日本の行方(4) 寺院と県民性
ある研修会に出席したとき、朝食時に隣席になった講師が、「徳島県には曹洞宗のお寺は十寺しかありません。」と言われた。講師は東北のひとで四国に思い入れがあるわけではなく、単に全国のお寺の数を数えてみただけということであった。
当方は愛媛県出身で、四国四県のニュースには敏感になる。甲子園の出場校やそれぞれの優勝回数とかには毎年ライバル意識を掻き立てられた。総理大臣の出身県もとなりだと身近なニュースだ。
三木武夫首相は徳島出身だった。クリーン三木のイメージで人気があったが、ロッキード事件をはじめ異例づくめの政権運営をした。党内サヨクといわれ最後は全派閥を敵に回した。まずアウトサイダーで便宜上自民党に属した感じだった。
後藤田正晴氏も徳島出身で警察庁長官を務め、中曽根内閣で官房長官だった。警察のトップは悪者を捕まえるプロ、正義の実現を期待した。結果から見ると正義は勝たなかった。北朝鮮による拉致は後藤田氏が活躍した頃の事件だ。現場の警察官には失踪者の捜査をしないよう圧力がかかったという。警察は清廉でないというイメージは後藤田氏から始まった気がする。
瀬戸内寂聴は作家から天台宗の尼僧になった。異色の経歴だ。阿波踊りの、「同じアホなら踊らにゃソンソン。」の文句も珍しい。徳島は野盗だった蜂須賀小六が藩主となった。日本人離れした人物が多いことに関係しているのだろうか。
愛媛県には真言宗と曹洞宗の寺が多い。伊予は古事記、万葉集にも載っており保守的で穏やかな雰囲気が漂っている。その理由は気候が温暖だからだとばかり思っていた。他県では災害をもたらし恐れられる台風到来が待たれ、大雪が喜ばれる。地震も雷も火事もない。
県内に点在する曹洞宗寺院はさらに平和な性格に寄与したように見える。檀信徒は寺のサポートや行事参加を通して仏教に触れてきた。曹洞宗の宗風が県民性の成り立ちに少なからぬ役割を担った可能性は大きいだろう。生まれた場所で人の性格が決まる、洗脳か影響か運命か因縁か考えさせられる問題だ。
曹洞宗のお寺では何が教えられたか。まず諸行無常であろう。あらゆるもの、諸行は無常で、すべては刻々に遷移生滅を繰り返す。そのまま受け取ると、世界も私も無常だ、明日のことは誰も知らない、一瞬後は何が起こるかわからない。無常思想は権力の頂点である総理大臣を目指すというような意志力の基盤にならない。一生が無常生滅だけなら権力闘争も自己研鑽も意味がない。無常は川の流れのごとく、人生はローソクの炎のごとく、朝日に消える露のごとく夢幻のごとくだ。
待てよ、自分は今日も昨日も一年前も生きてきた。友達もみんな生きているし、将来を見据えて学問、柔道、野球、サッカー、楽器の演奏やダンスに励んでいる。花道、茶道、書道や読書に熱中している学友も多い。みんなあらゆる命は無常するという仏教の真理を知らないんだろうか。なぜ毎日楽しそうにしてられるんだろうか。
ああそうか、みんな欲望で生きているんだ。束の間の喜びや幸福を求めて遊びまわる。世間は欲望に憑かれた人間が蠢いているだけだ。仏教では貪瞋痴の三毒という。清らかな真理の世界は遥か彼方にあって、現実は三毒に塗れた汚穢の世界だ。いやだいやだ。
嫌だからといって完全逃避し自殺するほどの勇気はない。自分も欲望に負けて、欲望に従って生きる方が楽だ。これを生命力というのかなあ。清濁合わせ飲むのが生命力なのかなあ。今日もみんなに合わせて生きるか。
諸行無常に生命の存在根拠はない。ではなぜ生きているかというと貪欲、我愛、我見による。自我が見た勝手な見方だから我見という。孤立した自我で生きるのだから大変だ。毎日踏ん張って背伸びして生きる、我慢という。どこまで行っても限界、安心、存在基盤が見つからない。これだと思ったら次の瞬間生滅するので訳わからないから我痴で生きる。いたずらに休みなくもがきあがき疲れ果てる。毎日の生活が無意味、無方向、無定見でほんとうは何をしたらいいかわからない。
ふつうに無常や諸行無常の概念で思考を進めると刹那無常に行き着く。物も生命も思想も価値観もすべてが刻々無常する。あらゆる思いも正義善悪の観念も無常消滅する。これではまともな思考も会話も成り立たない。勉強するほどまちがうスコラ哲学の一種になっていないか。洋の東西を問わず煩瑣哲学にのめり込むと人と世に資する成果は得られない。
諸行無常は仏説だろうか。仏教は古臭いとか後世でっち上げられた神話だとか決めつける前に仏典を読んで欲しい。釈尊が悟られた直後の経緯を記録したお経がある。解脱の発見について語りたくなった釈尊が初めに遭った修行者は、話を聞くと、「俺は同意しかねる。」と言って立ち去ったと書いてある。仏様がコケにされた。次に昔の修行仲間と再会する話へ続く。
そのあとさまざまな人が身の上相談に来るのだが、諸行無常の言葉が出てこないのが不思議だった。生老病死は苦であるとか四苦八苦の話はあるのだが、無常についての話はなかった。具体的な苦痛の例ばかりが記されているお経が不可解だった。諸行無常が真理であり仏教だと確信していた頃だから、無意識のうちに無常の言葉を探していたのだった。無常が仏説でないことは明らかだった。
諸行無常は仏説ではないが仏教だとする言い方もある。法華経などは釈尊死後五百年ほど経って成立した。仏説のはずはない。それでも仏教の最高経典とされる。ということは仏教は仏説である必要はない。大智度論にはすべての真語、美語、実語は仏語であるとする記述がある。その通りで、われわれも各人が真語、美語、実語を学び、理解し、書き、会話するように心がけるべきだ。
仏教は決定の説のはずだ。絶対間違わない説で、曖昧さがあってはならない。諸行無常は厳密に追求すると、刹那無常と一期無常に分解できる。現成公案の巻で道元禅師は薪と灰の例えを見事な一文で説明された。刹那無常だけで解釈する人は訳わからなくなる。どちらの無常かいちいち注釈が必要な概念は決定の説ではない。学者や論者が経典を研究して作り上げた説が諸行無常だ。
無常はあらゆる存在物を否定するから、物と生命が存在する現実を説明できない。常住を否定する先には時間の否定もある。一切否定は論理的には興味深いが、現実を説明できない思考の遊びというしかない。あらゆる存在する物は短時間でもナノ秒でも常住存在する。世界は諸行無常、刹那無常、刻々瞬間断滅と言いながら現実の存在はまとまった炎の如し、川の流れの如しというような曲がりくねった説明をする。
亀井勝一郎という作家がいた。抒情的な文章が特徴だった。巡礼や無常について書かれて、文章に惹かれてよく読んだ。沢木老師も褒めておられた。老師のお墨付きなので信用できる感触を得た。
亀井勝一郎氏の晩年のことだが、ある会合で、「ところで死って何なんでしょうね。」と問われたそうだ。問われた人は、「死について永らく書かれてきたのはあなたではないですか。」と返したそうだ。
そのエピソードを読んだときはなんのことか判らなかったのだが、今では想像できる。刹那無常をとことん追求しても死は解らない。それは一作家の問題ではなく、平家物語と方丈記に洗脳された日本人全員の問題だった。更に、日本語の問題でもあったと言うこともできる。
刹那無常は破壊ばかりだ。自己の人生まで破壊する。正法でない証拠だ。像法と名付けても許されるだろう。末法は無法だからそこまではいうまい。禅は違うと思っていたのだが、八世紀の唐代に作られた証道歌を開くと、「諸行は無常にして一切は空、これ如来の真実義なり。」とある。以来禅者も諸行無常を受け入れてきた。
刹那無常はあらゆる存在物を瞬間ごとに無い物にする。そうでなければ首尾一貫しない。金剛経には露の如し、電の如し、夢のごとし、幻の如し、泡の如し、影の如しとある。短時間ではあるし存在感は薄いが存在する。すべてを瞬間無常で否定するなら露も電もあらゆる物は存在できない。目の前にある存在物を説明するために幻や炎の例えがもたらされた。それは目前の事実を説明するための苦肉の策だった。
岩石や大木は何千年も存在する。空手家が撃突しても壊れない。人体も昨日今日と存在する。人生百年と言われる世になった。無常の原理で一切否定しても目の前にはあらゆるものが存在する。
刹那無常?現実の存在物を無理なく説明できない原理は真理とは言えないであろう。人生の見通しを与えられなければ正しい人生観とは言えないであろう。
ひとは生誕してから毎年誕生日を祝い、歳を重ねる。誕生日を祝う行事そのものが刹那無常の否定だ。昨年も十年前も同じ名前の人物が存在した。同じ名前の自分はたとえば五十年生き続けてきたし、ひょっとすればあと五十年生きるであろう。この同じ名前の人物が生き続けることを刹那無常は説明できるか。百年間同じ名前である事実は刻々の生滅とどう関係するのか。
一期無常は人生の大枠である同じ名前の存続を素直に説明する。名前だけでなく最近は顔認識や声紋認証まで出てきた。なぜ認証できるかといえば人は瞬間無常するのではなく、一期、一生を生きているからだ。人でなくても薪と灰、桜の花や紅葉もそれぞれ有限な一期を生きてそして散る。自己の形が維持される時間が一期で、誰でもどんな物でもそれぞれの一期を存在する。陽炎の儚い一期もあれば屋久島の縄文杉のような大木もある。
一期無常は生誕から生の終わりまでが一期で創造と維持建設期間だ。無常は崩壊に当たる。仏教では因縁和合と因縁離散と言われる。すべて存在するものは理由があってある時間存在し、寿命が尽きるとかで理由がなくなると消滅する。この宇宙に存在するものはすべて一期だけ存在し、そして無常消滅する。
一期無常なんて聞いたことないという人は多いはずだ。私が再発見した概念だから知る人が少ないのは当たり前だ。ただし辞書には書いてあるしなぜ一期無常でなければならないかの理由も発表しているから神秘でも虚偽でもない。何世紀も見落とされてきた真実を発掘しただけだ。
刹那無常はすべてを刻々に断滅するから自己は破壊される。嘘だと思ったら刹那無常を根本規則にして生活してみればよい。たちまち行き詰まるだろう。なぜそう言えるかというと、坐禅の悟りは刹那無常の体現だと思い込んで無常になり切ろうとした経験があるからだ。その結果刹那無常の限界がわかった。
一期無常は誕生から死ぬまでの生涯だ。すべての物は生あるものも生なきものも一期を存続する。人は子供でも青年でも壮年でも箇々の一期を生きる。世に尊敬される立派な一期を生きることもできるし、中途半端ごまかしでいい加減な一期を送ることもある。それは箇々人の心構えと生活態度次第ですと説明されれば、子供心にも仏教に基づく人生観の芯が出来たはずだ。その芯は貪欲や個人我ではなく、仏法に立脚したまっとうな生命力だったのだが。