存続と存在(5)

存続と存在(5)      08/04/2011

実在する存続から真理や存在を抽出したものがイデアであるということができる。本当の自己はイデアである。切れば血が出る生身の存続自己は生成消滅するから永遠ではない、イデアの投影にすぎないということになる。
真の自己はどこか別にある。真理もどこか見えないところにある。行動主体も責任を取る者もあらぬ方向にある。すべては生身の自己ではなく社会や国の責任だとする思想が現れる。社会福祉、行政の責任、心のケア、とかよく聞くようになった。
存続が実在ならば、生存の主体は自己であり自我であると無理なく解る。自己は存続と一体だ。存続自己の語は不自然ではない。存在自己と言えないのは存在は実在しないからだ。生き甲斐は存続自己を正しく増長しようと志すときに感じる。存続自己は物質、空間、時間の和合積聚、因縁和合、因縁所成である。
自己は欲望、思考、正思、正見、道心、業を起こす主体だ。行為の主体として、責任は常に自己についてくる。同時に修行活動の成果報酬も得る。勇猛心もて発心修行すれば得悟する。因果応報の主体だから悪因を起こせば自ら苦を招き、善因を作れば楽快を享受する。
自己とは何か。WHO AM I? と問うと、本質としての自己、自分の中心、純粋な心のようなものを思い浮かべる。どこかに不変清浄な自分があるはずだと思って真剣に探す。しかしいつまで経っても見つからない。その理由は、時間や存在と同じく、存続から自己を分離抽出するからだ。抽出した自己はイデア、概念のみになって、真実自己ではなくなっている。実在しないものを探すのだからどこまで行っても見つからない、把握できない、自信が持てない。近代西殴文明教育、イデア思想教育の成果だ。
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世界中で保守思想とサヨク思想の対立が激しい。何を保守というか何をサヨクというかがまず問題になるのだが、社会思想、政治思想の分野であるから区別が判然としない。思想家や評論家はたくさんいるのに明快な定義がされていない。保守思想家だと思って拝聴していたら途中から売国奴に寝返ったり、皇室や神道を熱く語る人がキリスト教と同じ文脈で歴史を理解していたと判ったりすることが多すぎる。
混乱の原因の一つは、両陣営とも学問は西殴思想の学習だと思い込んでいるからだ。西殴思想はサヨク思想である。サヨク思想はフランス革命期のジャコバン党、マルクス革命思想、共産主義と続いた。現今は共産主義思想を改変したフランクフルト学派がサヨク思想の主流とされる。伝統社会の混乱破壊が目的だが、暴力によらず文化を破壊すれば社会は混乱し衰退するという方法をとる。最先端の学問のイメージがあり、学者は世界的な規模で尊敬されるから始末が悪い。
サヨク思想は断滅思想で反体制派だ。そんな断見思想がなぜ支持されるかというと、カッコいいからだ。毎日汗水垂らしてコツコツ働くより、デモに行って反対だーと叫ぶ方が気持ちいい。周りから褒められたり拍手されたりする。社会の破壊混乱という目標は明確だから、自信がつき、あきらめない、しつこい。
すべてのサヨク思想が断滅思想である理由は、日本文明存続のために作られた思想ではないからだ。日本文明の中から生まれた思想ではないからだ。支那、インド、中東思想であっても、外来思想はすべて日本文明増進のためにできたものではない。もっとも日本人に馴染んでいる論語だって不都合な思想がある。仏教のなかには到底理解不能な論理もある。
日本人は外来思想が大好きだ。シェークスピアを教える日本人教授が言っていた、「アメリカ人はシェークスピアを習いに日本に留学する日が来るかもしれない。」と。マルクス主義研究家はすでに日本の大学に来ている。アフリカの五百人くらいしか話さない言葉の研究をする人もいるなど、日本人の好奇心の強さは驚くべきものがある。
研究に夢中になっているとき、日本人で真実自己は何かと問う人は少ない。一方を證するときは一方は暗し。外国は、外国はと言いながら一生を終わる人が多い。
西欧近代思想は一神教、イエスキリストの教えに基づく思想だ。日本の小学校から大学校まで教えられることは、一神教から派生した教えばかりだ。博士号を取るほど身を入れて勉強すると一神教思想に違和感がなくなるらしい。勉強は洗脳の一種である。洗脳は不真実で偏見に決まっているが、博士は洗脳されたことに気がつかない。
一神教は一神を信じるところから始まるが、天照大神だって一人の女神だ。イエスの代わりに天照大神を立てればキリスト教と瓜二つの教義を作り上げることも可能だ。天地創造や唯一神崇拝と解釈される場面は古事記や日本書紀に事欠かない。キリスト教に似せる説を提出することが学問の進歩と思う人は少なくないようだ。
日本は一神教の国ではない、神道は一神教ではないと教科書に書いてあるのに、誰も両者の本質的な差異に触れない。多神教をネットで検索すると小学生の知識並みの資料しか出てこない。知識の過少さや不明確さが、保守思想を演説しながら渡来文化や外国人の功ばかりを強調することになったり、日本精神を外国思想の組み合わせで説明する結果になったりする。
自分とは何か、日本人とは何か、日本国とは何かと問うていつでも答えがでるようになることは必要だ。自分が何かわからなければ、今なにをするべきか本当はわからない。簡単に答えが出る問題でもない。ただし近代西欧思想を追っていくだけでは、サヨク思想家に終わるだけだと人生の見取り図を提出しておこう。
日本人とは何かの答えには、多神教の自覚が根本になるだろう。自覚は感じるだけでなく論理的、客観的に表現したい。答えがわかればいくらでも説明できる。人生とは何か、自己とは何か、日本とは何かと参究したい若いひとには、多難な道だが、一生研究してもしきれない問題で、その答えは生命創造の宝庫だと保証する。

 

 

存続と存在(4)

存続と存在(4) 08/04/2011

あるとき学生時代に指導教授から、哲学で一番重要な問題は何かと聞かれた。認識論と答えた。真理論とか実存論とかいろいろあるが、たとえ真理があっても認識できなければ真理を知りようがないからだ。
教授の答えは違った。「君ね、存在論が一番根本的な問題なんだよ。存在と存在している物は違う。目の前にあるもろもろの物は存在者といい、存在は存在者を在らしめているものだ。」
存在は在るという意味だが、哲学では普通に在るものを存在者という。存在者は目に見え手で触れる物だが存在は別だ。ひょっとしたら存在は非存在かもしれない。
不思議な話しだった。哲学界だけに通用する用語法に馴れると世間常識からかけ離れることになるかもしれない。存在と存在者を区別する必然性はあるのか。的確な見取り図を得られないうちに大学紛争が起こって専門書にかじりつく時間は無くなった。

「超越のことば」(井筒俊彦、岩波書店)を二十年ほど前に本屋で買った。碩学の誉れ高い学者の本を飾っておくのも悪くないと積んでおいた。
もう読めるかなと思って本稿を準備するために開いてみた。やっぱり難しい。存在のオンパレードが500ページ続く。ここまで存在概念だけで議論できるのかと感嘆する。予想通り時間については語っていない。というよりも、わざわざ無時間性という用語まで出てくる。指導教授の指摘通りだった。
同書では真に在るものを存在と名付ける。真に在るものとは永遠に不変なものである。真の存在は消滅生成しない、歳をとらない。神も歳をとらない、永遠不滅だから存在である。というより歴史的には、神とは何かと考えていく上で存在概念が確立されたのだろう。
目で見、手で触れる花や木、熊や鹿は生成もするが消滅もする。変化消滅は時間とかかわるから起こる。消滅変化するものは真に在るものとは言えない。
このような議論を形而上学という。日本は明治維新以来独立を維持するために西欧文明のあらゆる要素を摂取しようと努力してきた。学ぶことが習い性になっている国民性もあってその学習には成功した。一方で知らず識らずのうちに存在論を受け取り、日常目前の存続を忘れ捨象するようになった。その結果1920年以来国家に大混乱が顕著になってきたように思われる。

存在について語るのは有名教授ばかりではない。全国どこの学校でも、点は場所があって大きさがない、線は長さがあって幅がないと習う。円は描けるけれども完全な円は存在しない。目の前の円は存在者という。そして完全な円のイメージを存在という。点も線も同じ。存在者のモデルが存在で、このような存在をプラトンはイデアと名付けた。日本語では実体と訳した。
この世にあるあらゆる存在者は不完全な円、不完全な線、不完全な真理ばかりである。イデアは完全であり真理であり永遠である。真善美勇気のようなイデアもある。ミロのヴィーナスは完全な美を形象化しようとした。
完全を追求する芸術家や哲学者の欲求は激しいものがあるが、現世には不完全な美しかない。完全な真理はイデアで、人は真理を知ったつもりでも、イデアの影を知ることしかできない。円が描けるのは円のイデアが存在しているからだ。そのイデア、真理なるものはどこに存在しているのか。五感では捉えられないからあるとは言えない。
イデアは時間と無関係で真の永遠である。時間がないから歳をとらない、生長
しない、老衰しない、死亡しない。そのようなものは概念としては主張できるがこの世に実在するだろうか。存続から存在だけを抽出すると存在は非存在者になる。延々と存在を語る哲学者は、じつはどこにも無い物について語っている。
イデア論では真理とは何かもほんとうは説明していない。イデアが真理のはずだと主張しているだけだ。真理とは仏陀のように自ら体験し智慧を極めて絶対間違いないところまで見届けた上で表明できることだろう。体験なるイデアも想像はできるがこの世では経験できない。ということは、論理的にはじめから真理を知ることもできないということになる。

では何となくプラトンのイデア説を正しいと感ずるのはなぜだろか。古代ギリシャの代表的な思想だからか。それともプラトンが始めた学校、900年以上続いたアカデミアの影響かもしれない。ギリシャという国は滅びても学校は存続し、卒業生は先生となってローマ帝国だけでなく方々で偉大なるプラトン校長の思想を教えた。
プラトンの思想は現実から浮いた理想を語っているだけのようだ。理想を描くのは思考力で、知性とか、理性とか、悟性とか訳されるのだが、人工的に作り上げた幻想だ。事実や現実よりも純粋な思考を信仰する考え方だ。
じつはプラトンのイデアからハイデッガーの「存在と時間」まで、断滅、断絶、孤立、抽出思想である。西欧思想は2000年以上存続論理ではなく抽出論理、断滅思想を踏襲してきた。革命、解放、自由、NEW, Creative(創造)などが日常生活の中で普通に語られる。
西欧文明の最後の覇権国アメリカには伝統継続の居場所がない。存続するものはなんでも破壊断絶するのが当然と思われている。長年かかって蓄積した財産も会社も社会的地位も訴訟の対象にされる。学問も芸術もより以前の学説と業績の破壊に邁進する。スポーツで勝利や新記録樹立に熱狂するのは破壊思想の激しさを表している。中庸寛容などの選択肢はない。一方向に走り続けるしかない。

 

 

存続と存在(3)

存続と存在(3)        08/04/2011
身体は血液やリンパ液が循環し、呼吸、消化、異化、伸縮運動と絶え間なく活動して止むことはない。体熱は筋肉や細胞が運動して発生する。長生きが当たり前になり、百五十歳まで生きると言った人もいる。希望を持って生活するのはいいことだ。生存、存続は時間と共にある。
ここで思考実験する。時間が停止または無になったらひとはどうなるだろうか。あらゆる臓器は運動する時間がない。すると熱が発生しないから体温が下がる。どこまで下がるかというと絶対零度まで下がる。無運動は無熱だ。血液やリンパ液は氷となり、肺や細胞に含まれる空気も固体になる。内臓も完全に固化する。時間が無になればひとは生存できない。
時間が無になったら世界はどうなるか。太陽は核融合する時間がないから絶対零度になる。光も宇宙線も前に進む時間がないから真っ暗闇。火山も絶対零度、ハリケーンも静止、太平洋も凍結する。引力、核力、電磁力も動かない。時間が無になると物質も存在できない。
人の生存だけでなく物質も時間があって初めて存続できる。世界の空間と物質は時間と共に在る。時間が無くなれば何も始まらない。電子が原子核の周りを回っているのが現在の原子モデルだが、回る時間がなくなるから原子は存在しない。
実在(実に在るもの、具体的にあるもの)は存続するものであり、存続するものだけが実在だと定義できる。実在するものはすべて物質、空間、時間が和合し構成された存続である。存続、空間、物質がなければ自己は無い。

われわれは目の前に実在する存続から遠く離れ、見逃し、忘れることができる。認識論が扱う問題だが、われわれは物自体を見ているのではなく直接音を聞いているのではない。光の刺激を受けた眼が認識した映像を見ているのであり、耳が識別した空気の振動を聞いている。触覚や嗅覚も同じで、われわれの知覚や認識は原理として個性というバイアスがかかっている。個人は必ず個性を持って生まれ、それぞれ異なる特有な自己を生きる。個性の違いは人の存続原理に根付いている。
ここから真理とは何かという問題が導き出される。個人ごとに異なる世界を見ている人間にとって、普遍的な真理は見出され得るか。結論を急ぐと、お釈迦様と道元禅師だけが真理を見出された。
学校で時計の読み方を習う時から時間があると感じる。一時間、二時間がすぐに一日、十年、二十世紀になる。恐竜が居た何億年前とか幾億光年先にある銀河系や星団の話にワクワクする。
逆方向に分、秒、ナノ秒と辿ることもできる。原爆の爆発過程がコンピューターに
記録される。レーザー光と宇宙線との衝突も実験できる。肉体感覚では捉えられない遠方の宇宙空間も、極微の世界も計測できる。人間の知恵の偉業であり、どちらの方向も時間の存在を本にしている。
過去現在未来の時間は無いという議論がある。過去は過ぎ去って無い、未来は未だ来ない。過去を昨日、一時間前、一分前、一秒前と詰めていく。最後は現在になるはずなのだが、その瞬間はどこにあるか。また現在から未来へ移る瞬間はあるのか無いのか。現在の瞬間の一点はあるのかないのか。現在は把捉できない。結論は、過去現在未来、すべて時間は存在しない。
支那禅の問答集には過去心不可得、現在心不可得、未来心不可得という公案がある。茶店の老婆に有名な禅僧が問題を出されて答えられなかった。あなたはどの心で饅頭を食べるかと問われてグッと詰まった。落第したから饅頭を売ってくれなかったという、沢木老師の話は面白かった。要するに実在しない過去、現在、未来という抽象的な概念に、掴みきれない心をくっつけたからややこしくなった。
時間の方程式は次のようになる。 存続=存在+時間。 両辺を変換すると
時間=存続ー存在 になる。実在し存続するもの、手にとって触れるものから抽出したものが存在とそして時間だ。存在も時間も抽象的な概念であって、頭の中でイメージとして描かれる。
存在と時間は、存続または実在の内部構造と比定することもできる。血管や筋肉は身体から抽出したら動かない、標本になる。カルシウムや鉄分なども肉体から分離されるとただの物質だ。時間も存在も、具体的な物から抽出したもので、概念としてだけ捉えられる。
言葉で時間を採り上げる瞬間に、時間を問題にしていると考える。同時に空間や物質を忘れている、捨象している。一方を證するときは一方はくらし。けんけん諤々議論して時間が実在しているかのように感じる。実体視するという。これらも究めきれない
認識の問題が絡んでくる。
現在だけの現在は、思考はできるが実在しない。刻々の変化はあるが刻々だけの刻々はない。空間物質がないから、時間を計測する方法手段もない。