも台詞が多い。インド人がいかにお喋りかわかる。表音文字の国で言葉の本が音だという背景が映画芸術にぴったりあっている。
興味が次々と湧いて数々のボリウッド映画を梯子した。それでも MUJHSE DOSTI KAROGE! は最高傑作だ。此の映画は恋愛とは何かという永遠の課題に取り組んだ。因習や暴力や悲劇で誤魔化すことなく、愛の論理だけで原因と結果を追求し、そして成功した。明るく健康で希望を与える映画だ。
インド人は世界で唯一、知恵とは何かと問題提起し追求した。その解答者としてヒンズー文明を超えた釈尊が現れ、大乗仏教をも起こした。恋愛を扱うくらいはむしろ娯楽の一つだったと言えよう。
終わり