MUJHSE DOSTI KAROGE!(3)

MUJHSE DOSTI KAROGE! (3)     06/28/2011

MUJHSE DOSTI KAROGE! の主題歌はハミングだ。全編を通して様々に編曲しながら何度も流れる。どれも魂が洗われるような、同時に生きる力が湧いてくるような清冽な響きがする。
ハミングを横たわりながら真似するのは難しかった。何度も試してなんとかトーンは手に入れたが、力強さと柔軟さはどうしてもモノにならない。発声法がわからないからだろう。
体力回復のためにジムで走り始めたとき、呼吸法を知らないことに気がついた。すぐ苦しくなる。走りながらハミングを試してみた。すると吐くとか吸うとか考える必要がなくなり途端に楽になった。映画の主題歌は呼吸のリズムにぴったり合っていた。生命のリズムに合っていたというべきか。
ハミングを聴きながら、妙法蓮華経にある「此の経を誦する者は記を受く。」という一節を思い出した。誦すとは声に出して文章を読むことで、誦経と書けばお経を声を出して読むことだ。お寺でときどき僧侶が集まって経典を読む儀式がある。記を受くとは漢文では受記だ。記は未来に成仏する約束のことで現在の修行が間違っていないことを証明する。妙法蓮華経を声を出して読む者は未来に成仏する。
お経は文字で書いてある、ほとんどは漢字だ。漢字を読むということは、日本人は普通には目で読む、黙読する。だからお寺で読経するとわざとらしく見える、芝居しているのではないかと。この辺り、雑行雑修と笑われることがある。
黙読は目と脳の働きですむ。声を出すにはまず喉の筋肉が動く必要がある。発声には頭、口、鼻、喉、胸、肺、背骨から腹の筋肉の動きまで関係している。美声、正声を出すにはどうすればよいか。全身の筋肉から感情まで関与することになる。正しい誦経をするには完璧な発声が肝要で、実際にはそんなことができれば仏にもなれるということだ。
他の映画を見ると、インドでは古くから歌いながら教理を覚えたり、先生の恩を称えたり、神々や弓矢や剣の徳を拝んだりしている。武芸も音楽とともに学び、文章も声を出して学習するのが伝統のようだ。
印欧語は表音文字と言われるが、文字より先に音声が来る。彼らは声に出すことを恐れない。発声は全身運動である。口数が少ないというだけで運動量が足りないという考え方もありうる。映画の主題歌であるハミングが自分の人生観を変えたというのは大袈裟ではない。
翻って日本人に引っ込み思案が多いのは日本語が表絵文字だからだろう。声を交換して知識や意味を伝えるのではなく、絵を見ることによって理解するのが基本だ。文章だってひらがな、カタカナ、漢字と書き分ける。文章が絵になっている。よくも悪しくも絵に頼りすぎるところがある。

インドの音楽はベーダ文学の頃からの伝統で、五千年以上の歴史を持つと教えてくれた人もいる。待てよ、インドには歴史が無いと学生時代に哲学思想としてよく聞いた。歴史が無い思想があるというのだ。あれはなんだったのか。単なる嘘だったのかもしれない、偏見や誤解だったのかもしれない、学者が研究しなかったのかもしれない。
マハーバーラタという物語がある。1990年頃インドでテレビ放送された。放送時間には街から人影が絶えた伝説を持つ。一年を通して放送され、インドの魂をインドの放送局が描ききった。画像はぼやけているが、かえって重厚さが漂う。16枚の DVD に納められて見終わるには六十時間かかる。
原作は国民的叙事物語で五千年前頃に作られ、時間の経過とともに増補修正が繰り返された。ストーリーは多彩で甚深、数々の場面で人間の深層心理が抉り出される。マハーバーラタからは学術論文が何本書けるかわからない。インド人はそれほど充実している内容を頭の中にいれて生活している。現実を見てもほとんどの事柄は物語の中で語られ解決されたことばかりだ。彼らが落ち着いて見えるのも腑に落ちる。
第二次大戦後、日本だけが悪事をしたと決めつけられ洗脳されたものだが、インドについても同じようなことが外国勢力からされているのかもしれない。真相はこれからインド人自身が明らかにするだろう。何しろ世界一雄大な最古の物語を共有している人々の国なのだ。

インドの映画ではめでたいことがあると当人にお菓子を食べさせる。口を開けているところへおめでとうと言ってお菓子を放り込む。儀式になっている。我が手で食べるのではない。初め違和感があった、アメリカでは不可能な行動だ。慣れてくると、お布施の原型を見ているのかと見直した。人に与えるのが当たり前にできる社会がインドだった。だから仏教の第一の教えは布施であり得たし、仏教徒は托鉢しながら貰い物で生きることができた。西洋近代思想である唯物論、孤人主義、資本主義、マルクス主義と、学校で習ったことはことごとく掠奪思想だった。
インドに行ったことのあるアメリカ人は多い。至る所で力強い音楽を聞いたそうである。周りに迷惑かけないようにヘッドフォンをつける感覚とは異なるようだ。映画では超ミニスカートを着ているのだが、普通の風俗だという。村では象が悠々と散歩している。映画はただのフィクションじゃなかった。
MUJHSE DOSTI KAROGE! は十五年間の物語である。その間ずっと想い続けた方が結婚にたどり着く筋書きになっている。これは因果応報、因縁果の法則でもある。ある本には、インド人は因果律を思考すること先天的と言ってもいいくらいだとあった。たしかに他のボリウッド映画でも時間軸が長く因果律を踏まえている。観客が結果を納得しやすい。ヒンズー文明から生まれた仏教は因果律を基礎に置く。
ロミオとジュリエットが二、三日の事件なのを始め、洋画で因果律を強く意識した映画は少ない。それより因果関係をくらませる物語が多い。爆発が多用されるのは一例だ。インド人が数理に強く、ハイテク産業で重要な役割を果たしているのは、因果の論理が骨に染み込んでいるからに違いない。

音楽とダンスで映画は始まるのだが、ヒップホップダンスに似ているのでえっと思った。最初のボリウッド映画だから違和感ばかりではあった。後でボリウッドダンスがあるのを知った。近くの大学では学生相手のサークル活動もあった。ダンスは体を動かす間に楽しくなり健康になる。社交ダンスだけでなくベリーダンスやヒップホップなど幸せを演出するには手っ取り早い。そしてボリウッド映画はあらゆるダンスを取り入れようと努力してきた。
映画は最先端の大衆芸術だから国の勃興期には健康で明るい名作が製作される。アメリカでは1930年代に’風と共に去りぬ’ができた。空前絶後のヒット作で興行収入では時価換算で今でもダントツの記録を保持する。フレッド アステアとジンジャー ロジャーズのタップダンスの数々の映画も同じ頃作られた。大恐慌のさなかでも人々は明るい健康な映画を見ながら気分を奮い立たせた。
ボンベイで次々と大作が作られるのは国の興隆期だからだろう。画面に一万人以上が映ったり、数千人のダンスがあったり、二百頭の象軍が出てくるなどスケールが大きい。砂漠、川、山と知らなかった亜大陸が紹介される。何よりも台詞が多い。インド人がいかにお喋りかわかる。表音文字の国で言葉の本が音だという背景が映画芸術にぴったりあっている。
興味が次々と湧いて数々のボリウッド映画を梯子した。それでも MUJHSE DOSTI KAROGE! は最高傑作だ。此の映画は恋愛とは何かという永遠の課題に取り組んだ。因習や暴力や悲劇で誤魔化すことなく、愛の論理だけで原因と結果を追求し、そして成功した。明るく健康で希望を与える映画だ。
インド人は世界で唯一、知恵とは何かと問題提起し追求した。その解答者としてヒンズー文明を超えた釈尊が現れ、大乗仏教をも起こした。恋愛を扱うくらいはむしろ娯楽の一つだったと言えよう。
終わり

MUJHSE DOSTI KAROGE!(2)

MUJHSE DOSTI KAROGE! (2)             06/28/2011

MUJHSE DOSTI KAROGE! は青春映画、純愛映画として最高傑作である。永遠に残る名作だ。中休み場面の図柄は目の裏に焼きつく。若い美男美女三人の物語でかっこ良すぎるけれども、人生を考える時の良いモデルになる。
ハリウッド映画に代表される洋画には恋愛映画はどう位置づけられるのか。永遠の純愛映画としてロミオとジュリエットも撮られた。ロミオとジュリエットはシェイクスピアの三大悲劇の一つとされている。恋人になる二人は街の中で対立する金持ちの二つの、それぞれの名家に生まれた。抗争を設定された中で若い二人が恋に落ちる。敵対と結び付きの相反するベクトルの中では悲劇の結果しかない。最高の純愛は死に至る法則でもあるのだろうか。
悲しい物語だから悲劇なのだが、悲劇の原因は二大名家の抗争である。既存の家同士は過去の因縁を引きずってきた。若い二人の出現は既存秩序の破壊である。同時に希望の星である。希望の星を死に追いやる既存体勢は悪だ。悪は断絶すべきである。恋愛物語から革命暴力思想が誕生した。
ウェストサイド物語はロミオとジュリエットの翻案で、ハリウッド映画の最高傑作だ。オリジナルと同じように抗争の末二人が死に、アントンが撃たれる。マリアが立ち去って純愛は悲劇で終わる。西欧近代文明の本質を表しているのだろうか。
純愛が純愛として完結する MUJHSE DOSTI KAROGE! は西欧近代文明に対するアンチテーゼに見える。インド人は唯心論者である。唯物論のような未熟な思考法は数千年前に卒業している。ハリウッドが気がつかない間に、映画の都を凌駕する質の高い映画が製作された。
この映画でも恋愛結婚願望は語られる。若い男女が惹きつけられるわけだから恋愛が問題になるのは当然だ。それでも物語の筋を追っていくと見合い結婚のプロセスに似ている。いつも三人の両親が見守っている。若人たちも家族の絆と友情関係を維持しようと心を砕く。暴力はない、策謀もない、親との家族関係はそのまま。若い世代がヒンズー教の儀式で結婚して新しい家庭が作られる。
「恋愛結婚は安物だ!」映画を見終わった感想だった。するとキスの氾濫に辟易したはずのアメリカ人が、「それは公言しないほうがいいよ。」と言った。恋愛結婚は純愛の悲劇と同じように西欧社会にとって必需品なのだろう。彼の言葉で再確認できたのは、西欧文明は個人を素にした文明だということだ。
個人は孤人でもある。孤独な個人同士だから各人が結婚相手を見つけなければならない。見合い結婚する思想も環境もないし実例もない。恋愛結婚の可能性しかないと条件づけられている。恋愛結婚という甘美な響きを最高と思わせるために見合い結婚は前時代的、強制的と貶めた。
アメリカにもメロン財閥やロックフェラー、ヴァンダービルトなど大金持ちがいる。彼らの子弟たちが恋愛結婚したとは聞かない。政略結婚は聞いたことがあるが、要するに見合い結婚だろう。富豪の家族は子供を最大限保護して面倒を見、子供もまた成人して富裕な保護者社会の中で結婚相手を見つける。見合い結婚はカネがかかる。日本だって裕福な家族は結婚まで面倒を見る。
恋愛結婚は貧乏人の手軽な結婚方法ということになる。学校で習った頃は、見合い結婚は旧弊な制度で、恋愛結婚こそ近代的理想的という二分法だった。日本では第二次大戦後も見合い結婚が多かった。伝統的と貶められたが、見方を変えれば、西欧社会では大富豪しかできないことを一般庶民が実践している贅沢ではなかったか。
見合い結婚は家族や複数の人々が二人の結婚に関わる。相応の出費もある。お互い社会人としての常識を持つことも要求される。話し合いと付き合いをしているうちに人生観も修正されまともになる。困難に直面するときの対処方法も学んでいく。結婚生活には純愛だけではなく慈悲心の自覚も必要だ。大人の誕生だ。
今の日本では恋愛結婚しか語られない。十代、二十代の男女に何がわかるだろうか。自分とは何か、相手は本当はどんな人か、子供はどうする、親との関係は、将来の見通しは、などなどわからないことばかりだろう。
多くの青年男女はいつの世も世間人生の事柄に精通していない。そんな状態で一人で生活を支え、一人で相手を見つけて結婚まで持っていくのは大変だ。親も自由だ、自己責任だと言って干渉せず助言しないのが普通だろう。孤人社会の到来だ。誰が孤人社会を望んだのか。大新聞か、学校か、近代思想か、外国勢力か。
以下の話は英語のサイトから見つけた。
”アメリカで長年仕事しているインド人のハイテク技術者が、友人の息子の結婚式に招待されたので故郷に帰った。式場についてすぐ、花嫁は低いカーストの出身であることに気がついた。それで友人にカーストの件を指摘し、この結婚は大丈夫かと尋ねた。するとその友人は、「息子はモルガンスタンレーで働いている、花嫁はゴールドマンサックスだ。どちらも超一流の銀行、同じカーストだよ。」と答えた。”
インドといえば生まれで差別する厳しいカースト制度が想像されるが、実態は融通無碍の面もあるらしい。参列者によると、インド人の結婚式では四日間踊り明かすそうである。華美を慎めなどは笑い飛ばされる。だから結婚式ビジネスが栄える。単独で費用を捻出するのは大変だが、持ち回りで助け合いながら付き合いが続く。
ボリウッド映画は踊りと音楽の比重が大きい。踊りは一流で、盆踊りのように大勢の人が参加する形式が多い。画面からは楽しんでいるだけに見えるが、実際は長年の練習が必要らしい。披露宴で映画の真似をしようとする人も現れる。映画が社会の慣習を後押しした。子供たちはダンス教室に通うのが当然だという。

MUJHSE DOSTI KAROGE! (1)

MUJHSE DOSTI KAROGE! (1)        06/28/2011

MUJHSE DOSTI KAROGE! はインド製映画、ボンベイの資本家が作るのでハリウッドと掛けてボリウッド映画と称される。ハリウッドより製作本数が二倍多い。その中の一本だが、観た途端人生観、世界観が一変した。昔の日本人で妙法蓮華経を読んで人生が変わった人は少なくない。そんな運命的な出会いを感じた映画である。
2009年の秋、肩を痛めて仕事ができなくなっていた九月の末、ゴミ捨て場で一本のビデオテープを拾った。それは DVD のコピーで、 MUJHSE DOSTI KAROGE! とタイプしてあった。ローマ字だが意味がわからない。英語でもなさそう。いろいろ探ってみて、ヒンズー語で「わたし、ともだち、する」に対応すると教わった。表面的な解釈だが、意味は「友達でいてくれる?」だ。
物語は十才くらいの少年 RAJ が、幼なじみの TINA および POOJA の二人とシムラというインドの駅で別れるシーンから始まる。RAJ の父親はロンドンへ行ってインターネット関連のビジネスを起業し成功する。インドってこんなに明るいのかとびっくりするくらい色彩が鮮やかだ。
十五年が経ち、青年に成長した美男美女が再会して恋愛ドラマをくり広げる。製作は2002年で、主役は三人とも二十代。今はボリウッド映画を代表する男優女優が初々しい演技をする。はずであるが、どうしてあんなにきめ細かく役になりきって完璧な演技ができるのかとため息が出るほど上手だった。演技は単なる物真似だと思っていたが、深い理論と修練と意味があるのだろうと気付かせられた。最後はヒンズー教寺院で結婚式、味のあるハッピーエンドで終わる。
激痛で座って居れず、寝転ぶことしかできなかった時期である、毎日観た。二回三回見ることもあった。三ヶ月経てば九十回。その後も DVD を買って時間があれば見たから二百回は見た。セリフや顔の表情や小さな仕草まで覚えてしまった。それでも見飽きない。五十肩の痛みがなくなっても見た。病弱だったから慰められたというだけではなかった。
二百回も見たということは驚きがいっぱいあったということだ。好きだけでは十回以上は難しい。同時に自分は気狂いかとも疑った。そこで会う人ごとに印象を話し鑑賞を勧めた。感想を聞いたり反応を確かめたりして自分の正気と狂気を知ろうとした。映画を語れるか、芸術を語れるかのテストになった。さすがに微に入り細にわたって説明する人はいなかったが、誰もが良い映画だと称賛した。自分の価値観、善悪の基準も的はづれではないと安心した。ちなみにアマゾンのレヴューでは星五つ、人気最高だった。それでも世間ではマイナーな存在だ。
インドの映画に関してはそれまで二つのことしか知らなかった。ハリウッドより製作本数が多いことと、キスシーンを禁じられていることである。二十年ほど前に朝日新聞で、キスする寸前で場面が転換する映画を見てインド人は興奮していると書いた記事があった。キスもできない映画とは随分前近代的で遅れているなと思った。その記事はボリウッド映画に嫌悪感を抱かせるプロパガンダだったかもしれない。見てみようかという興味は起こらなかった。
五十代のナタリアというおばさんにあった。ラトビアにいたロシア人だというが、二十年ほど前にアメリカに移民してきたという。似たような名前でナターシャが「戦争と平和」に出てきますねというと、「私の本名はナターシャでナタリアはニックネームです」といった。ボリウッド映画を知っていますかと聞くと、「私はボリウッド映画の大ファンです。ソ連はインドと良い関係だったので、インドの映画がたくさん輸入された。十代の頃はボリウッド映画ばかり見ていました。インドの俳優は英雄でした。」英雄は ‘HERO’ の訳だが、大人物というより憧れの人という意味合いが強い。大好きだったそうである。
いわれてみればソ連製作の映画なんて「戦争と平和」以外聞いたことがない。それも退屈極まるという評判だった。共産主義の国に娯楽なんてあるのだろうか。国が手がけるのは思想政策の宣伝と洗脳ばかりのようだ。そんな行き詰まるような社会にインド製の映画だけは洪水のように輸入された。インドはソ連製の武器輸入国だったのだが、代わりに苦手な娯楽映画を供給してくれる得難い国だった。
長期間、一国、社会を治めるには人々の間に娯楽は欠かせない。そのことを資本論も共産党宣言もマルクスもレーニンもスターリンも言及しなかった。さあどうする。ユーモアも笑いもない恐怖生活では人々の不満は鬱積するばかりだ。しゃちこばった左翼思想家と政府に民衆を思いやる余裕はない。そこで政府の役人も観たのだろうが、ヒンズー文明の叡智を借りることになった。
MUJHSE DOSTI KAROGE! ではキスしない。そのことをアメリカ人はみんな気づいた。ご法度を馬鹿にするものもいた。ところが一緒に鑑賞した一人が言った「キス無しでこんなに深い愛情表現ができるとは驚きだ。ハリウッド映画はキスばっかりでうんざりする。何の感興も余韻も残らない。われわれは何か大切なものを失った。だいたいキスしてしまったらその後何をするんだよ。」
アメリカ人もソ連と同じように実は唯物論の民だ。キスが愛情表現の公式になった。公開される映画ごとにキスが氾濫する。千年前の中世が舞台でもギュッと唇を押し付ける。時代考証しないのだろうか。フレンチキスは二回する、イタリアは三回、もっと東へ行くと四回だそうだ。日常の挨拶様式になっている。人にあったら、またキスかとドン引きする人もいるという笑い話を聞いた。
唯物論文化圏では物と物とが接触するのがよほど大事なのだろう。ソ連では書記長や首相など国のトップクラスのリーダーたちが抱き合っている写真がよく配信された。異様に見える。日本はお辞儀、仏教は合掌が公式の挨拶である。ボリウッド映画には夥しい人が登場するが、キスはおろか抱擁も無い。上品に見える理由の一つかもしれない。
MUJHSE DOSTI KAROGE! では顔の表情や知的な会話で若い男女の心理を鮮やかに表現している。この点からもキスシーンは必要なかった。キスシーンの禁止は映画産業にとって死活問題ではなかった。知性で勝負するという余裕があったのではないか。インドは唯心論の国だ。キスしなくたって服装、音楽、ダンスなど表現手段は無数にある。映画も三界是れ唯心作だ。映像も物を映すようでいて、本当はココロを表現している。
唯物論のハリウッドではキス場面は必需品だった。そして必需品なしの製品は欠陥品だと理由もなく思い込んだ。日本の大新聞も唯物論者だからココロの深さを想像できなかった。想像できないほど知性がないからボリウッド映画を軽蔑してきた。インド人はキスシーンなしで興奮すると書くのなら、なぜ我々はキスシーンで興奮するのだろうかと問題提起するのが公平というものだろう。

糖病記(8)

糖病記(8)SCIATICA, 座骨神経痛

令和元年十一月二十五日(月)のお昼前、バス停から隣町の中心街に向けて歩いていた。マイペースでリュックは軽く、道は平坦で気温は涼しかった。枯れ葉が落ちた木々の間から川面や対岸の家並みが見渡せた。何もかも平常で平穏だった。
突然なんの前触れもなく右足のふくらはぎ、右下下肢の裏に小さな痛みを覚えた。あれっという感じ。真っ直ぐ歩けなくなって、右足を外側に向けてびっこ歩きにした。まもなく痛みが下下肢から上下肢へ、太腿の裏に上がってきた。右足の裏全体が痛む。力が抜ける。ペースを落として歩く。一歩一歩痛みの程度を味わいながら歩を進めることになった。生まれて初めての経験で、年齢のせいだろうと思った。
そこから6キロの道のりを歩き切って帰宅した。激痛ではなかったのでごまかしごまかし歩き続けることができた。不快感は続くが掃除や薪割りなど日常行動には差し支えなかった。むしろ動き回って仕事すれば痛みも忘れ気分も良い。ところが座ると耐え難い痛さがつのる。太ももの裏の神経を圧迫するのが一番悪い。特に坐禅の姿勢は辛く坐り続けることができない。正座も一時間は長すぎてできない。
最初に痛みを感じたふくらはぎは、長時間圧迫する姿勢がないためか痛かったことをすぐ忘れてしまった。いつの間にか痛みそのものも消えた。治癒と言えば治癒である。太もも裏の痛みはひかない。そして腰回りに痛みが伝染した。一番楽な姿勢はうつ伏せで寝ることになった。

週末に友人夫妻が来たので座るのが苦痛だと相談した。二十代の彼女は「それはSciatica という、私にも経験がある。」と云った。「6週間くらいで治る。治療用の簡単な体操を教えてあげる。」という展開になった。若いのはいい。老化が原因なら治らないという暗澹たる気持ちは変わらなかったが、とにかく症状名だけはわかった。辞書には「座骨神経痛」とある。
人体には5個の腰骨がある。脊椎の下部でヘソの裏から下にある背骨だ。背骨は神経を保護する役目をしていて、頂点は小脳に接続する。腰骨から三本の神経が出ていて、それらが骨盤を通るときに一本にまとめられ太腿の真後ろを通り、ふくらはぎを通り足首に達する。それが坐骨神経で、神経の中では人体で一番長い。
神経は鞘の中に入っている、というか神経鞘が保護している。だから神経は外部から切断されない限り損傷することは稀だ。ほとんどの神経痛は神経そのものからではなく、神経鞘が圧迫されたり位置がずれたりすることから来る。
ふくらはぎが痛くなったことはいまだに解せない、神経鞘圧迫の理由がないからだ。毎日ではないが8キロ歩くのが習慣になっていた。わずかの偏った歩き方が、数年すると無理が出てきたのだろうか。

はじめに絶望ありだったが、一週間、二週間と経つうちに現状認識が変わってきた。友人の希望的忠告も力になった。治療法はあるかというとはっきりしない。薬もあるがどこまで信用できるか分からない。医者に診てもらうにしてもネットの情報以上の診察は期待できない。鍼も勧められたが痛いのはいやだ。神経を刺激して神経痛を治すのは理論的に無理がありそうだ。MRI 検査しても効果あるかなあ、というような状態が続いた。ひょっとしたら時間と休息が一番効果があったりする。
神経鞘の圧迫が問題ならば圧力を除くことが大事だ。次に正しい位置に神経鞘を置き直すこと。まず痛い箇所を指圧したのだが、逆効果だと気がついてやめた。指圧は血液やリンパ液が流れる筋肉の異常には効果抜群だが、神経鞘を圧したら壊れてしまう。神経鞘は体幹を正して歪みを除くのが一番だろう。放っておけばよい状態で休息させるべきだ。整体法に体幹を下から上までまっすぐに治す姿勢がある。中腰で壁に背中を押し付けるだけだが、藁をも掴む一心で一日十回以上やった。
食事だけは腹一杯食べた。食事を摂ることは生きるエネルギーと栄養を摂ることだそうだ。寝ている間に細胞が新陳代謝される。新しい細胞の材料を供給しなければならない。ご飯と味噌汁が一番よい食材なのだそうだ。脳も肉体も十分な栄養が必要だ。そのせいもあるだろうか、痛みは少しずつ減り始めた。

十年以上前の話だが、ニューヨークで本屋へ歩いて行く途中両脚の付け根、腰と脚の境目が痛くなったことがあった。前両側が同じように痛いからびっこ歩きにはならなかったが、ゆっくりゆっくりコンクリートの道を進んだ。マンハッタンの真ん中で行き倒れになる悪夢が頭をよぎった。
本屋で何冊か買い求めて帰ったのだが、その中に剣術家の本があった。柔軟体操は筋肉を弱体化させるだけでなんの意味もない、老人になればみんな筋肉が弱って柔軟体操が楽になるとあった。身体の捉え方に落とし穴があったと気がついた。
当時は柔軟体操に熱を上げていた頃で、立った姿勢から掌が床についた。真向法を教えてもらって、開脚で座って前傾すると腹が床に触った。股割りが気持ちよかった。達成感が半端なかった。
柔軟体操は手足が届く範囲を伸ばし身体の動きが柔軟になる。知識としても実践としてもある程度学んだほうが良い。同時に身体を痛めつける面があるので良い指導者がいなければしない方がよい。股割りもやりすぎたのだろう。ニューヨークで痛みを覚えて以来、弊害を認めてそれきり極端な柔軟体操はやめた。痛みはいつの間にか消えた。ある種の神経症ではなかったか。
大きな神経症は2回目だ。今回も治るかもしれない。

里山縄文文明(4)

里山縄文文明(4)  万世一系、男系男子、皇統の危機

明治憲法の第一条は「大日本帝国は万世一系の天皇これを統治す」だ。小学生の時は万世一系ってなんだろうとだけ思った。中学生になったらもっと知識を得るはずだが進展なしだった。天皇についての知識は将来の生きる糧にはならないようだった。何が根本問題かわからぬままミッチーブームだけを心に留めて年取った。
小泉首相時代に皇室問題に関する有識者会議が開かれた。その時はじめて女性天皇と女系の違いについて考えさせられた。女性天皇は過去に八人十代おられるが全員が男系だった。天皇は父、その父つまり祖父、その父つまり曽祖父と遡って行けば神武天皇にたどり着く。神武天皇の血を継いでいなければ天皇になることはない。男から見れば生まれによる差別で、他男性排除だ。何世紀にもわたって権勢を誇った藤原氏でも天皇になることはなかった、あるいはなれなかった。
家系は男系継承が世界共通の認識だ。イギリスのエリザベス女王はウィンザー朝に属するが、チャールズ皇太子が国王になるとマウントバッテン朝に変わる。女王の夫君がマウントバッテン家の血を継いでいるからだ。父、父祖とたどってもウィンザー家の始祖にたどり着かない。ウィンザー朝は断絶する。神武天皇の血を継がない最高位は日本では天皇ではない。だから女系天皇はこの世に存在しない。
126代現天皇の後は秋篠宮文仁殿下、その次は128代悠仁親王殿下になる。悠仁親王殿下は今のところただ御一人の御存在だ。なぜ御一人かというと、大戦後マッカーサーが皇籍剥奪を強要し、十一宮家を臣籍降下させたからだ。アメリカの真意が透けて見える。その意味を日本人なら考えよう。
有識者会議が開かれた頃は心細くて仕方なかった。愛子内親王殿下が唯一の若い後継者だったからだ。内親王殿下は男系には属するが男子ではない。その後は大丈夫か、誰かなんとかしてくれよと叫びたかった。ニーチェは「神は死んだ」と言った。西欧人は彼の言葉に衝撃を受けた。神が死んだらわたし達は何を頼りに生きていけばよいのかという問題意識が沸騰した。同じように、天皇位が絶えたら日本国中に想像もできない衝撃が走る。
秋篠宮紀子妃殿下の御懐妊が発表されたとき助かったと思った。自分が生きるか死ぬか、国が続くか否か、多くの日本人が激動の心情を体験したはずだ。御懐妊が国家を救い国民を救った。テレビ画面の前で国会の審議がひっくり返った。そんなドラマをなぜ体験したか、日本人ならその意味を自覚し語れるはずだ。
天皇と日本国と自分とは切り離せない。そして悠仁親王殿下のご誕生で日本中が安堵の念に包まれた。憲法に書いてある、皇統に属する男系男子が出現された。日本人は九月六日が天皇誕生日になる日を待っている。
水間政憲氏が「ひと目でわかる戦前の昭和天皇と皇室の真実」を上梓されたのは平成二十九年、2017年三月だった。画期的だったことには、4ページから7ページにかけて明治天皇以後の天皇家の系図が掲載されていた。全員が神武天皇の血を継いでおられるわけだが、生存者は120名以上だった。皇室にはただ御ひとりしかいないから不安だったのだが、皇位継承有資格者が百人以上もおられて安心した。今上天皇より昭和天皇の血が濃い方が東久邇家に三名おられた。系図からすぐ見てとれることは、マッカーサーによって臣籍降下さされた旧宮家、なかでも東久邇家が皇族に復籍されれば、国民の不安は解消され国家は百年安泰になるということだった。
水間政憲氏は最近「ひと目でわかる皇室の危機、天皇家を救う秘中の秘」を出版された。前著で啓蒙されたにも関わらずお花畑の日本人が多い。何が日本と自分の存在根拠か、日本人として一番大切なものは何かわからない人が多い。国会議員から庶民に至るまで理論武装が必要だ。そのための必読の書だ。有名神社にも宝物として永久保存されるという。一家に一冊は欲しい。

大嘗祭が終わってから自民党の幹事長、政調会長、税制調査会長が相次いで女系天皇容認発言をして顰蹙を買っている。安倍側近、党内実力者といわれる国会議員だから次の首相になる可能性がある人たちだ。日本のトップに位置するが、彼らは内在理念で政治をしているのではなく、利害調整で綻びを繕って動いていることが露わになった。大和民族悠久の歴史にケチをつけた。結果として、これらの人々は総裁レースから決定的にはじき飛ばされた。
党三役の発言は内在理論からではなく拝外思想から来ている。他人他国の屁理屈を押し付けるからおかしいと感じる。男女平等やら民主主義やら差別やらもっともらしい言葉を並べるが、全部外国由来の概念だ。外国人は日本の存在を助けようとしているわけではない、それどころか日本を毀損したい国の方が多い。国民と国家より外国の利害を第一に考えるから国賊、売国奴と呼ばれる。
逆に考えると、天皇の存在は国民と国家が政争や利害関係に巻き込まれないように機能している。そのような究極の天皇位に変更を加えられると思うほど傲慢で浅知恵の持ち主には政治家の資格はない。水間政徳氏はこのような輩に「令和の道鏡一派」の名を与えられた。
遠くから仰ぎ見る庶民には窺い知れないところがあるが、いわゆる皇室の闇はあるようである。宮内庁そのものが旧宮家の元皇族の現状を把握していないと国会答弁するほどだ。悠仁親王殿下に万一のことがあったらどうするか、万全の心配りをするのが彼らの役目ではないか。宮内庁長官が金がないと嘘をつきまくって大嘗宮の藁屋根を板葺きに簡略化した本当の理由は何か。日本国民の天皇だ、不浄な勢力が暗躍しないように不断の注意が必要だ。
竹田恒泰氏は明治天皇の玄孫として保守論壇に登場した。弁舌さわやかで知識も経験も豊富、様々な問題を快刀乱麻のごとく切りまくる活躍が鮮烈だった。おしゃべりが長すぎるのが玉に瑕だが、楽しませてもらった。にも関わらず、何もかも知っているけれど核心部分だけには触れていない印象だった。親戚縁戚関係から皇室の内部事情は知っているはずなのに、皇統の危機をいかに救うか明確な提言が聞こえないのは不思議だった。しかし根本問題は把握していて、いざとなったら皇室のために働かれるのだろうと思っていた。
ところが竹田氏はある動画で、水間氏が発表した家系図について文句たらたら、激怒した。怒りの形相で動画を発信した。勇気と自信があるのだろう。「なにい!?継承順位が108番だって、この俺が。50番以内のはずだよ。だって旧宮家だけを問題にするべきだろう。水!水間って誰、聞いたことないな。この人特別な業績があるの。」という調子で罵詈雑言、侮辱語の連発だった。
水間氏が公表した家系図は明治天皇を中心とした血筋を客観的に辿っただけで、間違いがあるなら指摘すればよい。そこには突っ込まないで、自らは抜本的な危機打開策を提言しない。で激怒とは。「竹田家中心の見方しかできないのが恒泰氏の限界だ。」と水間氏は反応された。天皇の血筋からいかに近いかが竹田恒泰氏の自信の素だった。自我が傷ついたのか凄まじい怒りだった。
日本は天皇をいただくことで悠久の歴史を生き抜いてきたのだが、完全な歴史ではないということは知っておくべきだ。そう知るだけで過剰な自信、偏見による傲慢を避ける余裕ができる。

仏典では釈尊が「人は生まれによって尊いか、または行いによって尊いか。」と問われたと記す。生まれによって貴賎が決まるなら向上心も努力も意味がない。行いによって貴賎が決まるなら善行に励もうと思う人は多い。この問いと答えとは修行向上の意味と実践の理由になる。人生観が異なる。そして人生が異なっていく。
神道は深遠な真理を追求せず、氏族家族中心の世界観に基づいてきた。だから竹田恒泰氏は当然のように竹田家にプライドを持っている。唯自家中心観に疑問を持っていたら激怒する動画を流すことはなかったはずだ。
聖徳太子は神道の世界観、人生観に疑問を持たれたと思われる。神道に欠けている真理を仏教に見つけ、三経義疏を著し外来思想である仏教を摂取する方針を取られた。偉大な先覚者であった。
外来思想を取り入れるのは西洋思想を流し込んでいる現在の日本と変わらないではないかと議論する人は多いだろう。キーワードは「不戯論」だ。フケロンと読む。西洋思想に限らないが、哲学、思想、論理など言葉のやり取りはすべて戯論だ。戯論をやり取りするだけでは人生や人格について結論を得られない。中途半端なまま老死する。戯れ言を言い合うだけに終わり真理に到達しない。
仏教は戯論を乗り越えて真理に至ることができるたぶん唯一の教えだ。いずれその核心に迫りたい。釈尊、聖徳太子、道元禅師に感謝する。