糖病記(13)いかに死ぬか

糖病記(13)いかに死ぬか                04/08/22

六十代以降、隣人との間で死について会話することが多くなった。彼らも老齢期であるとともに、私自身が怪我しがち、病気がちになった。誰もが死期が近いと感じている。

死は予知できない。古来大宗教家も大哲学者も死について考察してきたが、不安と恐怖だけが残った。現代医術も病院で死を管理する体制はできたものの、死の真実はわからない。いかに死にゆくかは各人に残された問題だ。

昨年末にコロナが発病してから二週間、間断なく咳が続き、食欲無し、十キロ痩せて起き上がるのが辛かった。十五メートル離れた薪小屋へ歩き、薪を搬入してハアハア息しながら5分休む、という行動を繰り返した。肺が直撃されて酸素不足だった。

にもかかわらず発熱も悪寒も苦痛もなかった。筋肉は細くなったが無力にはならず、心地よい断食状態だった。無苦痛のせいか恐怖感は覚えず、快復への希望を失うことはなかった。無医者無薬でじっと自然治癒を待った。八週間でほぼ全快した。

隣人の一人はワクチン打ったがコロナを発症した。医者は検査しただけで治療はしなかった。十歳若いのだが快復後は十歳老けたように見える。体内で免疫の戦いが続いているみたいだ。

人工呼吸器を使用したケースでは、肺までチューブを通すために全身麻酔を十日間続けたそうだ。喉の損傷はないか、麻酔薬の副作用はないか。

ワクチンで予防する、最新医療機器で治療する、薬で炎症を抑えるのが現代医療の常識だ。手洗い、うがい、隔離からゼロウイルスまで実施される。高齢者にはしかし快復後も死期は遠ざからない。

現代医術による治療は必須か。投薬には薬害、大手術には器官損傷の危険がある。強すぎる免疫は病気を引き起こす。人工的な治療は苦痛を長引かせるデメリットも伴う。コストだけでなく肉体的にも、医療による得失は慎重に勘案すべきだ。

自分の中では、生きる限りは自然とともに生き、死のときは自然にまかせるつもりだ。生死をコントロールできるとは考えない方が、苦痛も迷いも少ないであろう。

池田永晋

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