不戯論( 5)

不戯論( 5)  三法印と四法印

仏教とは何かと説明する際には三法印を挙げることが多かった。三法印は諸行無常、諸法無我、涅槃寂静で、辞書にも解説書にも掲げられている。三つの標語だから三法印で、三法印は仏教の根本義を端的に表し、仏教を学ぶ出発点だ。
仏教には三に関した術語が多い。三帰、三阿僧祇劫、三有、三界、三学、三観、三句、三衣、三三昧、三時、三心、三身、三拝、三宝、三無間業など。三が特別な数に見えてくる。三角形はもっとも安定しかつ強固な図形である。確乎たる教えがあるはず。

日本人なら諸行無常の語を知らない人はいないだろう。平家物語は「祇園精舎の鐘の声諸行無常の響きあり、沙羅双樹の花の色盛者必衰の理りを表す」から始まり、琵琶法師によって日本中に伝えられた。平家滅亡の物語と諸行無常の言葉は日本人の心に沁み渡った。巷間無常が死を意味するまでになったのは平家物語の影響によるところが大きい。以後多くの文章が書かれたが、滅亡に対する哀切の情を基本にしている。
鴨長明の方丈記、「行く川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。淀みに浮かぶ泡沫は、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人と棲み家と、またかくの如し。」の言葉を暗誦している人は多いだろう。庶民だけでなく僧侶の中でも、方丈記をモデルにして諸行無常を解釈する人は多い。
諸行はもろもろの存在物、無常は常住で無いこと。存在物が変わることなく在るのが常住で、説一切有部では「三世実有、法体恒有」と言われた。仏教は無常だとばかり思っている人が多いので、無常ではない教説があったことを記しておく。根拠がある説なので、研究すれば面白い。
現代の宇宙論でも変化運動ばかりが語られるが、恒常宇宙論も研究されている。ビッグバンから宇宙が拡大し続けるモデルでは終わりがない。個人的には恒常宇宙論が正しいのではないかと思っている。

「朝には紅顔ありて夕べには白骨となる身なれば、」は蓮如上人のお言葉のようであるが、今ではカレンダーに刷られている。諸行無常を表した代表的な句だ。禅語では「生死事大 無常迅速 各宜醒覚 慎勿放逸」の偈がよく知られている。お寺の版木に書されていることが多い。かくて無常の概念は日本列島を覆った。
しかし精査してみると無常も簡単ではない。たとえば野球やバレーボールに打ち込んでいる十代の青年に、「朝には紅顔ありて夕べには白骨となる、」と言ったらどうなるか。余計なことを言うなと反発されるだろう。精根傾けて練習しているのだから足を引っ張るな、うざいと思われるのが普通だ。
真面目に正面から無常の精神と原則を生きようとしたらどうなるか。すべてが変化するならば大地も動くはず、地震の時の不安感が毎日襲う生活ができるか。安心は何か不変恒常なものを信頼できるから得られると分かる。母の変わらぬ愛、父の会社の終身雇用制は根本的に重要だ。恒心は恒産によるという言葉もある
無常は原則も精神も変化する。最後は無常の大原則も変化する。それが空や無になるのだが、そこまでいかなくとも頼れるものが何もない。では何もないからしっかりした実績を作ろうと心がけるとする。経済的成功や政治的主張を広めようと志す場合でも、諸行は無常なのだ。計画を立てるのは何か恒常なるものが裏付けになければならないが、すべては無常だから計画も樹てられない。明日の予定が決められなければ日常生活もままならない。無常は常住の否定だが、ついには日常生活まで否定する。
諸行無常は仏教の根本原則を表すと言うが、日常生活を送れないような教説が仏教なのだろうか。仏教はお釈迦様の教えだが、お釈迦様は本当に諸行無常だとお教えになられたのだろうか。じつは仏説ではないかもしれない。
さらに古代ギリシャ思想の中には万物流転の思想もある。すべての物は変遷して止まることがないと言う思想だ。諸行無常とどこが違うか。ギリシャ人が考えたことをお釈迦様が私も同じ考えですと言ったのか。無常だけでは解決することは何もない。
お釈迦様が悟られた直後の事例を記録したお経がある。仏になられたと知って人々の訪問が絶えない。そこで話されるのは個人的な悩み事の相談だった。様々な苦悩、苦痛が訴えられる。人生相談の記録が元々のお経だった。あれっ、無常は仏説ではなかったのか。

四法印は三法印に一切皆苦を付加した。三法印ほどではないが、正式に仏教説とされる。三と四との違いではなく言葉の質の違いについて違和感を覚えた。洗練された抽象的な三語に比べて、一切皆苦は各人の苦悩苦痛の話だ。
もし一切皆苦を挿入するのなら釈尊が出家された問題意識として最初に来るべきであろう。涅槃寂静は釈尊にしか到達できない悟りだ。そこまで示していながら庶民の誰もが苛まれる苦に引き戻すのは奇異だ。
諸行無常については、これが仏教だという決論は出てこない。決め所がないのが仏教かと思ってしまう。専門的には決定の説というが、三法印では明確な結論は出ない。
諸法無我にしても理解するには高度に抽象的な思考が要求される。我は個人的な俺のことかそれともいわゆる実体のことか。学僧によって種々の見解が提出された。法もまた存在者であったり存在だったりとはっきりしない。
辞書や世間で広がっている印象とは裏腹に、三法印は仏教の決定の説ではないようである。無常は時間だし無我は物質のあり方に関係する。涅槃は釈尊の心が分からぬ限り深い理解はできようがない。不明瞭なことばかりだ。
一切皆苦は誰もが経験する具体的な事実を表した概念だ。高尚にして抽象的な言葉の間ではあまりにも現実的で泥臭さい。人はみな肉体的精神的な苦を生きている。現実は否定できない。一切皆苦だけが四法印の中で決定の説ということができる。仏教の出発点と根本問題は一切皆苦というべきであろう。

釈尊は人が苦しむ世を見て苦を克服することはできないかとさまざまに功夫参究された。六年の修行の結果悟られた。それで涅槃寂静を得られた。その結果と経緯
を語られたのが経典に編纂された。諸行無常や諸法無我は後から付加された。
日本人は無常という語に千年以上洗脳されてきた。正確に言葉を吟味すれば何かがおかしいと分かるのだが、僧侶から文学者、歴史家や思想家までが無常、無常、無常と唱和するので異論を語る勇者が出なかった。変わり者として無視され、あなたの賛同者は少ないでしょと口撃された。
仏教伝来の初めから一般常識になっている諸行無常もじつは戯れ言ではないかと考究する知性は持ち合わせるべきだ。四法印の中での戯れ言と不戯論の違いは曖昧な抽象語と具体的な一切皆苦の線引きだ。
われわれは洗脳と誤解の中で生きてきた。「閉ざされた言語空間」は第二次大戦後の占領政策による洗脳を暴露した。洗脳の影響は今なお続いている。外来思想にねじ曲げられる不快は十分経験した。
千五百年前の仏教伝来は外来語で書かれた外来宗教の経典を通してなされた。文字と教説の衝撃はまだ続いているのかもしれない。日本文明は仏教をまだ消化、同化していない。道元禅師は不戯論の原則を確立して正しい教えを示されたが、常識が禅師の教えを曖昧にしてきた。
ちなみに「常 楽 我 浄」という言葉がある。四法印のように仏教の真髄を表したものとされている。それは大乗仏教の本質だ。
諸行無常は小乗仏教の理念を表している。聖徳太子は大和の国は大乗相応の地と言われたという。無常が流行るのは太子のお志にももとるのではないか。

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