不戯論( 7) 善 と 順
善については古今東西多くのことが考えられ語られてきた。カントをはじめ近代西欧の哲学者やアリストテレスを代表とする古代ギリシャ哲学者たち、また多くの神学者たちも善を論じてきた。しかしああそうかと腑に落ちたためしがない。
善の説明がなぜピンとこないかというと、善いものを並べ上げただけの説が続くからだ。正義や勇気や慈悲や寛大さなどを善の例としてあげられることが多いが、これら四例だって相互に必然性が見られない。御都合主義に感じられる。
「善の研究」(西田幾多郎)は日本の歴史のなかで、哲学書で唯一ベストセラーになった。文章は堅苦しく難しいが、内容は体系的に叙述されていてわかりやすい。この一冊で自分が解り、世界が判り、善が分かる構成になっている。哲学に生きる指針を求める人には必読の書だ。
西田幾多郎は近代日本の思想を樹立したと言われる。学者といえば西欧の文書を翻訳するのが仕事と思われた時代に日本人のあり方を探究した。
純粋経験や意識現象の語に戸惑いながら読んでいくと、この書は西欧思想を咀嚼してエッセンスをまとめたものだとわかる。デカルトやカントや聖書の影響が見て取れる。通説とは異なって日本思想ではなく近代西欧思想の総括の趣が強い。
該書を下敷きにして「実在」について論文を書いた。それから五年間、純粋経験や実在や善の語が頭にこびり付いて離れなかった。若輩にとっては、「善の研究」は真理の書に違いないと思い込ませる説得力があった。
実在は真実の存在という意味だが、どこかに真なるものがあるのではなく意識現象だけが唯一の実在だという。金や名声や肩書きや合格点を求めて四苦八苦する若者には衝撃的な指摘だった。
実在は個々人の認識能力内の存在だから真理であるとは証明できない。真理を得ることは認識でもダメ、言葉でもダメ。真理なるものはあるか、それは獲得できるのか。この名著にしても、真理ではなく妄想でしかないという議論が出てくる。その問題を解決していないことは知っておくべきだ。
すべての知識が妄想ということは、知るとは認識の結果だから、解った時はすでに認識のフィルターを通しているということだ。知識はゆれ動く五感を通して外界と接して得られる。したがって絶対確実な知識、真理、実在は存在しない。
真理とは何かを問題にするとき、釈尊が悟られたという物語はヒントになる。その結果世界に冠たる仏教文明が創出された。四聖諦、八正道が真理そのものではないか。
善はさっぱり解らなかった。自分の立脚点がわからないでうろうろしていた頃で、大袈裟にいうと生きるか死ぬかの問題に直面していた。善や悪は価値の問題で、食物を得たあとの課題だ。善を考える余裕はなかった。
それでも読んだ。しかしイメージがわかない。善があるあると言って種類をあげたり例をあげたりしているのだが、素直に受け取れない。不可解な理由は、日本語的と言えばそうだと今ではわかるのだが、善についての説明だけなので輪郭が分からなかったことが大きい。善と悪と対比して語られるとイメージがはっきりしたはずだ。
古代ペルシャの地ではゾロアスター教が有名だ。ユダヤ教ができる時参考にされた宗教とされているが、善悪二元の教えといわれている。ペルシャは今のイランでアーリア人が居住し印欧語が話されていた。イランはアーリアという意味だ。インドを征服したのはアーリア人で、ヒンドスタン語も印欧語だ。インド人が英語に違和感がないのは両方とも印欧語族だからだ。
印欧語は英語を勉強するとわかるように、肯定語と否定語のどちらも主語になる。A でもB でも言挙げされると、反対語が反射的に返ってくる。議論、討論に適した言語である。
印欧語では肯定と否定、善と悪は等価である。ゾロアスター教は印欧語の文法をそのまま表現した教えだということができる。正数と負数は数直線上で等価なように、この世には善も悪もある。小善があり大善がある、小悪があり大悪がある。悪と対比すると善が明確になるところがある。「善の研究」にはなかった視点である。
キリスト教がペルシャに来ると、ゾロアスター教に影響されて景教になったとされる。景教は東方へ伝わり日本でも知られ、聖徳太子が厩戸皇子と呼ばれるようになったという。このような歴史を研究したことはないが、興味深い話だ。ペルシャを通ると思想宗教が変わるのはなぜか。ムスリムもイランではシーア派になってしまう。
聖書が語る物語にはよく悪魔が出てくる。有名なのはアダムとイヴの物語で、悪魔が蛇の皮をかぶってイヴに知恵のリンゴを食べるよう誘惑した。神がつくった楽園でなぜ悪魔が活躍できるのか。一神がでてきても善と悪の対立は消すことができない。
善が理解できなかったもう一つの原因は、善の定義が判らなかったからだ。善を定義できるのか。じつは仏教は善を定義している。仏教学は歴史上燦然と輝く叡智で、二千年前の学僧の成果であるとは想像できない精緻さがある。あらゆる物事が議論され、考究され、定義された。不知を前提とする近代科学思想とは大違いである。
善 (Kusala) とは三性「善、悪、無記(中性)」の一つ。順を義とす。法に順じ理に順じ自他の順益をなすべき勝用力あるものをいふ。(仏教辞典、宇井伯壽監修)
善はサンスクリットで Kusala と云う。善について、ふつうは善と悪の二項で考えるが、仏教では善でも悪でもない場合も取り上げる。全体を見渡しすべての可能性を数え上げるのがインド思考の特徴で、善については善とも悪とも決められない場合があり、無記と名付けられた。裁判になっても結論が出ないことがあったりするのが無記が想定される理由だ。仏教学においては善と悪の二元論では片付かず、三性を調べる必要性があった。
三性の中の善は順を義とす。これが善の定義で、善とは何かという問いに対する答えだ。善とは順の義、生命に順じ、自然に順ずる。人間性に順じ、真実、誠実、晴明、美、正直、勇気、柔和に順じると肯定的に徳目が数え上げられる。
順の反対は逆で、順境と逆境、順縁と逆縁、順風と逆風、良順と悪逆のように言葉の意味も明らかになる。慈雲尊者は十善戒を著されたが、戒の殺すな盗むなと否定形で戒める表現を、活かせ施せと肯定形で書きなおされた。十善戒は十八空の真逆を行っている。正数が善、順で、負数が空、逆だ。
法は仏法の法だが、仏の教え、普遍的な法理、法に則った存在物の三種の意味を包含する。存在物は物だから質量つまり力が前提されている。順益は理に適った利益だ。勝は優れる、勝れるの意味で、用は有用で、機能すること、働くこと。善は勝用力あるもの。この定義から見直すと、無記は勝も用も力も欠けるから善でもなく悪でもない。戯言を垂れ流す無責任な評論家が好例だ。
仏教では世間の善法として五戒、十善が挙げられた。出世間の善法としては三学六度が列挙される。それぞれ研究されるだけでなく実践されてきている。近くのお寺を訪ねれば聞法できる。善という価値が知識として確立されると実践躬行する人も出てくるし、個人、家族、社会全体が安定する。
現今、世界を見渡すと、文化や伝統の破壊行為が激しくなる一方に見える。フランス革命以来というか大航海時代以来というか、サヨク破壊思想の勢いが続いている。善悪の基準が現実社会で崩れてきた。革命、犯罪、暴虐、嘘、欺瞞、断絶などの言葉が氾濫している。そのせいか善について語られることは少なくなった。