不戯論( 6)

不戯論( 6)  空

日本人が一番よく読むお経は般若心経だ。一番短く、大部な大品般若経の真髄をまとめたものとされている。心経の心は肝心の心で、仏教を知りたい人は般若心経を研究することから始めるのが常道だ。
般若心経には空という言葉が多出し、色即是空、空即是色は落語でも演られる有名な熟語だ。色(シキ)は目に見え触れるあらゆる存在者のこと。空(クウ)は一切否定の概念、存在及びすべてを否定し、否定も否定する、それを空と名付ける。小乗仏教では諸行無常というが、無常も無常しなければ論理が徹底しない。空は無常が無常することでもある。
空はサンスクリットでは Sunyata で、スニャータと発音される。原義は数学で使うゼロだ。ゼロがくう(空)だ。すべて常住が無く無常住もないのが般若経の基で、般若経は大乗仏教の源だから空は大乗仏教の根幹だ。
妙法蓮華経、華厳経、涅槃経、無量寿経など華麗な大乗経典はみんな般若経にある空の概念に依拠して書かれた。いわゆる学問仏教と呼ばれる教派以外は、日本の仏教は禅や浄土教などみな大乗仏教である。空がいかに重要か分かるだろう。

空について手ほどきを受けたのは「般若心経講義」( 高神覚昇)で大学一年生だった。般若心経なるお経があることもそのとき知った。日本の教育って何なんだろうか。重要なお経の名前を知らさず歴代天皇の名前も教えない。歌って踊って英語は外国はと外に目を向けさせるばかりのようだ。人生を全うするための基礎知識は学校教育の外に自分自身で獲得するしかない。
空は分からなかった。色、一切のものは空だというのは、物には自性がなくすべて因縁性だと説明された。この世にあるものはすべて因縁和合の産物で、因縁が離散すると物が崩壊する。生と死に当てはまる。この程度は理解できるし教えることも可能だ。しかしいつまでたっても理屈を組み立ててから空を説明する不自然さが残る。
空即是色はどうなる?無自性だから物があるって?仏教徒はそう信じてもいいけどさということにならないか。しかも色不異空、空不異色とも書かれてある。空は絶対否定だ。絶対否定が絶対肯定に異ならないという。これってあり得るだろうか。お経は真実を説くもののはずだが、色と空の二つが同じといかに証明できるのか。

空は一切否定だからすべてが空ずる、空のほかには何も無いはずだ。理解するのは難しいが、すべてが空で無自性と決まってしまえば問題はない。空が結論で矛盾は起きないはずだ。
ところが大乗仏教には十八空が語られる。一切空の一つが解らず四苦八苦しているところへ、十八種の空が大品般若経で説明される。内空、外空、大空、第一義空、畢竟空、無始空、諸法空、不可得空、無法有法空など十八項目ある。邪見が多いからすべての邪見を破すために一つ一つ対応するうちに十八あげられたという。
十八空は十八種の空があるのではなく、空に対する偏見が十八種あるので一々の偏見を正すための薬として提出された。空があることを前提とした上で、十八の形容詞が付加された。十八空を論ずるとき、空の存在を前提としている。空はすでに理解されている。絶対否定はある。空はある。
空、絶対否定は思考の産物で見たり触ったりできない。それは言葉で表現される。言葉には論理がある。一言でも正か偽か、美か醜か、上か下か、いずれでもないかどちらでもあるかなどと検討され得る。論理が問題になる。

アメリカでは私は健康だ、私は二十歳であるのような日常語の肯定文が基本で、中学校の英語力で会話ができる。抽象語、業界語、流行語を使うとおもしろいが基本は同じだ。I am a boy. This sofa is not comfortable. When it rains, it pours.
英語表現を華麗にする技巧の一つに否定語を使うことが挙げられる。 He is not smart but wise. No picture is more expensive than the Van Gough. Nothing glitters like a diamond does.
最後の例文を Diamonds are forever. と比べてもらいたい。否定語を使うほうがよりキラキラと宝石が輝く様が目に浮かぶだろう。否定語が主語にくる構文は英語では普通で、日常生活のなかのありふれた話し言葉だ。
日本語に訳すと、ゴッホより高価な絵はありません、ダイアモンドのようにキラキラ輝くものはありません、のようになる。日本語は述語で否定する。否定語が主語になるケースは日本語ではほとんどない。
英語は主語でも述語でも否定できる。否定語の使用頻度が日本語より二倍多い。詩でも小噺でも小説でも否定語が主語としてふんだんに使用される。仏教が使う言葉はサンスクリットである。印欧語族と言われる。英語も印欧語に属する。
述語とは何か。主語を説明するもの、主語に追随するものだ。主語は主人で責任主体のもと、述語は従者だ。従者から見ると主人がいるから自分がある。文章は主語と述語からなるから、文章が出来たときすでに主人の存在は前提されている、在ったものとされている。
日本語は肯定語しか主語になれないが、サンスクリットや印欧語では肯定語も否定語も主語になる。絶対否定の空も主語になる。主語になった瞬間、空は在る。空は説明される側、論理が始まる前の主体だから当然在る、存在する。空は文法の問題だった。

ゼロの発見はインドでなされたと言われる。ゼロは正数と負数との中心だ。数直線の中心が決まれば左右は正数と負数に分かれる。古代インドの数学は正数と負数を自在に扱う論理を持っていた。印欧語の肯定語と否定語は数学の正数と負数に当たる。
空、 Sunyata は人類史上燦然と輝く大乗仏教の基本原理だ。大乗仏教はゼロを中心に正数と負数を自在に扱える印欧語の能力を最大限発現した大思想だ。大乗経典を読めば壮大な思想に驚嘆するだろう。大乗思想はサンスクリット文法の成果だった。
日本語はゼロを発見しなかった。その理由のひとつは否定語が主語になれなかったからだろう。肯定語の正数だけではゼロの一点が決まらない。無自性の空も主語にならなかった。主語にならなければ説明できない、理解することは難しい。
空についての論文や研究書は無数にあるのだが、説明が続くだけで判った気にならない。それは日本語文法で理解しようとしたからだ。空について読み、検討するだけで終わり、空を創造力として体現具現することは想像できなかった。

主語になるということは、言葉が実体化されるということでもある。述語は主語を説明するのだが、なぜ説明できるかというと実体、実態があるからだ。実体が無ければ説明できない。肯定語の海や山は問題ないが、主語になれば無も、絶対否定語の空も実体として受け入れられ説明される側になる。空は文章のトリックの上に成立する。
無いものを在ると見做すことを実体化と言う。正数は並べたリンゴの数に対応するので実体化する必要はない。ゼロは無い数だから実体化して使用する。そのためゼロの割り算はできないような約束事が必要だ。空は絶対否定だから絶対に無い。ところが空が主語になると在るものと見做して文章にする。では空は在るのか無いのか。
肯定語だけが主語になる日本語では事実、真実が主語となり実体となる。事実、真実は実体として在るから否定語の実体視は不自然として主語から除外された。在るものが在る、事実、真実と言葉が一致すれば良い。
サンスクリットで絶対否定を在ると実体化した空を理解する方法を、日本語話者は知らない。仏教徒は今も空と格闘している。色即是空はいかに理解され得るか。解ったとしても実体視された言葉、虚構、イデオロギーの説明に終わるのではないか。このような文章の特質、文法の差異を見抜かれたのだろうか、道元禅師は、色是色、空即空と言われた。色はそのまま色であり、空は実体覗された空であると。

不戯論( 5)

不戯論( 5)  三法印と四法印

仏教とは何かと説明する際には三法印を挙げることが多かった。三法印は諸行無常、諸法無我、涅槃寂静で、辞書にも解説書にも掲げられている。三つの標語だから三法印で、三法印は仏教の根本義を端的に表し、仏教を学ぶ出発点だ。
仏教には三に関した術語が多い。三帰、三阿僧祇劫、三有、三界、三学、三観、三句、三衣、三三昧、三時、三心、三身、三拝、三宝、三無間業など。三が特別な数に見えてくる。三角形はもっとも安定しかつ強固な図形である。確乎たる教えがあるはず。

日本人なら諸行無常の語を知らない人はいないだろう。平家物語は「祇園精舎の鐘の声諸行無常の響きあり、沙羅双樹の花の色盛者必衰の理りを表す」から始まり、琵琶法師によって日本中に伝えられた。平家滅亡の物語と諸行無常の言葉は日本人の心に沁み渡った。巷間無常が死を意味するまでになったのは平家物語の影響によるところが大きい。以後多くの文章が書かれたが、滅亡に対する哀切の情を基本にしている。
鴨長明の方丈記、「行く川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。淀みに浮かぶ泡沫は、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人と棲み家と、またかくの如し。」の言葉を暗誦している人は多いだろう。庶民だけでなく僧侶の中でも、方丈記をモデルにして諸行無常を解釈する人は多い。
諸行はもろもろの存在物、無常は常住で無いこと。存在物が変わることなく在るのが常住で、説一切有部では「三世実有、法体恒有」と言われた。仏教は無常だとばかり思っている人が多いので、無常ではない教説があったことを記しておく。根拠がある説なので、研究すれば面白い。
現代の宇宙論でも変化運動ばかりが語られるが、恒常宇宙論も研究されている。ビッグバンから宇宙が拡大し続けるモデルでは終わりがない。個人的には恒常宇宙論が正しいのではないかと思っている。

「朝には紅顔ありて夕べには白骨となる身なれば、」は蓮如上人のお言葉のようであるが、今ではカレンダーに刷られている。諸行無常を表した代表的な句だ。禅語では「生死事大 無常迅速 各宜醒覚 慎勿放逸」の偈がよく知られている。お寺の版木に書されていることが多い。かくて無常の概念は日本列島を覆った。
しかし精査してみると無常も簡単ではない。たとえば野球やバレーボールに打ち込んでいる十代の青年に、「朝には紅顔ありて夕べには白骨となる、」と言ったらどうなるか。余計なことを言うなと反発されるだろう。精根傾けて練習しているのだから足を引っ張るな、うざいと思われるのが普通だ。
真面目に正面から無常の精神と原則を生きようとしたらどうなるか。すべてが変化するならば大地も動くはず、地震の時の不安感が毎日襲う生活ができるか。安心は何か不変恒常なものを信頼できるから得られると分かる。母の変わらぬ愛、父の会社の終身雇用制は根本的に重要だ。恒心は恒産によるという言葉もある
無常は原則も精神も変化する。最後は無常の大原則も変化する。それが空や無になるのだが、そこまでいかなくとも頼れるものが何もない。では何もないからしっかりした実績を作ろうと心がけるとする。経済的成功や政治的主張を広めようと志す場合でも、諸行は無常なのだ。計画を立てるのは何か恒常なるものが裏付けになければならないが、すべては無常だから計画も樹てられない。明日の予定が決められなければ日常生活もままならない。無常は常住の否定だが、ついには日常生活まで否定する。
諸行無常は仏教の根本原則を表すと言うが、日常生活を送れないような教説が仏教なのだろうか。仏教はお釈迦様の教えだが、お釈迦様は本当に諸行無常だとお教えになられたのだろうか。じつは仏説ではないかもしれない。
さらに古代ギリシャ思想の中には万物流転の思想もある。すべての物は変遷して止まることがないと言う思想だ。諸行無常とどこが違うか。ギリシャ人が考えたことをお釈迦様が私も同じ考えですと言ったのか。無常だけでは解決することは何もない。
お釈迦様が悟られた直後の事例を記録したお経がある。仏になられたと知って人々の訪問が絶えない。そこで話されるのは個人的な悩み事の相談だった。様々な苦悩、苦痛が訴えられる。人生相談の記録が元々のお経だった。あれっ、無常は仏説ではなかったのか。

四法印は三法印に一切皆苦を付加した。三法印ほどではないが、正式に仏教説とされる。三と四との違いではなく言葉の質の違いについて違和感を覚えた。洗練された抽象的な三語に比べて、一切皆苦は各人の苦悩苦痛の話だ。
もし一切皆苦を挿入するのなら釈尊が出家された問題意識として最初に来るべきであろう。涅槃寂静は釈尊にしか到達できない悟りだ。そこまで示していながら庶民の誰もが苛まれる苦に引き戻すのは奇異だ。
諸行無常については、これが仏教だという決論は出てこない。決め所がないのが仏教かと思ってしまう。専門的には決定の説というが、三法印では明確な結論は出ない。
諸法無我にしても理解するには高度に抽象的な思考が要求される。我は個人的な俺のことかそれともいわゆる実体のことか。学僧によって種々の見解が提出された。法もまた存在者であったり存在だったりとはっきりしない。
辞書や世間で広がっている印象とは裏腹に、三法印は仏教の決定の説ではないようである。無常は時間だし無我は物質のあり方に関係する。涅槃は釈尊の心が分からぬ限り深い理解はできようがない。不明瞭なことばかりだ。
一切皆苦は誰もが経験する具体的な事実を表した概念だ。高尚にして抽象的な言葉の間ではあまりにも現実的で泥臭さい。人はみな肉体的精神的な苦を生きている。現実は否定できない。一切皆苦だけが四法印の中で決定の説ということができる。仏教の出発点と根本問題は一切皆苦というべきであろう。

釈尊は人が苦しむ世を見て苦を克服することはできないかとさまざまに功夫参究された。六年の修行の結果悟られた。それで涅槃寂静を得られた。その結果と経緯
を語られたのが経典に編纂された。諸行無常や諸法無我は後から付加された。
日本人は無常という語に千年以上洗脳されてきた。正確に言葉を吟味すれば何かがおかしいと分かるのだが、僧侶から文学者、歴史家や思想家までが無常、無常、無常と唱和するので異論を語る勇者が出なかった。変わり者として無視され、あなたの賛同者は少ないでしょと口撃された。
仏教伝来の初めから一般常識になっている諸行無常もじつは戯れ言ではないかと考究する知性は持ち合わせるべきだ。四法印の中での戯れ言と不戯論の違いは曖昧な抽象語と具体的な一切皆苦の線引きだ。
われわれは洗脳と誤解の中で生きてきた。「閉ざされた言語空間」は第二次大戦後の占領政策による洗脳を暴露した。洗脳の影響は今なお続いている。外来思想にねじ曲げられる不快は十分経験した。
千五百年前の仏教伝来は外来語で書かれた外来宗教の経典を通してなされた。文字と教説の衝撃はまだ続いているのかもしれない。日本文明は仏教をまだ消化、同化していない。道元禅師は不戯論の原則を確立して正しい教えを示されたが、常識が禅師の教えを曖昧にしてきた。
ちなみに「常 楽 我 浄」という言葉がある。四法印のように仏教の真髄を表したものとされている。それは大乗仏教の本質だ。
諸行無常は小乗仏教の理念を表している。聖徳太子は大和の国は大乗相応の地と言われたという。無常が流行るのは太子のお志にももとるのではないか。