正法眼蔵現成公案書き置き(2)

    正法眼蔵現成公案書き置き(2)

  諸法の仏法なる時節、すなはち迷悟あり修行あり、生あり死あり、諸仏あり衆生あり。

  万法ともにわれにあらざる時節、まどひなくさとりなく、諸仏なく衆生なく、生なく滅なし。

  仏道もとより豊倹より跳出せるゆえに、生滅あり、迷悟あり、生仏あり。

  しかもかくのごとくなりといへども、華は愛惜にちり、艸は棄嫌におふるのみなり。

* * * * * * * * 

  現成公案巻の最初の四文は見事な韻文で、読んだ人は誰でも感動するだろう。八百年ほど前にこれほどの文章が三十歳の禅僧によって書かれたとは信じ難い。現在でも通用する美文で、日本語の良さが余すところなく輝いている。

  美文と論理に驚愕した人は私だけではない。注釈書には劈頭の四文を称賛する言葉が並んでいる。一文一文が仏法そのものであることを称揚しきれない、褒めたりない心情が吐露されている。

  諸法は諸々の存在物だからあらゆるものである。それらが仏法なる時節には迷悟も修行も生も死もなんでもある。仏法の世界は仏陀の理法が行き渡っている極楽のようなもの。ひとばかりでなく動物植物までもが仏の慈悲に恵まれて生きる。時節はあらゆる時節、いつもという意味に解される。ありありありである。

  ところが世界は一面だけではない。昼があれば夜もある、夏の反対は寒い冬だ、生があれば滅もあり、善があれば悪もある。第一文だけでは世界の半分しか表されていない。そこで第二文では世界の否定面が示される。われにあらざるとは無我である。その時は世界の否定が徹底的になされる。なしなしなしである。

  第一、第二文は仏法についての叙述であった。仏法ではあるが観念に偏った文章である。第三文は仏道について語られる。仏道は仏法を実際に行ずること、その方法と正しい行じかたである。観念に対する行為の問題である。仏道は常識的、相対的な豊かさや倹(少ない)を跳び越えている。行為にとっては現実に何でも起こりうる、あらゆること、ものが存在する。ありありありである。

  現実世界では仏法が行われているとは言い難い。誰でも彼でも人生においてうまくいかない人の方が多いであろう。それで第四文では咲いていて欲しい花が散り、邪魔な草が生い茂る。現実に帰れば仏の理想世界はない。理想主義によって現実から目を逸らしてはならない。

  これまではおおむね以上のように解釈されてきた。

* * * * * * * * 

  まず文章の形式について考えてみる。これら四文は一つのまとまりになっている。内容を吟味しながら読んでいくと、起承転結の型ではないかとおもわれる。それで文意が理解できるかどうか検証しながら行きたい。

  文型の特定がなぜ必要になるかといえば、第四文の位置付けがはっきりしないことがときたまあるからだ。仏法や仏道で大上段に振りかぶった感のある前三文と比べて、第四文は花や草の話になる。美麗壮大な抽象語との落差に面食らう人が出てくる。そこで第四文を前三文から切り離して独立文と見做すとか、後の段落に推しやるなどの混乱があった。

  起承転結の文章だとすると第四文の位置は結文だと決まる。文型が決まれば解釈するさいも迷うことが少ない。見聞不足かも知れないが、現成公案の注釈者の中で、起承転結の文章類型について語られた例は見たことがない。

  日本で流行する歌謡曲には起承転結の歌詞と曲が多い。北上夜曲、吉田正作曲の異国の丘、藤山一郎の青い山脈、圭子の夢は夜開く、北島三郎の兄弟仁義などなど。起こし、承継、転換、結びのリズムはわれわれの体に染み付いている。

  起承転結は現成公案巻の至る所に出てくる文章作法で、初めの四文だけでなく、段落ごとに区切ると四段ごとに内容がまとまる形式にもなっている。漢詩の表現方法に裏打ちされた和文だ。書く方は論理の展開と帰結の型が決まっているので伸びやかに書ける。読む方は落ち着いて文章の流れを辿ることができて理解しやすい。文章のリズム、論理のリズムが創られる。詩のように躍動感溢れる文になる。

  第二の特徴は、前二文は断定文ではなく条件文になっている。諸法の仏法なる時節ときてありありありと締められる。万法のわれにあらざるときてなしなしなしと断定される。内容は全世界を表わす諸法と万法の話である。だから堂々たる世界観を提示されているように感じる。

  ところが目を凝らして読むと「時節」となっている。普通にはその時はと受け取る、少なくともいつも必ずということはない。節はフシで限りがあるから、時間でも時節なら有限だ、常にというわけにはいかない。仏法である時節と仏法でない時節の二つの条件が一文の中に含まれている。華麗な言葉を連ねながらさりげなく根本的な弱点を挿入する文章の芸術に驚かされる。

  第一文は諸法が仏法の時だけあるあると言っているだけで、仏法でないときのことは見落としている。一文で二つの答えが必要になる不安定な文章だ。さらに悟、生、諸仏はよいとして、仏は迷、死、衆生は克服されたはずだ。なぜ迷悟と並列される?

  第二文は万法のわれにあらざる時節だからやはり二つの答えが必要だ。その上に、われにあるとあらざるの二通りが考えられる。なしなしだけの述語で片付けられるような単純な論理ではない。

  一見壮麗堅固な宮殿のように見えた第一文と第二文は、じつは不安定な、結論定かならぬ条件文だ。ところで吹けば飛ぶような第四文を読み直すと、不思議なことに一番まともな断定文である。「華は愛惜にちり、艸は棄嫌におふるのみなり」と結論されている。見た目通りであるが、意外に思われるのではないか。花や草がなぜ断定的な結論になるのか。

  手紙でもエッセイでも小説でも、通常は初めの文章は導入部である。書き出しがあって本文が続く。経典も同じで、因縁分、正宗分、流通分の形式で書かれることが多い。因縁分が導入部に当たる。

  このような作文の常識が現成公案巻の解釈に限っては無視されてきた。この一巻に御開山の宗乗がすべて書かれてあるみたいな、初めから世界宇宙の構造が書かれてあるとする見方が多かった。最重要な結論を先に書かれるのが道元禅師の癖と言われた方もおられる。

  トルストイは「戦争と平和」の書き出しを二十回直したそうだ。小説家にとって書き出しでまず興味を持ってもらうことがいかに大切かがわかる。平家物語も「祇園精舎の鐘の声諸行無常の響きあり」の見事な韻文から始まる。漢詩をたしなむ知識人にとっては韻文を駆使するのはごく普通の感性だったのかもしれない。現成公案巻の因縁分は大成功だった。一度読めば忘れられない名文である。

  公案禅はいかなる禅なのか。よく知らないのだが、坐禅中に公案を拈堤して師家に解答を示すことが重要な修行と聞く。修行のゴールは悟りを開くことのようだ。得悟は釈尊と同じ悟りを開くことであろうから容易なことではない。学問だけではなく道場での出処進退や生活作法も師匠から教えられるだろう。それは道元禅師も同じ道を辿られた。その結果明全和尚から法を継がれた。

  公案禅修行者にとって得悟は死活問題となろう。一大事が成就するかしないかの分岐点である。ここで時節の語が出てくる。修行者にとっては悟りの前と後とでは雲泥の差がある。悟ったときは欣喜雀躍、手の舞い足の踏むところを知らずと書かれた方にお目通り叶ったこともあった。

  第一文と第二文は公案拈堤の内容ではないか。世界と宇宙を拈堤するのは宋の臨済禅でも行われていた。その一端は道元禅師が帰朝直後に書かれた「普勧坐禅儀」に示されている。世界宇宙の一切を把握するギリギリの瞬間はすぐそこまで来ているはずなのだが、あと一歩のところで手が届かない。仏教の根本概念の追及とともに、ありあり、なしなしの肯定と否定の両側面から思量は続く。

  悟りの時節はなかなか来ない。時節は到来しても気づかないかもしれない。悟りが素通りしたあとさらに拈堤が続く。時節は到来していないとどうしてわかるか。いつまで修行し続ければいいのか。悟るまで、しかし仏の悟りを師匠とはいえ人が認定できるのか。悟りを求めながら終わりのない迷いに入る。そもそも悟りとは何なのか。

  そこで第三文の出番である。諸法や万法、仏法の思量拈堤といっても結局は言葉の問題ではないか。言葉なら何もかも妄想だ。相対的な概念、妄想を跳び越えたところに実行としての仏道がある。仏道は頭で考えることではない、言葉の壁を破ってこそ真の生命活動がある。仏道を行じなければ悟りは来ない。あらゆる現場、あらゆる行為が仏道である。坐禅だって一つの行為ではないか。ありありありだ。

  前三文は公案禅修行者の論理と心理を描写したものだと考えられる。では異なる論理と心理の禅があるのかという論議になろう。ヨガとか瞑想とかいろいろ持ち出されると思うけれども、私の知るところを記すにとどめる。

  曹洞宗で道を得られた道元禅師の坐禅修行は「正法眼蔵坐禅儀」に示されている。静かに手を組み足を組んで座蒲の上に坐るだけである。一時間坐れば一炷の坐禅だが、何十年も取り組む人もいる。特徴的なのは悟りを求めないことである。ただ坐るという行為が自然に不染汚の人格として現れる。それだけだ。特殊な行ではなく何か果報があるわけではない。無理がなさすぎ呆気なさすぎて手応えがない。

  ここまでくると第四文の意義はお分かりだろう。「しかもかくのごとくなりといへども」とは、前三文のように公案を拈堤し、解答を探し求め、行動に移すというような参学修行は「華は愛惜にちり」、仏法の悟り及び仏道がもたらす功徳という果実を得ることはない。それどころか心理的に荒れたり絶望したり、邪説に飛びついたりといった艸が生える。これが結論だ。

  多くの修行者は仏法だと信じて参学し、仏道だと信じて修行するのだが、いつまでも答えが得られず暗中模索を続ける。それが禅修行の現実だ。悟りは観念の上でも行為の中でも、求めて得られるものではない。

  これら最初の四文が現成公案巻の因縁分で、本文への導入部になる。ではどう考えればいいか、何が仏法か、何が迷悟で何が修行なのか、問題と解答を示される文章の展開が予想される。

池田永晋

正法眼蔵現成公案書き置き(1)

    正法眼蔵現成公案書き置き(1)

  正法眼蔵 現成公案

  正法眼蔵現成公案の巻は二祖孤雲懐奘禅師編纂による75巻本の最初に位置付けられた。第一巻に置かれたのではじめに目に入る。在家信者宛の書簡ということでやさしく、正法眼蔵の中ではもっともよく読まれている。

  注釈書も多くまた翻訳書も多い。キリスト教会の説教材料になるほど論理的でありながら文学的な描写が多い。道元禅師といえば現成公案の悟りというまでに知れ渡っている。

  何世紀にもわたって読まれ研究され尽くした現成公案巻についていまさら何を語るのかと訝しげに思われる方は多いだろう。私自身が同じ認識であった。道元禅師の直弟子をはじめ多くの祖師がたが研鑽され発表されてきた巻である、浅学非才の出る幕はないと思ってきた。

  先達は真摯に坐禅修行され学業に優れた方々である。好きなだけ坐禅はしたけれども生来の怠け癖は一生克服できなかった身とは比較にならない。長い間正法眼蔵について語る資格はないと決めていた。

  仏教とは何か、坐禅とは何か、修行とは何か、仏法とは何か、真理とは何か、自己とは何か、日本とは何か、日本人とは何か、国家とは何か、歴史とは何か、世界とは何か、人生とは何か、学問知識とは何か。子供が持つような疑問を抱えたまま時間だけが過ぎた。読書は好きだったし勉強もしたつもりではあったが、ほとんどの疑問は解決しなかった。

  私が道元禅師門下、安泰寺の内山老師の法莚に飛び込んだのは、おおかたは人生問題解決のためだった。上に疑問形で書いたことはすべて切実な問いだった。全部解決しなければ落ち着かない問いかけだった。曹洞宗には全面的にお世話になったのだが、自分の救いを得られるかどうかは自分自身の問題だ。

  ヒントはあった。激痛、苦悩に苛まれると大きな発見があった。一期無常を知ったのは五十肩の激痛に苦しんだときだった。頼ったのは現成公案巻の薪と灰の一節だった。坐禅の力を知ったのは幼少からの苦悩が一瞬のうちに消えたときだった。定力を思い知ったのだが、それを表す言葉は思いつかなかった。

  昨年の秋、なんの前触れもなく上記のようなすべての疑問が解決した。70歳を超えていた。端的にいうと、釈尊は四苦八苦に代表される苦悩からの克服脱出を求め、それに成功された。解脱という。解脱されたとき真理が見えた。それが仏法が顕現したときであった。

  具体例を挙げる。私は坐骨神経痛を患った。尻と腿裏の神経が痛くなり、座れなくなった。医師に整体師を紹介され少しは良くなったがはかばかしくない。一年ほどしてスポーツジムに通いはじめた。始めはおぼつかなかったが歩き、櫓を漕ぎ、柔軟体操をした。まもなく地力がついて、身体が運動に慣れ活力を回復した。そして坐骨神経痛は癒え、腰や膝の痛みも消えた。

  運動不足が現代文明病の原因であるとは整体師 Pete Egoscue 氏の名言である。身体の痛みのほとんどは運動不足と間違った運動からくる。正しい運動が修行で、無痛になれば解脱だ。運動不足が現代文明病の原因だという真理が見えてくる。このことは修行の必然性をも教える。読書や理解は十分でなく、実際に運動しなければ無痛も真理も得られない。身体運動、修行、活動は人生の根本だ。曹洞宗が道元禅師時代から修行を強調されたのには確かな理由があった。

  神経痛を発症する六ヶ月前にチェーンソーで左足を切って半年間松葉杖状態で運動できなかった。文字通り運動不足が坐骨神経痛の原因だった。多くの医者は対症療法だけに関心があって原因を探究しないようだ。医者が教えてくれないので治療法がなかなかわからなかった。

  釈尊は一切苦を解脱された、だから一切智を得られた。われわれは有限な知力と体力しかない。ひとつひとつ参学修行するしかない。得られる知恵は浅く狭い。それでも正しい知恵に基づいた修行生活をすれば苦悩が少ない人生を送られ、混乱が少ない社会が実現できるであろう。その方法は八正道として残されている。

  われわれは悟りを求め仏法を勉強することが良いと思ってきた。得悟の前提条件が坐禅修行であり、深く学問することが仏法を知解することに繋がると考えて努力した。しかしその結果誰が悟りを獲、誰が真の仏法を諦めただろうか。明快な答えがないことがあたりまえと思われていないだろうか。

  何かがおかしい。人知と仏智を混同していないだろうか。悟りも仏法も真理も、求めるのは貪欲ではないのか。三毒の一つである貪欲が得たものは真理たりうるか。それは仏法たりうるか、悟りだろうか。

  このような観点から正法眼蔵を読み解いた祖師がたはおられなかった。坐禅しなければ現成公案は解らないとか修行すれば深い境地が開けるとは言われるのだが、その通りだと思うのだが、文章と自己、仏教用語と日常生活との関係が直結しないきらいがあった。

  以下に書き置くのは、私が五十年以上修行し理解できた果実である。修行参学のヒントにしていただければ幸いである。

* * * * * * * * * * 

  注釈書を開けると多くの祖師がたは、現とは何か、成とは何か、公とは何か、案とは何かという解説からはじめられる。漢字に深い意味があると教えられるし、深く言葉を知らなければと思い知らされる。

  たとえば詮慧禅師は御抄で、「もとはあらはれざりつることを、今現成するにあらず。隠没に対したる現成とは心得べからず。」と註された。西有禅師は正法眼蔵啓迪で、「隠顕存没にかかわらぬを現といふ」「成壊にかかわらぬを成といふ」と言われた。

  現成は現れて成るだから何かが目に見えて出来上がるイメージだ。ところがことごとく反対の意味だとされて、それが仏法の深い読み方だと言われる。では長年「隠没に対したる現成と心得ず。」と言い聞かせてみたら現成がわかるだろうか。何が分かったのだろうか。五十年経っても解らない。これはどうしたことか。

  本文では後半に現成公案の語が二回登場する。その箇所で詮慧禅師は現成公案について一言も触れられない。なぜだろうか。解題の場での否定的な解釈が文脈と矛盾するからではないか。西有禅師も同じく何も語られない。文脈の中で説明できない事情があるのだろうか。

  手紙はふつう、挨拶、物語の叙述、もっとも伝えたい物事、締めの挨拶で終わる形式が多い。本文中の現成公案は道元禅師がもっとも伝えたかった言葉であったのではないか。その場に来て何も注釈しないのは不可解だ。正宗分、伝えたい本文を無視している。

  内山老師は解題にも力を注がれたけれど、本文の中の現成公案の用語も丁寧に説明された。文脈の中で整合性がとれている。古人を超える画期的な業績である。七百年かかって新しい解会が受け入れられるようになったのかもしれない。

  解題で講釈が続くのは、文脈から離れた文字の一般理解を披露されているようだ。それで現成公案とは何かわかればいいのだが。

  西有禅師の啓迪を引用する。「この御巻は開山の皮肉骨髄である。開山御一代の宗乗はこの巻を根本として説かれてある。御一代の仏法はこの一巻で尽きる。九十五巻はこの巻の分身だ。およそ古人が宗乗を拈堤せられるのには、必ず前人未発の一句があって、一代の宗乗は皆それを本として唱えられる。その一句はよく一生を貫く一句だ。古人に二言はない。だからその一句はその人の法身である。中略。開山は十方世界を現成公案と見込まれる。これが開山の鉄語なのだ。中略。ゆえに開山の一代時教は、この現成公案の一句で尽きる。」「現成公案とは、宇宙法界の本然自性、あり目通りということだ。宇宙法界は無量無辺である。古今があり、三世があり、十方があり、迷があり、悟があり、諸仏があり、衆生があり、生があり、滅がある。そのほかいくらでもある。」

  正法眼蔵啓迪は西有禅師の講話を筆録して出版されたものであるが、講談を読むように面白い。現成公案が書物と仏法と開山つまり道元禅師の人格とともに絶賛されている。現成公案が世界を表し、現成公案巻さえわかれば全仏法が解ると説かれている。現成公案は万能である。他の祖師方も控えめではあるが同じように語られている。

  私も出家した当時、血湧き肉躍る思いで読んだ。自信に満ちた高揚する言葉の連続で、禅は世界を飲み干すほど偉大なもの、修行を続ければこれほどまでの境地が得られる、こんな禅僧が実在されていたのかと驚きながら拝読した。もちろん全巻を読み面白いから何度も読み返した。

  しかし「御一代の仏法はこの一巻で尽きる。」とは具体的にはどういう意味なのだろうか。「開山は十方世界を現成公案と見込まれる。」「開山の一代時教は、この現成公案の一句で尽きる。」などは大変勇ましい表現だが、真実なのだろうか。

  現成公案の位置付けを西有禅師と同じように考えている方は多いように見受けられる。アメリカ人の初学者からも聞いたことがあるので、現成公案巻さえわかれば全仏法がわかるという説は広く知られているようだ。

  しかし「現成公案とは、宇宙法界の本然自性、あり目通りということだ。」という知識を得たとして、それは具体的に何を意味するのだろうか。何になるのだろうか。極論すると高尚かつ抽象的な言葉を繋ぎ合わせただけのようにも見える。仏法にとって言葉は何かという問題もあるから簡単に答えは出せないのだが、修行に資するとは思えなくなった。

  もうひとつ極論を述べると、文脈を見ないで解題だけに注力するのは、漢文字のイデオロギーを演説していることになるのではないか。仏法の話をしているようでいて、じつは漢字の解説をしているのではないか。文法が曖昧な表意文字だから一文字一文字について細々と説明できるに過ぎないとも言える。英語だったら表音文字だし文法がきちんとしているから文字の扱いは格段に変わる。

  解題が延々と続くのは支那仏教、つまり漢字に翻訳された仏教に特有な方法であろう。漢字化された仏教が仏法といっても、それはインドで釈尊が発明された仏法とは異なるのではないか。漢字のイデオロギーというこれまでにはない見方が成立するのではないかと考えられる。

* * * * * * * * * 

  正法眼蔵現成公案は、正しい公案があるとすればそれは現成公案であるという意味だろう。公案は道元禅師が宋に渡って見られた臨済禅、公案禅の公案だ。道元禅師の師匠は明全和尚、その師は栄西和尚だ。日本で公案禅を深く修行されてから渡宋された。公案とは何かと問題意識を持たれたのは当然だ。解題はこれだけで十分だろう。あとは文章の展開に合わせて要点を解説したい。

池田永晋