インド仏教通史

インド仏教史 04/08/2022

インドは古来よりヒンズー教の地域であった。印欧語の構造による要素も大きかったと思われるが、インド人は論理を駆使して真理を探究した。真理に迫る精神が豊穣なインド文明として花開いた。

五千年ほど前から、マハーバーラタやラーマーヤナのような物語を通して人間性の精緻な考察が行われた。ウパニシャド哲学と呼ばれる論理的な研究もあった。ヨガや瞑想もそれぞれ人間性の解明に深く寄与した。

紀元前七百年頃には真理到達への見通しと修行方法が絞られた。無所有処定、非想非非想処定はよく知られている。

無所有処定は争いの原因は所有にある、所有が無ければ無琤であるとする。非想非非想処定は、真理は人の想いではなく、また想いで無いのでもないとし、想いを断滅する瞑想を勧めた。

同じような考え方は今日も見聞きされる。古代インド人の知性の高さと論理的明晰さは特筆されるべきだ。釈尊はこれら瞑想を師について修行され、絶対真理たりえないと身証された。

紀元前六百年頃、釈迦族の王子シッダルタは結跏趺坐して明星を見たとき正覚を得られた。すべての苦から解脱され、あらゆる真理が顕現した。それはインド文明の到達点であった。 

釈尊によって見出された真理は四聖諦として遺された。苦諦は人生は苦であるという真理、集諦は苦の発生を十二因縁を通して説明した。滅諦は苦は滅することができるという真理で、道諦では苦の滅に至る修行徳目が八正道として示された。

釈尊は正法を示されただけでなく、八正道を実践して高邁な人格を得られた。真智の獲得はひとに存在根拠を与える、必然的に人格向上を促す。

仏教教団では釈尊が見いだされた仏法に従って、仏とは何か、法とは何か、因縁とは何かなど、学問的な探求が行われた。業感縁起論や阿頼耶識縁起論が大成された。倶舎論は「我空法有」を追求して「三世実有 法体恒有」を唱えあらゆる存在物を分析研究した。後に小乗仏教と称された。

ところで法体、存在物が恒有なら、三世、すなはち過去、現在、未来は存在しなければならない。現在において未来はすでに存在することになる。未知の領域はない。いくらなんでも現実の時間感覚とかけ離れる。

そこで法体恒有の否定が志向された。「人法二空」が徹底され、常の否定である無常が主語になった。常は無い、すべては刻々に無常する。無常の究極は無常も無常する。無常が無常することを空とした。空に則った経典や論稿が量産された。大乗仏教といわれる。

空に基づいた大乗仏教は人類史上最も生産的な精神運動であった。われわれがよく聞く法華経、華厳経、般若経、維摩教や涅槃経などは大乗経典である。読むと魂が揺さぶられるような圧倒的な力と深い叡智を実感する。

しかし根本原理が空では現実の存在物の説明が難しい。目前の物を幻影とみなす言はよく聞く。空も空ずるとしたり、空即是色としたりするのも、空と現実との乖離を解決する試みだ。一切空の中に因縁や時間は存在できるか、自己は存在し得るか。

その後インド仏教は大日経を中心とした密教へと進んだ。密教は全世界を包摂する教えをめざした。チベット仏教では金剛乗とされ、日本では弘法大師の真言宗となった。密教はヒンズー教に近づき、両者の区別はなくなっていった。

インド仏教史を俯瞰すると、断見思想(断滅見)と常見思想(常住見)が交代しながら発展してきたことが分かる。断見も常見も究極の可能性まで探究された。人類史上無比の知恵は経典の形で万人に遺されてある。

仏教は釈尊の時代を正法とし、像法、末法と時が経つとともに法が衰微すると説く。縁起論が大成されるまでが像法、そのあとは常見と断見が仏教思想をを左右した。常見も断見も人法であり、追い求めると偏見に終わる。末法の世となり仏法は衰えていった。

池田永晋

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