不戯論

不戯論

数年前、ある坐禅会で「正法眼蔵八大人覚」を紹介したことがあった。正法眼蔵最後の巻で、道元禅師のご遺言であると内山老師から聞いている。少欲、知足、楽寂静、勤精進、不忘念、修禅定、修智慧、不戯論の八項目にまとめて修養徳目が解説されてある。八項目だから八大人覚で、ライフスタイルとしても老年期の生き方としてもわかりやすい。自分の生き方を見直す意味もあった。
反応を振り返ると、素直に受け入れられる内容だったようだ。八番目の不戯論(フケロン)については二人から質問があった。「戯論は戯れ言で、デマや嘘はすぐわかるが、じつはあらゆる概念が戯論ではないのか。」という。「その通り、あらゆる言葉は戯論になる。坐禅だけは不立文字、教外別伝と言われ、言葉に依らない実修実行である。言葉に依らないから戯論ではない。」と答えた。
昨冬、雪国の正法眼蔵講座を始め、現成公案の巻を読んだ。内山老師に手ほどきを受けているので助かった。大事なことは何度も言う主義だと公言され、毎日のように「仏道を習ふといふは自己を習ふなり」と耳鳴りするほど聞くことができた。おかげで修行の基本だけはぶれなかった。感謝のしようもない。それでも日常生活では迷いの連続だが、基本が曖昧だともっとひどいことになっていたのは間違いない。
しかし正法眼蔵の本意がわかるとは思わず、黙って坐禅だけ続けた。正法眼蔵は難解すぎる。解ったと思ったことが誤解だったと分かったことが何度もあった。読みやすい現成公案ですら明確に理解する手がかりがない。もっと難しい巻は足がすくんで読み進めない。

死ぬ前に一度は読み抜きたいと思いたった講座だが、今回は現成公案をスラスラ読めた感じがする。読めば読むほど坐禅について書かれてあると腑に落ちた。坐禅だけは好きなだけすることができたが、それが至高の幸いだった。坐ることで救われたことは何度もあったし、修行するほど奥行きの深さがわかり世界が広がる快感を味わった。坐禅は頼りになる。あまり公言はしなかったが、坐禅による現世利益は半端なかった。
はじめの四行はお経で言えば因縁分にあたる。後に続く正宗分が書かれる理由が書いてある。小説でも論文でも導入部があるが、道元禅師は文学者でもあり芸術家でもあった。導入文に力を注がれたのは当然だ。現成公案では息を飲むほどの見事な書き出しに驚かされるのだが、導入部に過ぎない。常識的な仏教観や修行観は間違うことが多いとおっしゃっている。正しい教えは次の通りだとして本文、正宗分が始まる。
正宗分は迷悟論、認識論、仏道を習ふというは自己を習ふなりと続く。生死論、正報依報論、参究論へと展開する。正確に言えば、坐禅の迷悟論、坐禅の認識論、坐禅の参究論のように、いちいち坐禅をつけると納得できる。坐禅が解ったわけではなく修行ができたわけではないが、坐禅への信頼は確かになった。
坐禅を外すと、インド人の認識論は、ギリシャ哲学の本質論は、実存が先か本質が先かなどと客観的真理という迷惑が入り込み収集がつかなくなる。客観も真理も普遍だ正当だと主張する。表面的には受け入れられるが、突き詰めると破綻する真理論だ。グローバリズム、国連中心主義などが破綻する現状と合致する。
ところが現成公案には坐禅という言葉はない。だからだろうか、解説書では華と草、薪と灰、冬と春、空と海、鳥と魚のような具体的で目立つ言葉についての言及が多い。諸法や仏法や万法についても仏教用語の解説が夥しい。道元禅師は和歌をそれも名歌を読まれたが、和歌は直接表現を避けると言われる。奥ゆかし過ぎて直接話法しか理解出来ないものには手も足も出ない。

「仏道をならふといふは、自己をならふなり。自己をならふといふは、自己をわするるなり。自己をわするるといふは、万法に證せらるるなり。万法に證せらるるといふは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり。悟迹の休歇なるあり、休歇
なる悟迹を長長出ならしむ。」
内山老師が何度も引用された箇所である。仏道修行の眼目が直截的に指摘されている。仏道は自分の問題だ。この世には問題がたくさんあるが、大事と小事、真と偽、是非善悪を突き詰めると、結局自己をならふ、自分を修行することが根本だということに
尽きる。これ以上簡単明瞭な禅仏教の定義はないだろう。
しかし脱落が引っかかる。英訳すると意味をなさない。脱とは何か、落とは何かと様々な議論がなされた、Out にするか Off がよいかなど決め手がない。宝慶記にある「身心脱落、脱落身心」を元にして、Body and Mind drop off. とするのが一般的だ。日本語でもわからないのに英単語に置き換え、それで解った気になって議論するのは不思議な光景だ。
今回、永平広録を開いてみた。巻之四の334に「参禅は身心脱落なり、只管打坐の道理を聴かんと要すや。」とある。脱落は珍しい言葉でその意味に定説があるとは言い難いのだが、眼蔵でも広録でも諸所に使われる。広録では身心脱落は参禅坐禅することだった。それを只管打坐ともいう。しかも巻之四316には「坐禅は是、悟来の儀なり。悟とは只管坐禅のみなり。」と言われる。坐禅は悟りに由来する、悟は坐禅である。
「身心をして脱落せしむるなり」は参禅して正身端坐することだった。他の箇所も
坐禅と違背するところはない。禅の具体的な説明だと断定してよい。確信は深まり、現成公案は坐禅の説明だ、何百回も読んで損はないと勧めた。

数回読んだ後、冒頭で疑問を呈した参禅者が、「現成公案も戯論だろ。」と言った。とっさに「いや違うよ、現成公案は具体的な坐禅の説明だよ。」と返した。
彼は、言葉はすべて戯論である、現成公案も言葉で書かれている、したがって現成公案はケロンであると推論した。三段論法という論理の進め方だ。形式論理としては正しいというべきであろう。
坐禅についての叙述だから、また道元禅師の著作だから現成公案は正しいと思い込んでいたのだが、言葉と坐禅行の差異だけでは説明できないことに気付かされた。問題は言葉と言葉以外の二分法で片付くほど単純ではない。
決定の説は真僧を表すという禅語もある。禅僧だから坐禅修行第一なのだが、同時に一句一語に生命を賭けるという生き方は尊重されてしかるべきだろう。大学教授や学者は社会的に尊敬されるが、なかには意図的に嘘をつくものもいる。影響が大きいだけに真と偽、正と誤の判別はあらゆる場面で不断になされなければならない。
八正道の一つは正語である。言葉に正誤があり正しい言葉がある。大智度論には仏語は実語、美語、真語なりとある。言葉には虚偽と真実の問題がついてまわる。それを端的に表したのが戯論と不戯論の別だ。
八大人覚の巻には「證して分別を離るを不戯論と名づく。実相を究盡する、すなわち不戯論なり。」の原註がある。證するとは身心脱落、只管参禅に他ならない。坐禅修行を参究して明らかになることが実相を究盡することで、不戯論だ。つまり現成公案は不戯論という原理原則によって書かれた。
不戯論は正法眼蔵の最後に出てくる。だからわれわれ後進に対する御遺言だとばかり思っていたのだが、じつは第一巻から始まって百巻以上の御著作を貫く一大原則だったのではないか。自ら不戯論の原則を実践されて最後に秘密を明かされた。というより手本を示されたという方が適切であろう。
不戯論の原理は第二巻の謎を解くヒントになる。唐突に異質な言葉が出てくるのでとまどっていたのだが、実相の究盡ならわかる気がする。正法眼蔵が食わず嫌いで敬遠される理由の一つは、御著作全体を貫く原則が知られていないからだ。多語、多彩、多作な正法眼蔵もこれからは読み取れるかもしれない。

 

 

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