なでしこジャパン 12・20・2011
七月十六日、ジムで走っているとテレビ放送が流れていた。女性レポーターがマイクを持って話す。「明日はフランクフルトで、女子サッカー世界選手権の決勝戦があります。アメリカチームはこれまで奇跡的な逆転の連続で勝ち上がってきました。選手たちは万全の態勢で最後の試合に臨みます。世界チャンピオンまであと一日です。相手は日本です。」続けて、「日本とは過去25戦して負けたことがありません。」とにっこり微笑んだ。
女子がサッカー?、世界選手権?そして決勝戦で戦う?なんて考えたことなかったのでびっくりした。それにしても相手がアメリカではもうダメだろうと、レポーターの余裕に同調した。
翌日参禅者が引き上げてからヤフーニュースを開いた。なでしこジャパン逆転優勝の見出しが飛び込んできた。三月十一日の東日本大震災以降暗いニュースが続いたなかで爽やかなホームランだった。
ヤフーの記事は短文で客観的だった。前日の入れあげ様に比べると期待を裏切られた。負けたから微に入り細にわたって書く気にならなかったのだろう。読者だって負け組について色々読みたくない。それよりも日本チーム称賛の論調に驚いた。判官贔屓がアメリカにもあった。大地震、大津波で打ちひしがれているかわいそうな日本人よ頑張れという気分が漲っていた。
動画もあったが、映画の一部分を短く切り取っただけに見えた。詳しいことはわからない。今から振り返れば、ユーチューブが普通になる前だった。技術的にも映像的にも未熟であって不思議はない。十年後の洗練された動画の方が瞬間のテクニックや現場の雰囲気をよく伝えている。
スポーツ誌は特集を組んだ。もっとも起こりそうでなかった勝利と書かれていた。体格の差がある、競技人口がまるで違う。なでしことヤンキー娘ではスポーツに対する態度が根本的に異なる。前日まで女子サッカーの世界大会を知らなかった日本人は自分を含めて大勢いただろう。前評判が低いチームだったが、決定的瞬間に勝利を手にした快挙は手放しで素晴らしいと結ばれていた。
勝利を決定的にした数枚の写真があった。二転三転の攻防だったので名場面が多い。その中で、勝利確定直後に中央に駆け寄ろうとする五人の選手の写真が印象的だった。駆け出そうとする姿勢は、全員が虎が走り出そうとするような気迫に満ちていた。上半身の傾き具合と一歩踏み出そうとする脚の角度が、身をもって走り込んだ厳しい練習を表していた。
七月末の通信で次の様に書いた。「女子サッカー世界選手権大会でなでしこジャパンが優勝した。これは伝統の勝利であり、神話の再創造である。日本には国難が迫ると女性が立ち上がって困難を乗り越える伝統がある。今回の国難は千年に一度と言われる東日本大震災だ。大津波と福島原発の爆発もあった。暗い現実と不快なニュースだけが続いた。日本中が欣喜する初めての朗報は女性チームによってもたらされた。神話は千三百年前に書かれた。そこでは天照大御神が国母とされている。かくのごときドラマをわが目でみようとは夢にも思わなかった。」
日本最大の国難は第二次世界大戦と戦後処理だった。国を挙げての大事件、大変革が続いたので何が問題か分かり辛い。情報隠蔽もあるし偏向報道も酷かった。自国や自国民や歴史のつながりをどう考えるか混乱が続いている。平和ボケ、お花畑にもなりたくなる。「アメリカと戦争したの?」という、原型はアメリカ発のジョークで笑ってごまかす。困難事の片鱗すら記憶にない人が多くなった。
昭和二十七年の夏だった。暑い昼下がり、近所の大人が集まって話をしていた。情報交換の場だ。広島に新型爆弾が落ちたそうだという声が聞こえた。それから新型、爆弾、広島はずっと意識の底に残った。当時はビーニジュークが来た!と叫んでかくれんぼしていた。B29爆撃機のことだった。戦争の名残が所々で見られた頃だった。何人か傷痍軍人も居た。
貧しい山間部の村だったから情報伝達が遅かったのかなと思った。広島に原爆が投下されたのは終戦直前の八月六日だった。七年経ってから新しいニュースを聞くように大人が話題にしている。バカじゃないかと思った。早く正しい情報を知ることはいつの時代も大切なことだ。
二十一世紀に入った頃、「閉ざされた言語空間」(江藤淳)に出会った。情報統制がマッカーサー司令部によってなされたと第一次資料を駆使して解き明かされた書物だった。そこでは広島原爆の話題は報道禁止になっていた。日本独立まで原爆について語ることはできなかったのだ。あの暑い夏は日本が独立した年だった。原爆報道が解禁になり、田舎の大人たちも事実を知りその意味を語り合っていたのだった。
情報の遮断や偏向が自分自身の心と見方を変える力があると実感した。ということは現在の見方や知識も、事実真実ではなくて偏向した情報や少知によって出来上がっているのかもしれない。その可能性のほうが高い。自分の見方や意見に自信がなくなった。自分とは何だろうか。
鈴木貫太郎首相はポツダム宣言受諾が決定された後すぐに辞職した。終戦に導くまでが自分の使命と割り切って仕事されたことがよく分かる。偉大な宰相だった。使命感だけでご老体に鞭打って責務を果たされた。二・二六事件で負傷されていたから普通の老人以上に大変だったはずだ。
後を継いで東久邇稔彦総理大臣が指名され、八月十七日に内閣が発足し、十月九日まで戦後処理の任務に当られた。昭和天皇に一番近い皇族の一人だった。日本を任せられる人材は払底していた。戦争の惨禍は凄まじかった。
マッカーサーが厚木飛行場に降り立ったのだが、最初に発した命令の一つは慰安所、いわゆる売春宿の設置だったそうだ。日本軍は欧米植民地へ攻め入ったのだが、占領地で同じような命令を発しただろうか。日本人の常識にはない発想だ。
主権を失った日本である。総理大臣は命令を聞くしかない。詳しいことは知らないが、首相は吉原の娼妓界を統べている女性に、花魁というのかな、日本の婦女子を守るために力を貸してほしいと懇願された。最高権力者が卑しい職業だとされている女性に頭を下げた。その結果日本は生き延びた。
昭和天皇の側近中の側近が吉原で頭を下げるなんてひどいことだと思うだろう。しかし終戦まもなくの日本ではもっとひどいことが方々で起こっていた。考えるのも嫌なのだが、本でもネットでも様々な情報があるから関心ある方は調べてほしい。
簡単に言うと第二次大戦後日本では男がいなかった。国家の担い手は女性だった。戦前から女性は強かったと思うのだが、戦後はますます強くなった。それは男女平等とかの観念ではなく、実際に国家を救ったからだと思う。
日本人は国家として民族として、何が正義で何を守らねばならないか。「パール判事の日本無罪論」(田中正明)は基本文書だ。本書を読むと、論壇、学者間で論争が数々あったが、いずれも枝葉末節な言いがかりの類いだったと分かる。この一冊で戦後の問題はほぼ把握できていたのに、時間を無駄にしてしまった。