存続と存在(4)

存続と存在(4) 08/04/2011

あるとき学生時代に指導教授から、哲学で一番重要な問題は何かと聞かれた。認識論と答えた。真理論とか実存論とかいろいろあるが、たとえ真理があっても認識できなければ真理を知りようがないからだ。
教授の答えは違った。「君ね、存在論が一番根本的な問題なんだよ。存在と存在している物は違う。目の前にあるもろもろの物は存在者といい、存在は存在者を在らしめているものだ。」
存在は在るという意味だが、哲学では普通に在るものを存在者という。存在者は目に見え手で触れる物だが存在は別だ。ひょっとしたら存在は非存在かもしれない。
不思議な話しだった。哲学界だけに通用する用語法に馴れると世間常識からかけ離れることになるかもしれない。存在と存在者を区別する必然性はあるのか。的確な見取り図を得られないうちに大学紛争が起こって専門書にかじりつく時間は無くなった。

「超越のことば」(井筒俊彦、岩波書店)を二十年ほど前に本屋で買った。碩学の誉れ高い学者の本を飾っておくのも悪くないと積んでおいた。
もう読めるかなと思って本稿を準備するために開いてみた。やっぱり難しい。存在のオンパレードが500ページ続く。ここまで存在概念だけで議論できるのかと感嘆する。予想通り時間については語っていない。というよりも、わざわざ無時間性という用語まで出てくる。指導教授の指摘通りだった。
同書では真に在るものを存在と名付ける。真に在るものとは永遠に不変なものである。真の存在は消滅生成しない、歳をとらない。神も歳をとらない、永遠不滅だから存在である。というより歴史的には、神とは何かと考えていく上で存在概念が確立されたのだろう。
目で見、手で触れる花や木、熊や鹿は生成もするが消滅もする。変化消滅は時間とかかわるから起こる。消滅変化するものは真に在るものとは言えない。
このような議論を形而上学という。日本は明治維新以来独立を維持するために西欧文明のあらゆる要素を摂取しようと努力してきた。学ぶことが習い性になっている国民性もあってその学習には成功した。一方で知らず識らずのうちに存在論を受け取り、日常目前の存続を忘れ捨象するようになった。その結果1920年以来国家に大混乱が顕著になってきたように思われる。

存在について語るのは有名教授ばかりではない。全国どこの学校でも、点は場所があって大きさがない、線は長さがあって幅がないと習う。円は描けるけれども完全な円は存在しない。目の前の円は存在者という。そして完全な円のイメージを存在という。点も線も同じ。存在者のモデルが存在で、このような存在をプラトンはイデアと名付けた。日本語では実体と訳した。
この世にあるあらゆる存在者は不完全な円、不完全な線、不完全な真理ばかりである。イデアは完全であり真理であり永遠である。真善美勇気のようなイデアもある。ミロのヴィーナスは完全な美を形象化しようとした。
完全を追求する芸術家や哲学者の欲求は激しいものがあるが、現世には不完全な美しかない。完全な真理はイデアで、人は真理を知ったつもりでも、イデアの影を知ることしかできない。円が描けるのは円のイデアが存在しているからだ。そのイデア、真理なるものはどこに存在しているのか。五感では捉えられないからあるとは言えない。
イデアは時間と無関係で真の永遠である。時間がないから歳をとらない、生長
しない、老衰しない、死亡しない。そのようなものは概念としては主張できるがこの世に実在するだろうか。存続から存在だけを抽出すると存在は非存在者になる。延々と存在を語る哲学者は、じつはどこにも無い物について語っている。
イデア論では真理とは何かもほんとうは説明していない。イデアが真理のはずだと主張しているだけだ。真理とは仏陀のように自ら体験し智慧を極めて絶対間違いないところまで見届けた上で表明できることだろう。体験なるイデアも想像はできるがこの世では経験できない。ということは、論理的にはじめから真理を知ることもできないということになる。

では何となくプラトンのイデア説を正しいと感ずるのはなぜだろか。古代ギリシャの代表的な思想だからか。それともプラトンが始めた学校、900年以上続いたアカデミアの影響かもしれない。ギリシャという国は滅びても学校は存続し、卒業生は先生となってローマ帝国だけでなく方々で偉大なるプラトン校長の思想を教えた。
プラトンの思想は現実から浮いた理想を語っているだけのようだ。理想を描くのは思考力で、知性とか、理性とか、悟性とか訳されるのだが、人工的に作り上げた幻想だ。事実や現実よりも純粋な思考を信仰する考え方だ。
じつはプラトンのイデアからハイデッガーの「存在と時間」まで、断滅、断絶、孤立、抽出思想である。西欧思想は2000年以上存続論理ではなく抽出論理、断滅思想を踏襲してきた。革命、解放、自由、NEW, Creative(創造)などが日常生活の中で普通に語られる。
西欧文明の最後の覇権国アメリカには伝統継続の居場所がない。存続するものはなんでも破壊断絶するのが当然と思われている。長年かかって蓄積した財産も会社も社会的地位も訴訟の対象にされる。学問も芸術もより以前の学説と業績の破壊に邁進する。スポーツで勝利や新記録樹立に熱狂するのは破壊思想の激しさを表している。中庸寛容などの選択肢はない。一方向に走り続けるしかない。

 

 

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