正法眼蔵現成公案書き置き(2)

    正法眼蔵現成公案書き置き(2)

  諸法の仏法なる時節、すなはち迷悟あり修行あり、生あり死あり、諸仏あり衆生あり。

  万法ともにわれにあらざる時節、まどひなくさとりなく、諸仏なく衆生なく、生なく滅なし。

  仏道もとより豊倹より跳出せるゆえに、生滅あり、迷悟あり、生仏あり。

  しかもかくのごとくなりといへども、華は愛惜にちり、艸は棄嫌におふるのみなり。

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  現成公案巻の最初の四文は見事な韻文で、読んだ人は誰でも感動するだろう。八百年ほど前にこれほどの文章が三十歳の禅僧によって書かれたとは信じ難い。現在でも通用する美文で、日本語の良さが余すところなく輝いている。

  美文と論理に驚愕した人は私だけではない。注釈書には劈頭の四文を称賛する言葉が並んでいる。一文一文が仏法そのものであることを称揚しきれない、褒めたりない心情が吐露されている。

  諸法は諸々の存在物だからあらゆるものである。それらが仏法なる時節には迷悟も修行も生も死もなんでもある。仏法の世界は仏陀の理法が行き渡っている極楽のようなもの。ひとばかりでなく動物植物までもが仏の慈悲に恵まれて生きる。時節はあらゆる時節、いつもという意味に解される。ありありありである。

  ところが世界は一面だけではない。昼があれば夜もある、夏の反対は寒い冬だ、生があれば滅もあり、善があれば悪もある。第一文だけでは世界の半分しか表されていない。そこで第二文では世界の否定面が示される。われにあらざるとは無我である。その時は世界の否定が徹底的になされる。なしなしなしである。

  第一、第二文は仏法についての叙述であった。仏法ではあるが観念に偏った文章である。第三文は仏道について語られる。仏道は仏法を実際に行ずること、その方法と正しい行じかたである。観念に対する行為の問題である。仏道は常識的、相対的な豊かさや倹(少ない)を跳び越えている。行為にとっては現実に何でも起こりうる、あらゆること、ものが存在する。ありありありである。

  現実世界では仏法が行われているとは言い難い。誰でも彼でも人生においてうまくいかない人の方が多いであろう。それで第四文では咲いていて欲しい花が散り、邪魔な草が生い茂る。現実に帰れば仏の理想世界はない。理想主義によって現実から目を逸らしてはならない。

  これまではおおむね以上のように解釈されてきた。

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  まず文章の形式について考えてみる。これら四文は一つのまとまりになっている。内容を吟味しながら読んでいくと、起承転結の型ではないかとおもわれる。それで文意が理解できるかどうか検証しながら行きたい。

  文型の特定がなぜ必要になるかといえば、第四文の位置付けがはっきりしないことがときたまあるからだ。仏法や仏道で大上段に振りかぶった感のある前三文と比べて、第四文は花や草の話になる。美麗壮大な抽象語との落差に面食らう人が出てくる。そこで第四文を前三文から切り離して独立文と見做すとか、後の段落に推しやるなどの混乱があった。

  起承転結の文章だとすると第四文の位置は結文だと決まる。文型が決まれば解釈するさいも迷うことが少ない。見聞不足かも知れないが、現成公案の注釈者の中で、起承転結の文章類型について語られた例は見たことがない。

  日本で流行する歌謡曲には起承転結の歌詞と曲が多い。北上夜曲、吉田正作曲の異国の丘、藤山一郎の青い山脈、圭子の夢は夜開く、北島三郎の兄弟仁義などなど。起こし、承継、転換、結びのリズムはわれわれの体に染み付いている。

  起承転結は現成公案巻の至る所に出てくる文章作法で、初めの四文だけでなく、段落ごとに区切ると四段ごとに内容がまとまる形式にもなっている。漢詩の表現方法に裏打ちされた和文だ。書く方は論理の展開と帰結の型が決まっているので伸びやかに書ける。読む方は落ち着いて文章の流れを辿ることができて理解しやすい。文章のリズム、論理のリズムが創られる。詩のように躍動感溢れる文になる。

  第二の特徴は、前二文は断定文ではなく条件文になっている。諸法の仏法なる時節ときてありありありと締められる。万法のわれにあらざるときてなしなしなしと断定される。内容は全世界を表わす諸法と万法の話である。だから堂々たる世界観を提示されているように感じる。

  ところが目を凝らして読むと「時節」となっている。普通にはその時はと受け取る、少なくともいつも必ずということはない。節はフシで限りがあるから、時間でも時節なら有限だ、常にというわけにはいかない。仏法である時節と仏法でない時節の二つの条件が一文の中に含まれている。華麗な言葉を連ねながらさりげなく根本的な弱点を挿入する文章の芸術に驚かされる。

  第一文は諸法が仏法の時だけあるあると言っているだけで、仏法でないときのことは見落としている。一文で二つの答えが必要になる不安定な文章だ。さらに悟、生、諸仏はよいとして、仏は迷、死、衆生は克服されたはずだ。なぜ迷悟と並列される?

  第二文は万法のわれにあらざる時節だからやはり二つの答えが必要だ。その上に、われにあるとあらざるの二通りが考えられる。なしなしだけの述語で片付けられるような単純な論理ではない。

  一見壮麗堅固な宮殿のように見えた第一文と第二文は、じつは不安定な、結論定かならぬ条件文だ。ところで吹けば飛ぶような第四文を読み直すと、不思議なことに一番まともな断定文である。「華は愛惜にちり、艸は棄嫌におふるのみなり」と結論されている。見た目通りであるが、意外に思われるのではないか。花や草がなぜ断定的な結論になるのか。

  手紙でもエッセイでも小説でも、通常は初めの文章は導入部である。書き出しがあって本文が続く。経典も同じで、因縁分、正宗分、流通分の形式で書かれることが多い。因縁分が導入部に当たる。

  このような作文の常識が現成公案巻の解釈に限っては無視されてきた。この一巻に御開山の宗乗がすべて書かれてあるみたいな、初めから世界宇宙の構造が書かれてあるとする見方が多かった。最重要な結論を先に書かれるのが道元禅師の癖と言われた方もおられる。

  トルストイは「戦争と平和」の書き出しを二十回直したそうだ。小説家にとって書き出しでまず興味を持ってもらうことがいかに大切かがわかる。平家物語も「祇園精舎の鐘の声諸行無常の響きあり」の見事な韻文から始まる。漢詩をたしなむ知識人にとっては韻文を駆使するのはごく普通の感性だったのかもしれない。現成公案巻の因縁分は大成功だった。一度読めば忘れられない名文である。

  公案禅はいかなる禅なのか。よく知らないのだが、坐禅中に公案を拈堤して師家に解答を示すことが重要な修行と聞く。修行のゴールは悟りを開くことのようだ。得悟は釈尊と同じ悟りを開くことであろうから容易なことではない。学問だけではなく道場での出処進退や生活作法も師匠から教えられるだろう。それは道元禅師も同じ道を辿られた。その結果明全和尚から法を継がれた。

  公案禅修行者にとって得悟は死活問題となろう。一大事が成就するかしないかの分岐点である。ここで時節の語が出てくる。修行者にとっては悟りの前と後とでは雲泥の差がある。悟ったときは欣喜雀躍、手の舞い足の踏むところを知らずと書かれた方にお目通り叶ったこともあった。

  第一文と第二文は公案拈堤の内容ではないか。世界と宇宙を拈堤するのは宋の臨済禅でも行われていた。その一端は道元禅師が帰朝直後に書かれた「普勧坐禅儀」に示されている。世界宇宙の一切を把握するギリギリの瞬間はすぐそこまで来ているはずなのだが、あと一歩のところで手が届かない。仏教の根本概念の追及とともに、ありあり、なしなしの肯定と否定の両側面から思量は続く。

  悟りの時節はなかなか来ない。時節は到来しても気づかないかもしれない。悟りが素通りしたあとさらに拈堤が続く。時節は到来していないとどうしてわかるか。いつまで修行し続ければいいのか。悟るまで、しかし仏の悟りを師匠とはいえ人が認定できるのか。悟りを求めながら終わりのない迷いに入る。そもそも悟りとは何なのか。

  そこで第三文の出番である。諸法や万法、仏法の思量拈堤といっても結局は言葉の問題ではないか。言葉なら何もかも妄想だ。相対的な概念、妄想を跳び越えたところに実行としての仏道がある。仏道は頭で考えることではない、言葉の壁を破ってこそ真の生命活動がある。仏道を行じなければ悟りは来ない。あらゆる現場、あらゆる行為が仏道である。坐禅だって一つの行為ではないか。ありありありだ。

  前三文は公案禅修行者の論理と心理を描写したものだと考えられる。では異なる論理と心理の禅があるのかという論議になろう。ヨガとか瞑想とかいろいろ持ち出されると思うけれども、私の知るところを記すにとどめる。

  曹洞宗で道を得られた道元禅師の坐禅修行は「正法眼蔵坐禅儀」に示されている。静かに手を組み足を組んで座蒲の上に坐るだけである。一時間坐れば一炷の坐禅だが、何十年も取り組む人もいる。特徴的なのは悟りを求めないことである。ただ坐るという行為が自然に不染汚の人格として現れる。それだけだ。特殊な行ではなく何か果報があるわけではない。無理がなさすぎ呆気なさすぎて手応えがない。

  ここまでくると第四文の意義はお分かりだろう。「しかもかくのごとくなりといへども」とは、前三文のように公案を拈堤し、解答を探し求め、行動に移すというような参学修行は「華は愛惜にちり」、仏法の悟り及び仏道がもたらす功徳という果実を得ることはない。それどころか心理的に荒れたり絶望したり、邪説に飛びついたりといった艸が生える。これが結論だ。

  多くの修行者は仏法だと信じて参学し、仏道だと信じて修行するのだが、いつまでも答えが得られず暗中模索を続ける。それが禅修行の現実だ。悟りは観念の上でも行為の中でも、求めて得られるものではない。

  これら最初の四文が現成公案巻の因縁分で、本文への導入部になる。ではどう考えればいいか、何が仏法か、何が迷悟で何が修行なのか、問題と解答を示される文章の展開が予想される。

池田永晋

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