令和二年二月二十八日
「拈自己抄」月初めに届きました。畢生の御遺言ですね。重厚な文体で一般の人には難解ではないかと感じながら読了しました。執念の気迫が伝わってきます。晩年に至ってなお日本語の創造に精出すことができるのは老師の才能の賜物でしょうか、それとも大和言葉の力によるものでしょうか。
お手紙の中で脳梗塞とありビックリしました。辞書には脳内へ通う血流が細くなって起こる症状とあるのでその通りですが、漢字からは半身不随を連想させます。私のは軽い痺れで後遺症はなし、ピンピンしています。幸運でした。
とはいえ不具合は増えている。生活に支障はないですが、体力も脳力も漸減する実感がある。遺言を残す時期だなと考え始め、「雪国の正法眼蔵」のタイトルで日曜日の提唱シリーズを始めました。十二月一日に向けて準備していると、十一月二十五日に座骨神経痛が発症、希望と絶望が同時にやって来ました。
座ると痛いので接心できず、主治医も診断できない。オロオロするうち甲野善紀氏の動画に助けられました。紐の効用を説くついで「ゴムは捨てなさい」の一言で神経痛の原因がわかった。歩行用に膝まで届く厚い靴下を履いていたのが、かえって足を締め付け神経鞘を圧迫したのでした。治療法を整体師から教わって、もう大丈夫です。今回ほど坐禅が愛おしかったことはありません。
この冬は第一巻の現成公案を読んでいます。始めに諸法、仏法とあるので法の説明をしなければならない。法には三つの意味があって仏の教説、真理としての因縁の法則、そして因縁の理によってできている万物。
一人一人が因縁所成の結果だから法は自己である。仏法とは仏の教え、仏の示された真理、そして仏の自己である。現成公案には自己なる用語がたくさん出て来ますと始めました。
薪と灰の箇所はみんな興味がある。しかし時間論が書いてあると思い込んでいるので先入見の不備を指摘しなければならない。禅だけでなくヨガでも社会通念でも無常は刻々に変化するとばかり思っている。目の前の薪を取り上げて、燃やさなければ十年でも百年でも薪ですよ、何が刻々の変化ですかと聞く羽目になる。
この段は、薪と灰、生と死、不生と不滅、春と夏と、二項目の矛盾概念が対になっている。よく読むと、前後裁断とのちありさきありも対になっている。これらを無常の一語で解釈しようとすると、薪が百年存続すること、つまりひとが百歳生き続ける事実が説明できない。
宇井伯寿博士の仏教辞典に「無常:世間一切の法が生滅遷流して刹那も住するなきをいふ。之を刹那に於て見るを刹那無常といひ、之を一期相続の上に見るを相続無常と名く。」とある。無常は二種類ある。後者は相続無常だけれど、用語自体が自己矛盾しているしおぼえにくいので一期無常とします。
一期は薪に作られてから燃えるまで、春は立春から立夏まで、夏は秋まで、人は生まれてから死ぬまでの一生です。葬式の時参会者が思い出を語るとき、山田さんは恵まれない育ちながら努力して家族を養い、世のため人のために尽くされたなどと語られる。この人の肉体は刻々に生き死にしてある瞬間ではなどとは言わない。山田太郎という名前が付いた人が生存する間が一期です。
無常は二種類あり、刹那無常はのちありさきありで刻々の変化、人の一生は一期無常で前後裁断せりが適用される。怪我をして痛い時、痛が去るまでは痛の一期です。ひとは健康な一期無常を全うしたい。あらゆるものの因縁所成から因縁離散までを一期無常で理解できる。ところが仏教界は一期無常を忘れてしまった。
「薪は薪の法位に住して」とある「住」は常住で無常の反対語です。薪の一生は一期で、燃える時が無常で薪の死になる。「法位」は物の位で、位が異なるから物ごとの差異が表現される。差異があるから別が見える。人々(法)の間にひとりひとりが具体的に区別される。
法位と一期無常は因果応報の主体であり、自己責任の担い手であり、誇り、正義、人生観、社会観、国家観のもとになる。ひとは一期だけ生まれ善行し、そして死ぬ。例外はない。一期一生をいかに生きるかは個々人の責任で、それぞれが人生設計し満足できる生活を送るよう努力すると決定するしかない。能力ある人は社会のため、国家に貢献するがよい。国家の位はまた国民一人ひとりを守り育てる。
一切諸行が無常消滅しては主体も責任のありかもない。刹那無常だと刻々に無常するから人生設計できない。何を計画しても次の瞬間に無に帰する。国家防衛どころか家族防衛の理由もない。学問、鍛錬、努力、人格、善悪など、この世に意味あるものはひとつもない。マッカーサー狙い通りの無気力と混乱の世になる。もちろん責任はない。朝日新聞が捏造報道をうやむやにできるのも安倍が詭弁を弄するのも、仏教者が一期無常を教えなかった結果ではないか。
ゾロアスター教の善悪二元論に触発されてユダヤ教なる一神教ができたとする説を思い出す。物事は二、三、四と要素が増えるほど思考が難しくなる。一は考えやすい。二箇の無常から一つの無常しか考えられなくなった仏教界、刹那無常だけの中で自己を探し求められたのが内山老師の功績だったのではないかという気がします。
「ポツンと一軒家」というテレビ番組が動画に挙げられている。心温まる物語が多い。ある回で里山文化を講釈する人が登場した。人が手を加えないのが自然だと現代人は思っているが、江戸時代に完成した里山文化は自然に働きかけて双方の可能性を引き出し共生する場を作った。林の下草刈りでも花や果実を残す。花の杉林が現出する。
番組に登場する一軒家と人々は縄文人の生活を思い出させる。発掘された縄文時代の遺跡を復元すると集落の周りに栗や漆が植わっていた。令和の世に自然と共生しながら稲麦、野菜、果物を植え、猪や鹿を狩る。2万年の歳月が繋がる。日本文明は里山縄文文明と名づけられるにふさわしい。日本とは何か、日本人とは誰か、自己とは誰かと追求する時、里山縄文文明人に突き当たる。
明治維新どころかイエズス軍団の宣教師派遣から外来思想の侵略は止むことがない。マッカーサーの占領政策以来特に社会的混乱がひどいのは、外国思想ばかりが語られて、自己と国家と民族と、そしてわれわれの文明についての理解が寸断されてきたからだ。分断統治とはよく言ったもので、空間、民族だけでなく、時間が切断されると日本人としての自覚も薄くなる。
学校では古代、近世、現代のような歴史区分を教えられる。よく考えてみると区分法はおかしい。千年後に二十世紀は現代と呼ばれない。現代を表す用語を我々は持っていない。レーニンがロマノフ王族を虐殺したのは封建的な王政は悪であるという信仰に近い観念があったからだ。学校で習う時代区分法は破壊思想によって作られた。
勝者も敗者もない豊かな縄文文明の実態は科学的な発掘調査によって日々明らかにされている。縄文文明は食料を生産加工し、品種改良を怠らない創造文明だった。桜や梅が山を覆う景色が他国にあろうか。今も人知れず苗木を植えるひとは途切れない。
里山文化は縄文時代の記憶がないまま完成された。縄文文明の理念は江戸時代の民衆に継承内在していたに違いない。神社仏閣の前で合掌し敬礼する心持ちは略奪侵略文明の態度とは異なる。日本人は他人と会っても後々まで付き纏わない。略奪文明人は接待した後いかに付け入るか計算しているように見える。
生命の創造と継承を本とする里山縄文文明に則れば、稲作農業だけではない食糧生産や、石油だけではないエネルギー確保も可能だろう。江戸時代は米経済だったことを考えれば、経済学者が前提としているユダヤ金融資本主義やドル基軸通貨以外の経済運営方法が見出されるかもしれない。森も山も湖も社会も国家も里山縄文文明の活躍を待っている。
禅宗は神仏習合説がまとめた神仏融和の後で入ってきた外来宗教だ。侵略破壊思想でないと言い切れるだろうか。道元禅師だけでなく義介禅師をはじめ多くの宗呂が大陸へ渡り、漢訳経典と支那思想が盛んに研究された。
正法眼蔵坐禅儀では坐禅の仕方がコンパクトにまとめられている。イデオロギー満載である普勧坐禅儀に比べて大言壮語はなく、果報も書いてない。最後文に謳われる不染汚の修證を誰が欲しがるだろうか。胸に手を当てて考えてみれば、不染汚こそ日本文明の真髄であろう。
正法眼蔵坐禅儀の坐禅は黄梅山の五祖の営みと同じとある。五祖は大満弘仁禅師で支那禅を確立した六祖の師である。つまり道元禅師は、支那禅確立以前の、釈尊直伝の坐禅を勧められた。里山縄文文明に護持されている日本人に外国発のイデオロギーは必要ない。ここに日本独自の禅が宣明された。だから曹洞宗は存続した。道元禅師は外来文化と縄文文明の理念の違いを自覚されていた。傘松道詠は漢文では詠めない。
どこで見たか忘れたが、安倍晋三は尊敬する政治家としてチャーチルをあげていた。戦争が好きで前線に出かけて捕虜になり、海軍大臣になって拙劣な作戦で失敗し、日本を第二次大戦に引き摺り込んだ結果すべての植民地を失った者の何を尊敬するというのか不可解だった。
第二次安倍政権になってから、日本を取り戻す、瑞穂の国の資本主義、憲法改正などの言葉に高揚感を覚えた。アメリカファーストのトランプ大統領出現で、晋三はトランプの先駆けだったのかと思った。日本ファーストが語られる時代がきたと思った。
ところが憲法は改正しようとしない。石油と防衛力の外国依存は強まるばかり。重要な企業を外国資本に買収させる。移民法やアイヌ新法など不要な政策ばかりに全力をあげる。外国に良い顔するばかりで筋を通した政策はない、何かがおかしい。
チャーチルはユダヤ人のロスチャイルド家と親しく、ノルマンジー上陸作戦はロスチャイルドの屋敷で練られたという。映画のシーンを思い出す。政治家なら、大英帝国を崩壊させた後でも首相に返り咲いた秘策に関心があるだろう。安倍のチャーチル好きはユダヤ勢力に取り入れば失脚しないだろうとの目論みからではないか。
第二次安倍内閣になって世直し国興しのため立ち上がった方々を何人か知っている。どんなに攻撃されても三割の支持率が揺らがなかったのは、彼らの堅い志操が支えていたからだ。今、かつてのコアな支持者ほど、裏切りに失望し怒りに震えている。代わりはいないのか!この国難の時に高市早苗氏、上川陽子氏らの名前が上がり始めている。女性宰相でなければならない理由はあるかも。
里山縄文文明の理念は国民の間に根付いている。若人が YouTube などで女系天皇否認、女性宮家創設反対を叫んでいるのがその証拠だ。彼らや彼女たちは、外国勢力に操られているかのような政治家や偽りの思想を肌で感じわける。
実道永晋 九拝