正法眼蔵現成公案書き置き(3)

   正法眼蔵現成公案書き置き(3)

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  自己をはこびて万法を修證するを迷とす。万法すすみて自己を修證するはさとりなり。迷を大悟するは諸仏なり。悟に大迷なるは衆生なり。さらに悟上に得悟する漢あり、迷中又迷の漢あり。

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  ここから正宗分、本文が始まり、仏教の要諦を諄々に説明される。この節は仏教用語がわかれば理解しやすい。自己と万法を白紙に書いて矢印で方向を示せば迷と悟が正反対の関係にあるとわかる。自己が何とかしようとするのが迷いで、万法の方から悟りはやってくる。

  悟に大迷なるは衆生なりとは、悟がなければ迷ばかりだが、悟ったと思う迷いもある。迷いに迷う事実を迷中又迷とされた。どこまで迷っているか分からないほどにわれわれは迷っている。単純ではない。

  さとりも一筋縄ではいかない。悟にも浅深広狭の違いがある。解説し始めると他人事の説教になるので、原文をそのまま呑み込むのが良い。道元禅師が自由自在にさとりについて記されていることに感謝する。

  仏教用語は、悟りとは何か、迷いとは何かなど、それぞれ定義されている。しかし理解したら問題が解決するような平面的な話ではない。真実は何か、参究し続ける求道心が求められる。正法眼蔵は坐禅修行しなければ解らないと言われる所以である。

  「菩薩はまさに常住の慈悲心孝順心を起こし方便して一切衆生を救護すべし。」これは十重禁戒第一不殺生戒の一節である。

  釈尊の弟子になることを得度という。出家得度と在家得度の別があるが、不殺生戒は両者とも受ける。師匠が不殺生についての戒めを簡潔に語り、「汝 能く持つや否や。」と確認する。弟子は戒を「能く持つ。」(よくたもつ。)と返答する。不盗戒、不淫戒など十戒あるが、同じ形式で戒めが諭される。

  儀式であるが違和感があった。「菩薩」と呼び掛けられるのだが、菩薩とは得度を受けている本人である。凡夫である。誰よりも煩悩に塗れているからお釈迦様の弟子になり、修行して菩薩になりたいと志す。

  ところがすでに仏になる前段階の菩薩だと語りかけられる。「ちょっと待ってください、菩薩になるのは早すぎませんか。」と返したかった。実感と異なるが、得度は公式に凡夫の位から菩薩の位へ引っ張り上げることであった。得度以後は凡夫とは異なる次元で参学修行する。

  得度を、沢木老師はユーモアをまじえて、ヤクザの親分と盃を交わす儀式に喩えられた。子分になれば敬語の使い方も日常生活の心構えも普通に仕事している人々と違ってくる。盗みの技術も向上する。それなりの人脈ができ、だんだんと本物のヤクザになる。反対の意味で得度も同じようなものだと言われた。

  前四文は、はじめの印象とはうらはらに結論は花と草の話だった。本来の仏法ではなく観念としての仏法を追い求める修行者の話だった。観念としての仏法と仏道だったので、悟りという花は得られなかった。深淵高尚な概念を振り回してもじつは人情のレベルだった。

  本文、正宗分は因縁分の瑕疵を訂正する文章から始まるのが自然だ。それで迷悟から始められたのだが、ただし凡夫が考える迷悟ではなく、仏法としての迷悟について述べられた。くらいが違う文章と感じるのは、この節の迷悟は仏法の中の迷悟だからだ。得度した者にとっての迷悟だからだ。

  正宗分は流通分まで続く。流通分(るづうぶん)はまとめで、同時に正宗分で述べた教えを宣揚し流布する役割がある。教えの通りに修行すると悟るとか、教えは真実だから布教しなさいという表現になる。

  正宗分は仏法の中の話だという設定は現成公案巻に貫かれている。全体を通して混乱のない端正な文章が続くのは、解脱された仏の世界と解脱の原理に裏打ちされた悟りの解説であるからだ。

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  諸仏のまさしく諸仏なるときは、自己は諸仏なりと覚知することをもちいず。しかあれども證仏なり、仏を證しもてゆく。

  身心を挙して色を見取し、身心を挙して声を聴取するに、したしく会取すれども、かがみにかげをやどすがごとくにあらず。一方を證するときは、一方はくらし。

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  仏は古代インドのあるときにルンビニ園でゴータマ シッダルタとして生誕された。若くして人生は苦しみに満ちていると気付かれた。一子を得られた後出家され修行に専念された。そのご生涯は発心、修行、菩提、涅槃と要約される。菩提は苦を解脱されたこと、涅槃は無苦の生活あるいは御逝去である。

  仏教は一神教ではない。それを端的に表す言葉が諸仏である。大乗仏教は、仏国土が無数にあって、一つ一つの仏国土にひとりひとりの仏が出現していると考える。阿弥陀如来はよく知られているが、西方に浄土という仏国土があり、そこの仏である。浄土の国で法蔵菩薩が発心修行され菩提を得られた結果阿弥陀仏になられた。

  東方にも北方にも仏国土がある。娑婆世界はたくさんある仏国土の中の一つで南方にある。南閻浮提、(ナンエンブダイ)という。ヒマラヤ山脈の南の国である。釈迦牟尼仏は娑婆世界に出現された。

  過去現在だけでなく未来にも仏がいる。弥勒菩薩の名が知られていて、途方もない未来の仏だ。薬師如来もおられる。医術の仏で拔苦与楽の専門家だ。慈悲の仏なら観音様がおられ、いつでもどこでも出現される。

  諸仏はもともと大家族が群居するイメージだ。人は家族の中で誕生し、共に生活し、家族に見守られて逝く。それぞれの大家族には家長が居る。同じように仏は菩薩や在家者とともにある。ひとりひとり独自の個性を持つが孤独ではない。複数の仏がおられるから複数の価値観が当たり前になる。

  一神教だと価値体系が一つになるから他の教説は受け入れられ難い。思考の排他性は生まれながらの人間性と調和するかどうか。

  菩薩のサンスクリット語は Bodhisattva で、菩提薩埵と漢訳された。菩提も薩埵も独立して用いられる。 Bodhi は智、道、覚、 Sattva は生あるもの、衆生、有情の意味だ。菩薩は二つの異なる意味を合わせて簡略化された仏教用語だ。字義から、仏道を志ざす者を菩薩と呼ぶ。仏道修行者は菩薩である。一般的に、仏は菩薩が仏道修行したあとに成る。成仏という。

  この節は前後に分かれ、それぞれ二文で構成されているが、内容から見て第二文の「しかあれども證仏なり、仏を證しもてゆく。」が根本で結論だ。これまで見てきた文章の類型からは外れている。同じ型ばかりではマンネリズムに陥る。文章道に秀でておられた証拠ではないかと思われる。

  辞典には、證は証拠、證書、証券などと使用されるように、證と証とは同じ意味を表すとある。明らかな拠りどころ、確かな書類、本物の引換券のように使われる。形容詞だけでなく、「證しもてゆく」は明らかにする、確かにする、本物になると動詞として用いられた。

  證仏は明らかに確かな仏、本物の仏そのものという意味だ。ただ置物のような存在であるだけではなく生きて活動される。「仏を證しもてゆく」は、仏が仏に澄み清くなり自己実現していくことだ。

  後段に、「現成公案なり。現成公案す。」と表詮される文章がある。「證仏なり。仏を證しもてゆく。」と同じ形式だ。内容も同じかもしれない。

  仏法と仏道は切り離せない。老齢期に足を踏み入れて分かったことは、肉体運動しなければ生存はないという法則だった。運動の後に思考能力を持つ自己の存在がある。血の流れと体温の維持は生命存続の前提条件だが、運動すればこそ筋肉が熱を発し、リンパ液や血の巡りが良くなる。寝たきりの先は死があるだけだ。

  理性が先か実践が先か、観念が上か行動が上か、概念と格闘した日々はなんだったのか。

  因縁分ですべてが仏法だという概念が並べられ議論されたのは、そもそも仏法は仏道とは別だとする前提があったからだ。概念の研究と議論の非生産性に気づいて別の方法があるだろうと考えて求めたのが仏道だった。だからその仏道もまた仏法から切り離されていた。

  同じ誤ちに落ちないために、「仏が仏であるとは、仏ご本人が自己実現し確かな生命活動をなさるからである。」(證仏なり、仏を證しもてゆく。)と宣明された。

  「諸仏のまさしく諸仏なるときは、自己は諸仏なりと覚知することをもちいず。** 身心を挙して色を見取し、身心を挙して声を聴取するに、したしく会取すれども、かがみにかげをやどすがごとくにあらず、水と月とのごとくにあらず。一方を證するときは一方はくらし。」

  「まさしく諸仏なるとき」こそ「證仏なり、仏を證しもてゆく。」なのだが、自己は仏なりと覚知できるとは限らない。「身心を挙して色を見取し」以下は「覚知することをもちいず。」の内容である。

  わが身を知ることは自己を知る第一歩である。手足を見、触って腹をマッサージすることはできる。しかし背中を見ることはできない。痒いところには手が届きかねる。肺や腎臓や肝臓がいかに働いているかなどはまるで分からない。自己が自己を十分に覚知することはできそうにない。

  オリンピックで世界記録で優勝などのニュースがときたまある。華々しいパフォーマンスについて聞くと、あの時は無我夢中で、神様が後押ししてくれた感じだったと振り返られることが多い。本人はただ目標に向けて努力した、評価はあとからついてくる。覚知は妄覚となって記録樹立を妨げることの方が多い。

  覚知を待ってする成仏はない。仏になるほどの方なら、内外の覚知や評価に頼らず、自らの請願に沿って精進されるはずである。

  覚知論は、「真実は覚知できるか。」という問いに集約する。赤ん坊が聞くような素朴な疑問だが、研究していくと奥が深すぎて結論が出ない。ギリシャ哲学や近代西欧哲学においても研究され、量子力学が出現すると物理学までが覚知論、認識論に踏み込まざるを得なくなった。それでも分からないことばかりだ。

  覚知は、鏡と影、月と水のような、主観客観の単純な図式では理解できない。外界内界のあらゆるものを見つくし知り尽くしたとしても、覚知の本である眼や意識を見ることはできない。だから「一方はくらし」だ。しかもどこまで暗いのかどこまで暗いことが肝心なのかさえ判らないほど「暗い。」

池田永晋

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