日本の行方(1) 人間修行と一期無常
相撲は面白い。貴闘力関の動画で相撲界の内側を垣間見ることができた。どのような男が相撲取りになろうとするのか、何を考えて毎日稽古するか、人生設計はどうするか。才能と能力があっても怪我すると横綱になれないとか。相撲界の人間模様は見飽きない。
初代若乃花関は優勝十回、名横綱と言われた。栃錦と人気を分け合った頃は一年に二回の本場所、それも十五日でなく十日だったりした。六場所制になる移行期だったので優勝回数が少なく見える。本場所がない時は力士たちは地方巡業に出て興行と稽古を続けていた。
土俵の鬼と言われた若乃花は二子山勝次親方となり弟子を育てる側に回った。二横綱、二大関を育て厳しい指導で有名だった。本人が、「十人新弟子を連れて帰ったら十二人に逃げられていた。」と述懐されている、厳しすぎたかもしれないと。かといって厳しい稽古をしなければ伸びる才能も伸ばせない。苦労の程が偲ばれる。
ある動画で二子山親方が、中学生だろう、新弟子に接する場面があった。名前を呼ばれても返事できない内気な子だった。体が大きいのと運動神経が良いだけの理由で引き取ったあどけない子供という感じだ。挨拶や礼の仕方を親に代わって教えていた。一緒に食事して、大根おろしは消化に良い、醤油をかけすぎると肝臓に悪い、朝は小魚を食えと細かく注意する。忍耐強く一生役立つ知恵を注入していた。
「いまこの子を土俵に上げたらバラバラになる。骨や筋肉を強くしてから本格的な稽古を始める。」そして「相撲は人間修行だ。厳しくなければ人間はできない。」
相撲道は人間修行。親離れできない若者を部屋に居らせる。筋肉ができると稽古中心の生活が続く。十両、関取も夢じゃない。引退すれば別の人生展開になるが、内弟子としての教育や稽古仲間の連帯意識が助ける。二子山親方は自信と抱負を持って弟子を集め、猛稽古で叱咜し、自分も節を曲げない。土俵を中心として人が人になる修行をする、相撲道の実践者であり体現者だった。
人間修行は簡単に言える言葉ではない。自分とは何かを知り、過去現在未来を知り日々修行を怠らない人にしか言えない。いつどこで転落するかわからないのが人間だ、偉そうなことは言わないでやり過ごす方が安全だ。
内山老師は生涯を通して理論的探究に励まれた。遺本の書き込みを見ても参究研鑽の情熱が伝わってくる。いつも坐禅修行の大切さを強調された。一方、講演会は高校生以下が対象だと断られた。博識すぎるからだろうと思った。
老師は多くの本を出版された。しかし人間修行の必然性や実効性は語られなかったように思う。弟子として坐禅だけは必死で続けたが、迷いの中の修行が続いた。迷いが修行、迷いが仏教かと思った。自分が解らず、修行の意味と結果が不明だった。
禅宗では人間修行ができるはずだった。道元禅師の名は世界に轟いている。釈尊は全人類の教師である。生身の僧侶に完璧な指導を求めるのは無理だが、根本精神や秘伝の類は見出せるのではないかとひそかに期待した。
井沢元彦氏によると、無常の言葉は平家物語によって日本人に広く知られたという。もしかしたら無常は八百年前に日本人が洗脳された概念だったのかもしれない。
「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」は平家滅亡を唄った冒頭の語で、日本人で暗記していない人は居ないだろう。釈尊の安居所、祇園精舎で鳴る鐘は仏の教えである、その真髄は諸行無常である。このような理解はすべての日本人の心を捉え、禅僧も例外ではなかった。
栄華の頂点に達した平家一門の滅亡と安徳天皇の崩御は世界の終わりと思われた。目前の悲劇を端的に表す言葉が諸行無常だった。言葉の内容を吟味する余裕は人々にはなかった。断滅、崩壊、絶望、悲哀が諸行無常の実感になった
同時代に書かれた鴨長明の方丈記は諸行無常を和文で説明する。「ゆく川の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。」この文章も暗誦している方は多いだろう。
諸行無常は仏教用語で、「もろもろの存在物は常住ならず」という意味だ。無常は無常住の略、やまと言葉で解説すると方丈記の見事な文章になる。日本人の仏教理解はこの二書によるといっても過言ではない。
諸行無常を詳しく見ると刹那無常になる。刹那は瞬間、今ではナノ秒か、一切のものが刻々に消滅遷流する。これは宇宙を貫く大原則で例外はない、その原理を発見されたのが釈尊であると。
2010年の冬、五ヶ月間、激しい五十肩に苛まれた。うんうん唸りながら現成公案を読み直した。生きるか死ぬかの瀬戸際まで追い詰められたすえの読書だった。ずっと気になっていた薪と灰の段に取り掛かる契機になった。
「しるべし、薪は薪の法位に住してのちありさきあり前後ありといえども前後裁断せり。」は、多くの方が時間論が書かれてあると理解されてきた。時間論なら無常、無常なら刹那無常である。内山老師は「現在ぎりの現在」と表現された。
ところがよく読むと「薪は薪の法位に住して」が主題である。法位は存在物の位で、薪なら樫、楢、欅など樹種の区別があり、乾き具合や火力の違いもある。法位は万物を区別して表現できる用語だ。住しては持続存続する、薪は燃えるまで薪である。薪の法位は住しているのだから刹那無常ではない。
「無常: anitya 世間一切の法が、消滅遷流して刹那も住することなきをいふ。之を刹那に於いて見るを刹那無常といい、之を一期相続の上に見るを相続無常と名く。(仏教辞典、宇井伯壽監修)」じつは無常は一つでなく二つあった。
「薪は薪の法位に住して」は刹那無常でないことは明らかだ。住するとは何かというと相続だ。薪は燃えなければ十年でも百年でも薪の法位に住する。法隆寺が千年以上建っている事実は、相続、一期で素直に理解できる。
相続と無常は矛盾概念であり、相続無常はさらに説明が必要な曖昧複雑な用語になる。それで一期無常の語を使うよう提案する。無常は断絶裁断、人の場合は死で、薪の場合は灰になる。法隆寺が焼け落ちると一期無常、相続裁断だ。
一期は一生という意味になる。人は一回だけ生まれ活動しそして死ぬ。何十年にわたる生涯を指し示す言葉が一期だ。幼児から死ぬまで山田太郎の名前で生きる。自己の一期をいかに生きるかは誰にとってもいつも直面する問題で、人生観が問われる。花の一期、木の一期、鹿の一期、犬の一期、星の一期、地球の一期、この世は一期でできている。命あるものはそれぞれが精一杯生き、命なきものも生成崩壊する。
一期無常は仏教が提出する人間修行の基礎概念になる。吾が人生は一期のみと決定して真摯に生きる。修行は体で身につけるだけでなく言葉でも納得する。知恵という。刹那無常では人生は説明できないが、一期無常なら矛盾なく理解できる。正語正思がある。この世界は一期無常ばかり、決定の説という。刹那は一期がたまたまナノ秒である場合だ。
お寺では貴重な伝統行事が受け継がれているが、刹那無常では形式主義、事なかれになりやすい。そもそも継承の概念が刹那無常に反する。一期無常を知れば現実肯定、正しい歴史認識、勇猛心、情熱、創造、意志力があたりまえになる。
平家物語以来刹那無常が日本人の常識になって久しい。大方の学術書にも大辞典にも一期無常の語はない。刹那無常ばかりの世は、ほんとうは末法の時代ではないのか。われわれは堕落衰退した文化と知識の中に生きているのではないか。
方丈記の刹那無常は刻々に生滅遷流するだけだから、生も無常死も無常、老も若も無常、病も健も無常、大木も枯れ木も無常だ。自他の区別もなければ幼時老齢の区別もない。自己の一生という概念も産まれない。これは仏の教えだろうか。大智度論の視点からは刹那無常は偏見になる。もちろん仏説ではない。
刹那無常は常住の否定だから、われわれが住む現実世界の否定だ。生身の自己と世界を否定するから、希望は無し、情熱は無し、使命も無し、生き甲斐もなし、そして責任も無い。人間否定、修行否定だから人間修行の言葉も出て来ない。
一期無常では人は意志、努力、責任、人生設計、罪刑の主体だ。刹那無常は現実事実を否定するから、無意志、無努力、無責任、無計画、無罪刑、無主体だ。一期無常を忘れた仏教は人間修行を唱える理論的根拠がない。
さきに高校生は苦手だと言われたエピソードをあげた。世間にはある程度以上の知識がなければ仏教は理解できないという前提がある。仏教経典が智の宝庫であるのは間違いない。どれほどの智慧が埋もれているのか想像もできない。しかし経典を学んで得る自信があるとすれば、その自信は刹那無常の説に反するであろう。エリート主義に通ずる偏見の種が刹那無常という考え方によって植え付けられた可能性がある。
上掲の仏教辞典では刹那無常は二つの無常の片方だ、だから全体の真理ではない。どんな場合でも同じだが、不真理に基づく理論体系は半端な理屈を積み重ねてできる。仏教者は刹那無常を真理だと見做して精細かつ壮大な理論体系を樹立した。高校生は理屈に染まっていないから変だなと感じる。数百年間の洗脳が生き生きした肌感覚を押し潰してきたと言えないだろうか。
刹那無常は刹那、瞬間が断滅する、ナノ秒の無常だ。刹那と無常は両方が時間で、同語反復する。英語も同じで瞬間が無常する。時間は不可得で、刹那と無常は突き詰めると実態がない。存在すると確言できない。
諸行無常はもともと諸行(諸々の存在物)が無常断滅するという意味だ。それは一期無常と同じだった。ところが平家物語は諸行無常を刹那無常(瞬間が無常する)だと曲解させた。
西欧思想でも聖アウグスツスからハイデッガーまで時間、瞬間に取り組んでついに解答を得られなかった。仏教では龍樹尊者の例もある。洋の東西を問わず学者天才が瞬間論に執着する理由はなんであろうか。
一期無常は見たり触ったりできる、持続存続する物とその断滅である。正法眼蔵では有時の無常であり、薪の前後裁断だ。難しい単語だが当たり前の事実を漢語に置き換えているだけだ。
人なら幼年期、壮年期、老年期と具体的な人生(法位)も表す。岩や砂、水と氷、鹿と熊、小鳥、鷲、蝶、大木花木、激痛、健康、幸福、感激、この世に一期ならざるものはない。
土俵の鬼、二子山親方は人間修行の自覚のもとに中学生らを手取り足取り指導された。頼るは自分の体と努力のみ、情熱を持って稽古に打ち込み、責任を果たし、一回だけの人生を有意義に過ごす相撲道を教えられた。親方は無常という言葉を使われなかった。日本には無常を語らなくても人生を全うできる道がある。多神教の国の証だ。
道元禅師は「薪の法位に住して」と諸行を一期の意味で書き記された。しかし遠孫は無常は刹那無常だと誤解してきた。仏教徒ははやく刹那無常の洗脳から脱するべきだ。ほんとうの諸行無常は一期無常だと目覚めれば、日本人なら自然に人間修行の意欲が湧いてくる。
池田永晋