存続と存在(6)

存続と存在(6)        08/04/2011

「天台四教儀」というテキストがある。仏教の入門書として古来有名だ。その中で「初心の弁道すなわち正覚を成ず。」とあり、諸所に引用されている。英語では Bigginer’s Mind と訳されて、仏教に関心があるひとはみんな知っている。
Zen に関心がある欧米人はまず 「Zen Mind Bigginer’s Mind」 という本を読む。サンフランシスコ禅センターを創った鈴木俊龍師の著作である。修行者は誰でもいつでも初心で頑張れ、それが禅の生き方だという。
日本では初心に帰れ、初心を忘れるなという言葉は普通に語られる。失敗してもやり直そう、緊張感を失っているから引き締めていこうという含蓄がある。弁道は修行のこと、初心は初発心のことで、発心し続けることが禅心だ。
よく知られた話だが、お釈迦様は出家して六年間苦行された。苦行を六年続けた結果悟りの果実を得られた。修行の継続がなければ、得悟の一分前で諦めても悟りに至られることはなかった。
常識で考えれば、六年間の修行が釈尊に悟りをもたらした。初心が正覚を成ずは実態からかけ離れている。ピアノでも書道でも初心や瞬間心で片付くはずはない。存続がない存在は非存在だ。存続を忘れた議論は得悟も説明できない。
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江戸時代の日本は教育大国だった。各藩には藩校があり、方々に寺子屋があった。ある旧家の倉の中に所蔵されている古文書を見たことがあるが、四国の片田舎に京都の学識者が来て講演会を開いていた。読んだのは速記録だった。知識の吸収と普及に都会も田舎もなかった。それが日本社会だった。
寺子屋の教程は読み書きそろばんと言われた。読み方、数え方、手紙の書き方など実学中心だった。女子には裁縫や料理も特別に教えたはずだ。世間で必要な基本的な知識を確実に教えて、あとは各人の能力と興味に任せて送り出した。みんなが普通の生活ができるような教育が行われた。
脚下照顧、自己を習うという態度は常識だった。脚下は足元で、足元を照らして安全に進行する。歩くだけでなく肉体、心持ち、家庭、世間、経済まで見通して生活しようとの心構えを持つ。心の構えと見通しが得られれば、自分が今日何をするべきかわかる。十年後、百年後に向けて働ける。脚下照顧を忘れたら自分がわからなくなる。自己を習うということは、足元を照らしつつ心も肉体も学習し努力することだった。
同じような共通認識は縄文時代にもあったようだ。考古学の発達のおかげで、黒曜石や石器土器が日本列島の隅々に伝えられたことがわかってきた。稲作だって日本起源ではないかと言われ始めた。大八洲は世界最古の文明の共通認識で結ばれていた。伝統を尊重する存続思想は、存続文明の事実を表現しただけだ。

明治維新以来教育とは学校でなされるものと受け取られてきた。そこで教えられるものは近代西欧に発する知識がほとんどだ。民主主義をはじめ社会契約説とか国際主義とか。グローバリズムやインターナショナリズムはハイカラに聞こえる。「山のあなたの空遠く幸い住むと人の言う」という詩があった。遠くを見る癖がついた。
西洋個人主義が入ってくると、自己だけを見つめ自己の自由と権利だけを追求するようになった。キリスト教では神の前の平等という。子と親が平等だというのだ。どちらも独立してバラバラに自己を探すことになる。「自己ぎりの自己」とまで言われたのだが、現実に自己が親兄弟から切り離して生きれることはない。このような簡単な事実さえ西洋個人思想に夢中になると判らなくなる。

生也全機現、死也全機現は禅語である。生きている限り安心して生きればよい、全力をあげて生きるべきだという意味だ。この世には生と死しかない。生と死は論理的に矛盾関係で、死でなければ生、生でなければ死で中間はあり得ない。生が存続する限り生を生き通すしかない。生と死を直視した人生観が確立する。
ところがひとは生まれた途端に死に向かって進んでいるとか、肉体は死んでも魂は生き続けるかのような曖昧な言説が少なくない。働き盛り、遊び盛りの青年期のときから死の恐怖を煽って足を引っ張る。
魂の存在は確認された試しがない。このシリーズでは魂の存続と言わないから非存在だと言えるのだが、見えないし触れないものをもとにしたあいまいな議論に時間を潰すひとは多い。
健康な青年がじつは死につつあるなどというのは気が利いたつもりのレトリックに過ぎない。これは刹那無常の言い換えだ。方丈記の「行く川の流れは絶えずして」の文章は有名だが、刹那無常は一期無常と合わせ考えなければ偏見でしかないと知るひとは少ない。青年期壮年期は自己実現のために全力をあげるべきだ。

コロナウイルスの蔓延下、アベノマスク配布のニュースを聞いた。やっと日本政府も具体的に日本国民のために働く気になったかと思った。国際金融資本とか善隣友好などの抽象的な言葉だけでは実際は何を行なっているか判然としない。なんとなく日本国民冷遇、外国人歓迎の風潮を感じていた。
マスク配布直前になって、製造元は日本人や日本企業ではないと分かった。四百億円以上の金は景気低迷する日本国民のために使われると思っていたのだが。この期に及んでも外国企業にだけ金が回されることに愕然としたひとは多いはずだ。アベ政治の正体は外国崇拝、日本無視だったことがあからさまになった。マスクを総理官邸へ返送しようとする運動が起こって当然だ。
アベは日本人をバカにしている。マスクは自作しましょうと呼びかけるだけで良かったのだ。民度が高いなら国民の善意と労働、創造力を信頼して任せるべきだった。器用な日本人の腕の見せ所だ。マスクを作る方法を示した動画がたくさん上がっている。なかにはゴムとハンカチだけで裁縫なしに作る方法もある。なぜ自分たちで作りましょうと言えないのか。
あらゆる機会を捉えて日本人貶め、外国人優遇をするのが保守政治家のスターと思われていたアベの正体だった。政治も経済も売りと買いばかり考えている。生産や創造は頭の中にないようだ。ユダヤ金融業者の冷酷な計画計算経済に従っている。売国奴、外患誘致罪の声も上がってきた。大人しい日本人も我慢の限界に来ている。寺子屋教育にも劣る大学教育知の成果だ。
里山縄文文明人としての自分を忘れた結果の惨状を、われわれは現在進行形で目撃している。自分を忘れ外国文化ばかりの学校知に頼る浅はかさ。コロナマスク騒動を日本を取り戻す契機としたい。
この項おわり