MUJHSE DOSTI KAROGE! (1) 06/28/2011
MUJHSE DOSTI KAROGE! はインド製映画、ボンベイの資本家が作るのでハリウッドと掛けてボリウッド映画と称される。ハリウッドより製作本数が二倍多い。その中の一本だが、観た途端人生観、世界観が一変した。昔の日本人で妙法蓮華経を読んで人生が変わった人は少なくない。そんな運命的な出会いを感じた映画である。
2009年の秋、肩を痛めて仕事ができなくなっていた九月の末、ゴミ捨て場で一本のビデオテープを拾った。それは DVD のコピーで、 MUJHSE DOSTI KAROGE! とタイプしてあった。ローマ字だが意味がわからない。英語でもなさそう。いろいろ探ってみて、ヒンズー語で「わたし、ともだち、する」に対応すると教わった。表面的な解釈だが、意味は「友達でいてくれる?」だ。
物語は十才くらいの少年 RAJ が、幼なじみの TINA および POOJA の二人とシムラというインドの駅で別れるシーンから始まる。RAJ の父親はロンドンへ行ってインターネット関連のビジネスを起業し成功する。インドってこんなに明るいのかとびっくりするくらい色彩が鮮やかだ。
十五年が経ち、青年に成長した美男美女が再会して恋愛ドラマをくり広げる。製作は2002年で、主役は三人とも二十代。今はボリウッド映画を代表する男優女優が初々しい演技をする。はずであるが、どうしてあんなにきめ細かく役になりきって完璧な演技ができるのかとため息が出るほど上手だった。演技は単なる物真似だと思っていたが、深い理論と修練と意味があるのだろうと気付かせられた。最後はヒンズー教寺院で結婚式、味のあるハッピーエンドで終わる。
激痛で座って居れず、寝転ぶことしかできなかった時期である、毎日観た。二回三回見ることもあった。三ヶ月経てば九十回。その後も DVD を買って時間があれば見たから二百回は見た。セリフや顔の表情や小さな仕草まで覚えてしまった。それでも見飽きない。五十肩の痛みがなくなっても見た。病弱だったから慰められたというだけではなかった。
二百回も見たということは驚きがいっぱいあったということだ。好きだけでは十回以上は難しい。同時に自分は気狂いかとも疑った。そこで会う人ごとに印象を話し鑑賞を勧めた。感想を聞いたり反応を確かめたりして自分の正気と狂気を知ろうとした。映画を語れるか、芸術を語れるかのテストになった。さすがに微に入り細にわたって説明する人はいなかったが、誰もが良い映画だと称賛した。自分の価値観、善悪の基準も的はづれではないと安心した。ちなみにアマゾンのレヴューでは星五つ、人気最高だった。それでも世間ではマイナーな存在だ。
インドの映画に関してはそれまで二つのことしか知らなかった。ハリウッドより製作本数が多いことと、キスシーンを禁じられていることである。二十年ほど前に朝日新聞で、キスする寸前で場面が転換する映画を見てインド人は興奮していると書いた記事があった。キスもできない映画とは随分前近代的で遅れているなと思った。その記事はボリウッド映画に嫌悪感を抱かせるプロパガンダだったかもしれない。見てみようかという興味は起こらなかった。
五十代のナタリアというおばさんにあった。ラトビアにいたロシア人だというが、二十年ほど前にアメリカに移民してきたという。似たような名前でナターシャが「戦争と平和」に出てきますねというと、「私の本名はナターシャでナタリアはニックネームです」といった。ボリウッド映画を知っていますかと聞くと、「私はボリウッド映画の大ファンです。ソ連はインドと良い関係だったので、インドの映画がたくさん輸入された。十代の頃はボリウッド映画ばかり見ていました。インドの俳優は英雄でした。」英雄は ‘HERO’ の訳だが、大人物というより憧れの人という意味合いが強い。大好きだったそうである。
いわれてみればソ連製作の映画なんて「戦争と平和」以外聞いたことがない。それも退屈極まるという評判だった。共産主義の国に娯楽なんてあるのだろうか。国が手がけるのは思想政策の宣伝と洗脳ばかりのようだ。そんな行き詰まるような社会にインド製の映画だけは洪水のように輸入された。インドはソ連製の武器輸入国だったのだが、代わりに苦手な娯楽映画を供給してくれる得難い国だった。
長期間、一国、社会を治めるには人々の間に娯楽は欠かせない。そのことを資本論も共産党宣言もマルクスもレーニンもスターリンも言及しなかった。さあどうする。ユーモアも笑いもない恐怖生活では人々の不満は鬱積するばかりだ。しゃちこばった左翼思想家と政府に民衆を思いやる余裕はない。そこで政府の役人も観たのだろうが、ヒンズー文明の叡智を借りることになった。
MUJHSE DOSTI KAROGE! ではキスしない。そのことをアメリカ人はみんな気づいた。ご法度を馬鹿にするものもいた。ところが一緒に鑑賞した一人が言った「キス無しでこんなに深い愛情表現ができるとは驚きだ。ハリウッド映画はキスばっかりでうんざりする。何の感興も余韻も残らない。われわれは何か大切なものを失った。だいたいキスしてしまったらその後何をするんだよ。」
アメリカ人もソ連と同じように実は唯物論の民だ。キスが愛情表現の公式になった。公開される映画ごとにキスが氾濫する。千年前の中世が舞台でもギュッと唇を押し付ける。時代考証しないのだろうか。フレンチキスは二回する、イタリアは三回、もっと東へ行くと四回だそうだ。日常の挨拶様式になっている。人にあったら、またキスかとドン引きする人もいるという笑い話を聞いた。
唯物論文化圏では物と物とが接触するのがよほど大事なのだろう。ソ連では書記長や首相など国のトップクラスのリーダーたちが抱き合っている写真がよく配信された。異様に見える。日本はお辞儀、仏教は合掌が公式の挨拶である。ボリウッド映画には夥しい人が登場するが、キスはおろか抱擁も無い。上品に見える理由の一つかもしれない。
MUJHSE DOSTI KAROGE! では顔の表情や知的な会話で若い男女の心理を鮮やかに表現している。この点からもキスシーンは必要なかった。キスシーンの禁止は映画産業にとって死活問題ではなかった。知性で勝負するという余裕があったのではないか。インドは唯心論の国だ。キスしなくたって服装、音楽、ダンスなど表現手段は無数にある。映画も三界是れ唯心作だ。映像も物を映すようでいて、本当はココロを表現している。
唯物論のハリウッドではキス場面は必需品だった。そして必需品なしの製品は欠陥品だと理由もなく思い込んだ。日本の大新聞も唯物論者だからココロの深さを想像できなかった。想像できないほど知性がないからボリウッド映画を軽蔑してきた。インド人はキスシーンなしで興奮すると書くのなら、なぜ我々はキスシーンで興奮するのだろうかと問題提起するのが公平というものだろう。