存続と存在(3) 08/04/2011
身体は血液やリンパ液が循環し、呼吸、消化、異化、伸縮運動と絶え間なく活動して止むことはない。体熱は筋肉や細胞が運動して発生する。長生きが当たり前になり、百五十歳まで生きると言った人もいる。希望を持って生活するのはいいことだ。生存、存続は時間と共にある。
ここで思考実験する。時間が停止または無になったらひとはどうなるだろうか。あらゆる臓器は運動する時間がない。すると熱が発生しないから体温が下がる。どこまで下がるかというと絶対零度まで下がる。無運動は無熱だ。血液やリンパ液は氷となり、肺や細胞に含まれる空気も固体になる。内臓も完全に固化する。時間が無になればひとは生存できない。
時間が無になったら世界はどうなるか。太陽は核融合する時間がないから絶対零度になる。光も宇宙線も前に進む時間がないから真っ暗闇。火山も絶対零度、ハリケーンも静止、太平洋も凍結する。引力、核力、電磁力も動かない。時間が無になると物質も存在できない。
人の生存だけでなく物質も時間があって初めて存続できる。世界の空間と物質は時間と共に在る。時間が無くなれば何も始まらない。電子が原子核の周りを回っているのが現在の原子モデルだが、回る時間がなくなるから原子は存在しない。
実在(実に在るもの、具体的にあるもの)は存続するものであり、存続するものだけが実在だと定義できる。実在するものはすべて物質、空間、時間が和合し構成された存続である。存続、空間、物質がなければ自己は無い。
われわれは目の前に実在する存続から遠く離れ、見逃し、忘れることができる。認識論が扱う問題だが、われわれは物自体を見ているのではなく直接音を聞いているのではない。光の刺激を受けた眼が認識した映像を見ているのであり、耳が識別した空気の振動を聞いている。触覚や嗅覚も同じで、われわれの知覚や認識は原理として個性というバイアスがかかっている。個人は必ず個性を持って生まれ、それぞれ異なる特有な自己を生きる。個性の違いは人の存続原理に根付いている。
ここから真理とは何かという問題が導き出される。個人ごとに異なる世界を見ている人間にとって、普遍的な真理は見出され得るか。結論を急ぐと、お釈迦様と道元禅師だけが真理を見出された。
学校で時計の読み方を習う時から時間があると感じる。一時間、二時間がすぐに一日、十年、二十世紀になる。恐竜が居た何億年前とか幾億光年先にある銀河系や星団の話にワクワクする。
逆方向に分、秒、ナノ秒と辿ることもできる。原爆の爆発過程がコンピューターに
記録される。レーザー光と宇宙線との衝突も実験できる。肉体感覚では捉えられない遠方の宇宙空間も、極微の世界も計測できる。人間の知恵の偉業であり、どちらの方向も時間の存在を本にしている。
過去現在未来の時間は無いという議論がある。過去は過ぎ去って無い、未来は未だ来ない。過去を昨日、一時間前、一分前、一秒前と詰めていく。最後は現在になるはずなのだが、その瞬間はどこにあるか。また現在から未来へ移る瞬間はあるのか無いのか。現在の瞬間の一点はあるのかないのか。現在は把捉できない。結論は、過去現在未来、すべて時間は存在しない。
支那禅の問答集には過去心不可得、現在心不可得、未来心不可得という公案がある。茶店の老婆に有名な禅僧が問題を出されて答えられなかった。あなたはどの心で饅頭を食べるかと問われてグッと詰まった。落第したから饅頭を売ってくれなかったという、沢木老師の話は面白かった。要するに実在しない過去、現在、未来という抽象的な概念に、掴みきれない心をくっつけたからややこしくなった。
時間の方程式は次のようになる。 存続=存在+時間。 両辺を変換すると
時間=存続ー存在 になる。実在し存続するもの、手にとって触れるものから抽出したものが存在とそして時間だ。存在も時間も抽象的な概念であって、頭の中でイメージとして描かれる。
存在と時間は、存続または実在の内部構造と比定することもできる。血管や筋肉は身体から抽出したら動かない、標本になる。カルシウムや鉄分なども肉体から分離されるとただの物質だ。時間も存在も、具体的な物から抽出したもので、概念としてだけ捉えられる。
言葉で時間を採り上げる瞬間に、時間を問題にしていると考える。同時に空間や物質を忘れている、捨象している。一方を證するときは一方はくらし。けんけん諤々議論して時間が実在しているかのように感じる。実体視するという。これらも究めきれない
認識の問題が絡んでくる。
現在だけの現在は、思考はできるが実在しない。刻々の変化はあるが刻々だけの刻々はない。空間物質がないから、時間を計測する方法手段もない。