存続と存在(6)

存続と存在(6)        08/04/2011

「天台四教儀」というテキストがある。仏教の入門書として古来有名だ。その中で「初心の弁道すなわち正覚を成ず。」とあり、諸所に引用されている。英語では Bigginer’s Mind と訳されて、仏教に関心があるひとはみんな知っている。
Zen に関心がある欧米人はまず 「Zen Mind Bigginer’s Mind」 という本を読む。サンフランシスコ禅センターを創った鈴木俊龍師の著作である。修行者は誰でもいつでも初心で頑張れ、それが禅の生き方だという。
日本では初心に帰れ、初心を忘れるなという言葉は普通に語られる。失敗してもやり直そう、緊張感を失っているから引き締めていこうという含蓄がある。弁道は修行のこと、初心は初発心のことで、発心し続けることが禅心だ。
よく知られた話だが、お釈迦様は出家して六年間苦行された。苦行を六年続けた結果悟りの果実を得られた。修行の継続がなければ、得悟の一分前で諦めても悟りに至られることはなかった。
常識で考えれば、六年間の修行が釈尊に悟りをもたらした。初心が正覚を成ずは実態からかけ離れている。ピアノでも書道でも初心や瞬間心で片付くはずはない。存続がない存在は非存在だ。存続を忘れた議論は得悟も説明できない。
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江戸時代の日本は教育大国だった。各藩には藩校があり、方々に寺子屋があった。ある旧家の倉の中に所蔵されている古文書を見たことがあるが、四国の片田舎に京都の学識者が来て講演会を開いていた。読んだのは速記録だった。知識の吸収と普及に都会も田舎もなかった。それが日本社会だった。
寺子屋の教程は読み書きそろばんと言われた。読み方、数え方、手紙の書き方など実学中心だった。女子には裁縫や料理も特別に教えたはずだ。世間で必要な基本的な知識を確実に教えて、あとは各人の能力と興味に任せて送り出した。みんなが普通の生活ができるような教育が行われた。
脚下照顧、自己を習うという態度は常識だった。脚下は足元で、足元を照らして安全に進行する。歩くだけでなく肉体、心持ち、家庭、世間、経済まで見通して生活しようとの心構えを持つ。心の構えと見通しが得られれば、自分が今日何をするべきかわかる。十年後、百年後に向けて働ける。脚下照顧を忘れたら自分がわからなくなる。自己を習うということは、足元を照らしつつ心も肉体も学習し努力することだった。
同じような共通認識は縄文時代にもあったようだ。考古学の発達のおかげで、黒曜石や石器土器が日本列島の隅々に伝えられたことがわかってきた。稲作だって日本起源ではないかと言われ始めた。大八洲は世界最古の文明の共通認識で結ばれていた。伝統を尊重する存続思想は、存続文明の事実を表現しただけだ。

明治維新以来教育とは学校でなされるものと受け取られてきた。そこで教えられるものは近代西欧に発する知識がほとんどだ。民主主義をはじめ社会契約説とか国際主義とか。グローバリズムやインターナショナリズムはハイカラに聞こえる。「山のあなたの空遠く幸い住むと人の言う」という詩があった。遠くを見る癖がついた。
西洋個人主義が入ってくると、自己だけを見つめ自己の自由と権利だけを追求するようになった。キリスト教では神の前の平等という。子と親が平等だというのだ。どちらも独立してバラバラに自己を探すことになる。「自己ぎりの自己」とまで言われたのだが、現実に自己が親兄弟から切り離して生きれることはない。このような簡単な事実さえ西洋個人思想に夢中になると判らなくなる。

生也全機現、死也全機現は禅語である。生きている限り安心して生きればよい、全力をあげて生きるべきだという意味だ。この世には生と死しかない。生と死は論理的に矛盾関係で、死でなければ生、生でなければ死で中間はあり得ない。生が存続する限り生を生き通すしかない。生と死を直視した人生観が確立する。
ところがひとは生まれた途端に死に向かって進んでいるとか、肉体は死んでも魂は生き続けるかのような曖昧な言説が少なくない。働き盛り、遊び盛りの青年期のときから死の恐怖を煽って足を引っ張る。
魂の存在は確認された試しがない。このシリーズでは魂の存続と言わないから非存在だと言えるのだが、見えないし触れないものをもとにしたあいまいな議論に時間を潰すひとは多い。
健康な青年がじつは死につつあるなどというのは気が利いたつもりのレトリックに過ぎない。これは刹那無常の言い換えだ。方丈記の「行く川の流れは絶えずして」の文章は有名だが、刹那無常は一期無常と合わせ考えなければ偏見でしかないと知るひとは少ない。青年期壮年期は自己実現のために全力をあげるべきだ。

コロナウイルスの蔓延下、アベノマスク配布のニュースを聞いた。やっと日本政府も具体的に日本国民のために働く気になったかと思った。国際金融資本とか善隣友好などの抽象的な言葉だけでは実際は何を行なっているか判然としない。なんとなく日本国民冷遇、外国人歓迎の風潮を感じていた。
マスク配布直前になって、製造元は日本人や日本企業ではないと分かった。四百億円以上の金は景気低迷する日本国民のために使われると思っていたのだが。この期に及んでも外国企業にだけ金が回されることに愕然としたひとは多いはずだ。アベ政治の正体は外国崇拝、日本無視だったことがあからさまになった。マスクを総理官邸へ返送しようとする運動が起こって当然だ。
アベは日本人をバカにしている。マスクは自作しましょうと呼びかけるだけで良かったのだ。民度が高いなら国民の善意と労働、創造力を信頼して任せるべきだった。器用な日本人の腕の見せ所だ。マスクを作る方法を示した動画がたくさん上がっている。なかにはゴムとハンカチだけで裁縫なしに作る方法もある。なぜ自分たちで作りましょうと言えないのか。
あらゆる機会を捉えて日本人貶め、外国人優遇をするのが保守政治家のスターと思われていたアベの正体だった。政治も経済も売りと買いばかり考えている。生産や創造は頭の中にないようだ。ユダヤ金融業者の冷酷な計画計算経済に従っている。売国奴、外患誘致罪の声も上がってきた。大人しい日本人も我慢の限界に来ている。寺子屋教育にも劣る大学教育知の成果だ。
里山縄文文明人としての自分を忘れた結果の惨状を、われわれは現在進行形で目撃している。自分を忘れ外国文化ばかりの学校知に頼る浅はかさ。コロナマスク騒動を日本を取り戻す契機としたい。
この項おわり

存続と存在(5)

存続と存在(5)      08/04/2011

実在する存続から真理や存在を抽出したものがイデアであるということができる。本当の自己はイデアである。切れば血が出る生身の存続自己は生成消滅するから永遠ではない、イデアの投影にすぎないということになる。
真の自己はどこか別にある。真理もどこか見えないところにある。行動主体も責任を取る者もあらぬ方向にある。すべては生身の自己ではなく社会や国の責任だとする思想が現れる。社会福祉、行政の責任、心のケア、とかよく聞くようになった。
存続が実在ならば、生存の主体は自己であり自我であると無理なく解る。自己は存続と一体だ。存続自己の語は不自然ではない。存在自己と言えないのは存在は実在しないからだ。生き甲斐は存続自己を正しく増長しようと志すときに感じる。存続自己は物質、空間、時間の和合積聚、因縁和合、因縁所成である。
自己は欲望、思考、正思、正見、道心、業を起こす主体だ。行為の主体として、責任は常に自己についてくる。同時に修行活動の成果報酬も得る。勇猛心もて発心修行すれば得悟する。因果応報の主体だから悪因を起こせば自ら苦を招き、善因を作れば楽快を享受する。
自己とは何か。WHO AM I? と問うと、本質としての自己、自分の中心、純粋な心のようなものを思い浮かべる。どこかに不変清浄な自分があるはずだと思って真剣に探す。しかしいつまで経っても見つからない。その理由は、時間や存在と同じく、存続から自己を分離抽出するからだ。抽出した自己はイデア、概念のみになって、真実自己ではなくなっている。実在しないものを探すのだからどこまで行っても見つからない、把握できない、自信が持てない。近代西殴文明教育、イデア思想教育の成果だ。
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世界中で保守思想とサヨク思想の対立が激しい。何を保守というか何をサヨクというかがまず問題になるのだが、社会思想、政治思想の分野であるから区別が判然としない。思想家や評論家はたくさんいるのに明快な定義がされていない。保守思想家だと思って拝聴していたら途中から売国奴に寝返ったり、皇室や神道を熱く語る人がキリスト教と同じ文脈で歴史を理解していたと判ったりすることが多すぎる。
混乱の原因の一つは、両陣営とも学問は西殴思想の学習だと思い込んでいるからだ。西殴思想はサヨク思想である。サヨク思想はフランス革命期のジャコバン党、マルクス革命思想、共産主義と続いた。現今は共産主義思想を改変したフランクフルト学派がサヨク思想の主流とされる。伝統社会の混乱破壊が目的だが、暴力によらず文化を破壊すれば社会は混乱し衰退するという方法をとる。最先端の学問のイメージがあり、学者は世界的な規模で尊敬されるから始末が悪い。
サヨク思想は断滅思想で反体制派だ。そんな断見思想がなぜ支持されるかというと、カッコいいからだ。毎日汗水垂らしてコツコツ働くより、デモに行って反対だーと叫ぶ方が気持ちいい。周りから褒められたり拍手されたりする。社会の破壊混乱という目標は明確だから、自信がつき、あきらめない、しつこい。
すべてのサヨク思想が断滅思想である理由は、日本文明存続のために作られた思想ではないからだ。日本文明の中から生まれた思想ではないからだ。支那、インド、中東思想であっても、外来思想はすべて日本文明増進のためにできたものではない。もっとも日本人に馴染んでいる論語だって不都合な思想がある。仏教のなかには到底理解不能な論理もある。
日本人は外来思想が大好きだ。シェークスピアを教える日本人教授が言っていた、「アメリカ人はシェークスピアを習いに日本に留学する日が来るかもしれない。」と。マルクス主義研究家はすでに日本の大学に来ている。アフリカの五百人くらいしか話さない言葉の研究をする人もいるなど、日本人の好奇心の強さは驚くべきものがある。
研究に夢中になっているとき、日本人で真実自己は何かと問う人は少ない。一方を證するときは一方は暗し。外国は、外国はと言いながら一生を終わる人が多い。
西欧近代思想は一神教、イエスキリストの教えに基づく思想だ。日本の小学校から大学校まで教えられることは、一神教から派生した教えばかりだ。博士号を取るほど身を入れて勉強すると一神教思想に違和感がなくなるらしい。勉強は洗脳の一種である。洗脳は不真実で偏見に決まっているが、博士は洗脳されたことに気がつかない。
一神教は一神を信じるところから始まるが、天照大神だって一人の女神だ。イエスの代わりに天照大神を立てればキリスト教と瓜二つの教義を作り上げることも可能だ。天地創造や唯一神崇拝と解釈される場面は古事記や日本書紀に事欠かない。キリスト教に似せる説を提出することが学問の進歩と思う人は少なくないようだ。
日本は一神教の国ではない、神道は一神教ではないと教科書に書いてあるのに、誰も両者の本質的な差異に触れない。多神教をネットで検索すると小学生の知識並みの資料しか出てこない。知識の過少さや不明確さが、保守思想を演説しながら渡来文化や外国人の功ばかりを強調することになったり、日本精神を外国思想の組み合わせで説明する結果になったりする。
自分とは何か、日本人とは何か、日本国とは何かと問うていつでも答えがでるようになることは必要だ。自分が何かわからなければ、今なにをするべきか本当はわからない。簡単に答えが出る問題でもない。ただし近代西欧思想を追っていくだけでは、サヨク思想家に終わるだけだと人生の見取り図を提出しておこう。
日本人とは何かの答えには、多神教の自覚が根本になるだろう。自覚は感じるだけでなく論理的、客観的に表現したい。答えがわかればいくらでも説明できる。人生とは何か、自己とは何か、日本とは何かと参究したい若いひとには、多難な道だが、一生研究してもしきれない問題で、その答えは生命創造の宝庫だと保証する。

 

 

存続と存在(4)

存続と存在(4) 08/04/2011

あるとき学生時代に指導教授から、哲学で一番重要な問題は何かと聞かれた。認識論と答えた。真理論とか実存論とかいろいろあるが、たとえ真理があっても認識できなければ真理を知りようがないからだ。
教授の答えは違った。「君ね、存在論が一番根本的な問題なんだよ。存在と存在している物は違う。目の前にあるもろもろの物は存在者といい、存在は存在者を在らしめているものだ。」
存在は在るという意味だが、哲学では普通に在るものを存在者という。存在者は目に見え手で触れる物だが存在は別だ。ひょっとしたら存在は非存在かもしれない。
不思議な話しだった。哲学界だけに通用する用語法に馴れると世間常識からかけ離れることになるかもしれない。存在と存在者を区別する必然性はあるのか。的確な見取り図を得られないうちに大学紛争が起こって専門書にかじりつく時間は無くなった。

「超越のことば」(井筒俊彦、岩波書店)を二十年ほど前に本屋で買った。碩学の誉れ高い学者の本を飾っておくのも悪くないと積んでおいた。
もう読めるかなと思って本稿を準備するために開いてみた。やっぱり難しい。存在のオンパレードが500ページ続く。ここまで存在概念だけで議論できるのかと感嘆する。予想通り時間については語っていない。というよりも、わざわざ無時間性という用語まで出てくる。指導教授の指摘通りだった。
同書では真に在るものを存在と名付ける。真に在るものとは永遠に不変なものである。真の存在は消滅生成しない、歳をとらない。神も歳をとらない、永遠不滅だから存在である。というより歴史的には、神とは何かと考えていく上で存在概念が確立されたのだろう。
目で見、手で触れる花や木、熊や鹿は生成もするが消滅もする。変化消滅は時間とかかわるから起こる。消滅変化するものは真に在るものとは言えない。
このような議論を形而上学という。日本は明治維新以来独立を維持するために西欧文明のあらゆる要素を摂取しようと努力してきた。学ぶことが習い性になっている国民性もあってその学習には成功した。一方で知らず識らずのうちに存在論を受け取り、日常目前の存続を忘れ捨象するようになった。その結果1920年以来国家に大混乱が顕著になってきたように思われる。

存在について語るのは有名教授ばかりではない。全国どこの学校でも、点は場所があって大きさがない、線は長さがあって幅がないと習う。円は描けるけれども完全な円は存在しない。目の前の円は存在者という。そして完全な円のイメージを存在という。点も線も同じ。存在者のモデルが存在で、このような存在をプラトンはイデアと名付けた。日本語では実体と訳した。
この世にあるあらゆる存在者は不完全な円、不完全な線、不完全な真理ばかりである。イデアは完全であり真理であり永遠である。真善美勇気のようなイデアもある。ミロのヴィーナスは完全な美を形象化しようとした。
完全を追求する芸術家や哲学者の欲求は激しいものがあるが、現世には不完全な美しかない。完全な真理はイデアで、人は真理を知ったつもりでも、イデアの影を知ることしかできない。円が描けるのは円のイデアが存在しているからだ。そのイデア、真理なるものはどこに存在しているのか。五感では捉えられないからあるとは言えない。
イデアは時間と無関係で真の永遠である。時間がないから歳をとらない、生長
しない、老衰しない、死亡しない。そのようなものは概念としては主張できるがこの世に実在するだろうか。存続から存在だけを抽出すると存在は非存在者になる。延々と存在を語る哲学者は、じつはどこにも無い物について語っている。
イデア論では真理とは何かもほんとうは説明していない。イデアが真理のはずだと主張しているだけだ。真理とは仏陀のように自ら体験し智慧を極めて絶対間違いないところまで見届けた上で表明できることだろう。体験なるイデアも想像はできるがこの世では経験できない。ということは、論理的にはじめから真理を知ることもできないということになる。

では何となくプラトンのイデア説を正しいと感ずるのはなぜだろか。古代ギリシャの代表的な思想だからか。それともプラトンが始めた学校、900年以上続いたアカデミアの影響かもしれない。ギリシャという国は滅びても学校は存続し、卒業生は先生となってローマ帝国だけでなく方々で偉大なるプラトン校長の思想を教えた。
プラトンの思想は現実から浮いた理想を語っているだけのようだ。理想を描くのは思考力で、知性とか、理性とか、悟性とか訳されるのだが、人工的に作り上げた幻想だ。事実や現実よりも純粋な思考を信仰する考え方だ。
じつはプラトンのイデアからハイデッガーの「存在と時間」まで、断滅、断絶、孤立、抽出思想である。西欧思想は2000年以上存続論理ではなく抽出論理、断滅思想を踏襲してきた。革命、解放、自由、NEW, Creative(創造)などが日常生活の中で普通に語られる。
西欧文明の最後の覇権国アメリカには伝統継続の居場所がない。存続するものはなんでも破壊断絶するのが当然と思われている。長年かかって蓄積した財産も会社も社会的地位も訴訟の対象にされる。学問も芸術もより以前の学説と業績の破壊に邁進する。スポーツで勝利や新記録樹立に熱狂するのは破壊思想の激しさを表している。中庸寛容などの選択肢はない。一方向に走り続けるしかない。

 

 

存続と存在(3)

存続と存在(3)        08/04/2011
身体は血液やリンパ液が循環し、呼吸、消化、異化、伸縮運動と絶え間なく活動して止むことはない。体熱は筋肉や細胞が運動して発生する。長生きが当たり前になり、百五十歳まで生きると言った人もいる。希望を持って生活するのはいいことだ。生存、存続は時間と共にある。
ここで思考実験する。時間が停止または無になったらひとはどうなるだろうか。あらゆる臓器は運動する時間がない。すると熱が発生しないから体温が下がる。どこまで下がるかというと絶対零度まで下がる。無運動は無熱だ。血液やリンパ液は氷となり、肺や細胞に含まれる空気も固体になる。内臓も完全に固化する。時間が無になればひとは生存できない。
時間が無になったら世界はどうなるか。太陽は核融合する時間がないから絶対零度になる。光も宇宙線も前に進む時間がないから真っ暗闇。火山も絶対零度、ハリケーンも静止、太平洋も凍結する。引力、核力、電磁力も動かない。時間が無になると物質も存在できない。
人の生存だけでなく物質も時間があって初めて存続できる。世界の空間と物質は時間と共に在る。時間が無くなれば何も始まらない。電子が原子核の周りを回っているのが現在の原子モデルだが、回る時間がなくなるから原子は存在しない。
実在(実に在るもの、具体的にあるもの)は存続するものであり、存続するものだけが実在だと定義できる。実在するものはすべて物質、空間、時間が和合し構成された存続である。存続、空間、物質がなければ自己は無い。

われわれは目の前に実在する存続から遠く離れ、見逃し、忘れることができる。認識論が扱う問題だが、われわれは物自体を見ているのではなく直接音を聞いているのではない。光の刺激を受けた眼が認識した映像を見ているのであり、耳が識別した空気の振動を聞いている。触覚や嗅覚も同じで、われわれの知覚や認識は原理として個性というバイアスがかかっている。個人は必ず個性を持って生まれ、それぞれ異なる特有な自己を生きる。個性の違いは人の存続原理に根付いている。
ここから真理とは何かという問題が導き出される。個人ごとに異なる世界を見ている人間にとって、普遍的な真理は見出され得るか。結論を急ぐと、お釈迦様と道元禅師だけが真理を見出された。
学校で時計の読み方を習う時から時間があると感じる。一時間、二時間がすぐに一日、十年、二十世紀になる。恐竜が居た何億年前とか幾億光年先にある銀河系や星団の話にワクワクする。
逆方向に分、秒、ナノ秒と辿ることもできる。原爆の爆発過程がコンピューターに
記録される。レーザー光と宇宙線との衝突も実験できる。肉体感覚では捉えられない遠方の宇宙空間も、極微の世界も計測できる。人間の知恵の偉業であり、どちらの方向も時間の存在を本にしている。
過去現在未来の時間は無いという議論がある。過去は過ぎ去って無い、未来は未だ来ない。過去を昨日、一時間前、一分前、一秒前と詰めていく。最後は現在になるはずなのだが、その瞬間はどこにあるか。また現在から未来へ移る瞬間はあるのか無いのか。現在の瞬間の一点はあるのかないのか。現在は把捉できない。結論は、過去現在未来、すべて時間は存在しない。
支那禅の問答集には過去心不可得、現在心不可得、未来心不可得という公案がある。茶店の老婆に有名な禅僧が問題を出されて答えられなかった。あなたはどの心で饅頭を食べるかと問われてグッと詰まった。落第したから饅頭を売ってくれなかったという、沢木老師の話は面白かった。要するに実在しない過去、現在、未来という抽象的な概念に、掴みきれない心をくっつけたからややこしくなった。
時間の方程式は次のようになる。 存続=存在+時間。 両辺を変換すると
時間=存続ー存在 になる。実在し存続するもの、手にとって触れるものから抽出したものが存在とそして時間だ。存在も時間も抽象的な概念であって、頭の中でイメージとして描かれる。
存在と時間は、存続または実在の内部構造と比定することもできる。血管や筋肉は身体から抽出したら動かない、標本になる。カルシウムや鉄分なども肉体から分離されるとただの物質だ。時間も存在も、具体的な物から抽出したもので、概念としてだけ捉えられる。
言葉で時間を採り上げる瞬間に、時間を問題にしていると考える。同時に空間や物質を忘れている、捨象している。一方を證するときは一方はくらし。けんけん諤々議論して時間が実在しているかのように感じる。実体視するという。これらも究めきれない
認識の問題が絡んでくる。
現在だけの現在は、思考はできるが実在しない。刻々の変化はあるが刻々だけの刻々はない。空間物質がないから、時間を計測する方法手段もない。

存続と存在(2)

存続と存在(2)       08/04/2011

1980年まで禅の見通しが得られない苦しさを味わった。坐禅が解らない。坐禅こそすべての根本、世界の原理、人生の要と目処をつけて必死の思いで実践するのだが、坐禅そのものが解らない。きりきり舞いした。絶望的な気持ちだったが、お袈裟を着けると不思議な安心感に包まれた。袈裟功徳である。爾来、仏と仏教は修行者や信者を保護し助けるものに違いないと確信した。
ひとは、仏が、自然が、社会が、家族が、そして身体の保護膜までが守り助け合うから生存存続できる。守護、保護がなければ誰ひとり生き残れない。この原則は幼児や老人に当てはまるばかりではない。壮年の大人だって、家族、法律、貯蓄、警察、国防、そして仕事に耐える健康体と知識で護持されなければ生きられない。仏様がありがたいのは、第一不殺戒、第二不盗戒など、生命増長、生命継承の法を遺していただいたからだ。仏の法に従えばより善い人生を送られる。
身も心も適正に守護されていたら健康でいられる。痛や病は保護膜のケガや守護者の減少衰弱による。病気や怪我をしたら、存続、生命増長の方向で対策を考える。自然治癒するまで辛抱強く待つ。周囲の人が同じような状況に陥ったら、想像力を働かせて手当て助力する。犬や猫はもちろんだが、野生の動物も同じ原則で手当てする。三本足で飛び跳ねている鹿を見たことがある。どうして怪我したのか解らないが、自然界も安全平穏で片付けられない。
禅堂に帰ってきた時心配することがたくさんあった。冬の厳寒で凍死する、水道管が破裂する、雪に閉じ込められる可能性などなど。薪がなくなったらおしまいだ。夏は蚊とハエと蟻が蠢く。とくに蟻はあらゆるものを食い尽くすから恐ろしかった。三年で
居住不可能になるのではないかと思った。
そうこうしているうちにペンキの塗り方を教えてくれる人がいて、建物の土台部分にペンキを塗ると蟻が侵入しなくなった。見栄えも良くなった。網戸も張った。すると蚊も入って来なくなった。ハエは真っ黒になるほど飛び回っていたが、いつの間にか少なくなった。周囲の木を切って日当たりが良くなったからだという人がいた。
冬の朝は、坐るまでに二時間半ストーブで暖房する必要があった。今は新しいストーブに替えたせいもあり三十分だ。木製の家だから数年で建て替えかと暗い気持ちだったが、きちんと補修すれば二百年持つかもと考え直している。保護、持続、存続、快美の原則は建築物にも適用できるようである。

宮本武蔵の日本語

宮本武蔵の日本語

名のある雑誌では「西洋思想の超克」とか「西欧文明の行き詰まり」とかのタイトルで座談会がときどき載りますが、いつも肩透かしを食らう。対決だ超克だと言いながら現実は西洋化ばかり。何が日本なのか日本人なのか明確な指摘がない。
明治維新以来日本人は西洋思想を勉強してきた。勉強しすぎてものの見方がすでに西洋発である。学者になるにはフランクフルト学派の先生に逆らえない。日本再生は日本そのものから語られねばならないのではないか。

まず古事記ですが、古事記は聖書ではない。旧約聖書は神と預言者の言葉が書かれていて、一言一句漏らさずナンバーが振られ、研究信仰されている。福音書も疑問を挟める代物ではない。
古事記には製作者の太安万侶が、言い伝えの偽りを削り実を取ると書いている。歴史書か政治文書ではあっても信仰の書ではない。神代編でもイザナギ、イザナミの命(みこと)とされる。命(みこと)は命が繋がっているもの、昔々のわれわれの先祖のことでしょう。神は抽象語で、存在の有無からして問題になる。
天照大神は田植えをし新米を獲て新嘗祭を行われた。蚕も飼い織物小屋をもち機を織られた。そして儀式用の服を自ら縫われ、八百万の神々を敬礼された。「高天原は関東にあった」(田中英道)
歴代天皇がされる新嘗祭や田植えや養蚕などは天照大神がなさったことの「まね」でしょう。別言すれば伝統継承ですが、儀式の中心は「真似」だから、異常心理や超能力が求められるわけではない。平均的な体力と能力の持ち主ならば、出自さえ正しければ就ていただける地位ということになる。
国民にとっては、田植えも養蚕も機織りも社会産業となり日常生活となった。天照大神がされた事業や行動様式を日本国民全体がなぞって来た。古事記をモデルに生活すれば大きな過ちはなかった。天武天皇の偉大な功績です。
天皇は神聖な儀式を通して天照大神と一体となるという宮司さんもいる。見たこともない天照大神と一体になるって?イザナギ神とかスサノオ神とか神の語を多用して偶像崇拝したい人もいるらしい。旧約聖書の解釈に洗脳されているのではないか?
天皇は神武天皇が皇統第一とされ、二千年以上男系男子で継承されてきた。今年は皇紀2678年に当たる。皇室では天照大神は世系第一とされる。世系は系図を作成するときに繋がりがあるという意味で、第一だから最高神の位置づけだが、その存在は皇統が始まる前である。
したがって女系天皇は、女系は天皇ではないという意味でもありえない。名称そのものが矛盾している。有史以来なかった女性宮家を創設しようとする国会議員は、女性宮家創設の意味、数十年後の皇室の見通しを説明すべきだ。

西洋思想は一神教の伝統を踏まえ、日本は多神教の国と言われる。多神教の語は教科書には一言あったがまとまった書を読んだことがない。ヒントをもらおうとネットで検索したら学術書がほとんどない。これでは多神教の国、日本がわからないのは当然だ。ヒントからして自分発になるとは思わなかった。
分かりやすい多神教の例は仏教である。経典を開くと仏の名がたくさん出てくる。まとめて諸仏とされる。さらに仏国土思想があって、宇宙には何億もの国土があり、一国土に一仏がおられる。地球にはたまたま釈迦牟尼仏がおられた。われわれは宗派に分かれて釈尊や阿弥陀仏などそれぞれ一仏を拝む。宗派の中では一神教と変わらない心境になる。じつは諸仏が共存するのが本来の仏教だ。
西洋思想は神が一つで、論理的に一つの絶対正しい真理を求めてきた。ところがプラトンは真理の影しか見えないと言ったし、カントは物自体は認識できないといった。論理の先に真理を認識することは不可能だとわかった。論理は真偽を判断することはできても真理を創造することはできない。
不完全な思想を追いかける体質は日本思想界にとって大問題ではないか。大戦後数十年、マルクス主義の学術書が書店に溢れた。すべてが無価値、クズであった。同じことが学校では別の名前で現在も行われているかもしれない。
印欧語は主語、動詞、目的語の語順である。誰でも知っているように、I like an apple. だ。主語が固定した「 I 」ということには大きな意味がある。I、私は一人だから一神に繋がる。私と世界でまとまった世界観ができる。私を考えるのは意識で、意識の出処は頭で、頭は一つ、脳も一つと、一ばかりだ。独裁者は一人、全体主義は多いように聞こえるが全体は一である。一ですべてまとめて解釈する。創造は一回、一回の受難を起点にして西暦の時間は一定方向に進む。
高級な英仏語ばかり読んでいる学者は日本語に主語がないのが不思議で不満であるようだ。英語公用化論を唱えたり小学生からの英語教育の実験を勧める。彼らはプラトンやカントが真理探しに失敗した事実をどう受け止めるのか。

日本語は主題と叙述が基本形と言われ、真理ではなく真実(真の事実または現実)を問題にする。意識で曇りやすい主語がないのは、事実や現実に直面するときの利点になる。主語と主語が衝突する必要がないから人間関係も円滑に流れやすい。
また仏教の例を出して恐縮だが、般若心経に眼耳鼻舌身意という言葉がある、まとめて六根という。六根は六つの感覚器官で、その中には意(意識)も含まれる。現実に対面するとき意識以外の器官でも感受する。一ではなく多数の器官を通して事実現実と向き合うのが仏教の認識論であり真理論である。仏教も神道も多神教だから、双方の認識論、真理論は共有されうる。
日本の学者や評論家が西洋思想の超克と言いながら解決策が提出されなかったのは、多神教の認識論と真理論を知らなかったからだろう。あるいは見逃したか卑下したか。明治維新以来、ほとんどの学者は、外国発の意識の産物である思想や歴史を翻訳することで飯を食ってきた。そして知らず識らずのうちに洗脳された。
「 I 」をいつも使うせいか、印欧語族の人々は論理に注意を惹かれるようである。仏教は、印欧語族の中でも論理や知識を徹底的に研究してできた教えである。仏教の論理はほぼ完結していて、真理は多神教の原理(諸仏や眼耳鼻舌身意など)で表現される。意識一つだけに目を向ける西洋思想とは異なる。
日本語は真実を求めると言ったが、事実、現実と向き合うということは、言語そのものとしては完結していないといえる。現実と言葉を擦り合わせようとするから相互依存が基本である。見方を変えれば、現実の変化と自己の修行向上に沿って常に生成発展していく機能を内包している。しかも英仏語に比べて表現能力は見劣りしない。

宮本武蔵は生涯で六十回以上決闘した。相手の武器は刀、槍、鎖鎌などが知られているが、手裏剣だって石だって武器になりうる。全身の器官と能力を総動員して、過去を忘れ未来を思わず(無始無終)戦ったであろう。自我や意識を捨てて現実と直面できる日本語は、決闘を乗り切る縁となった。頼れるものは自分ひとり、神仏を敬い神仏を恃まずの心構えは自然だった。それは八百万の神々を礼拝された最高神である天照大神の気持ちに通じる。宮本武蔵もまた天照大神の真似をした。その態度は今も日本人一般に通じる心構えではないかと思う。
五輪書は虚飾を排した武芸における技術書と言われる。それは日本語話者の、まっすぐに現実と向き合う態度に合致する。重要文化財になっている水墨画は、美的感覚と腕の筋肉と気合が渾然一体となって描かれている。多神教には、気合いの認識論、真理論も含まれるようだ。

表絵文字(5)

日本語(2)表絵文字                 11/09/2008

言葉を創造する人、つまり日本語の創造者はまづ文学者であろう。それは小説家であったり詩人や歌人であったりする。そのなかには言葉に対するセンスの良さ、知識の該博さに対して脱帽するしかないような優れた人たちがいる。しかし名のある文学者が国字国語審議会の委員になったという話は聞いたことがない。日本文学に関与できないような先生が日本語をいじくり回している。
日本語を改めたい、あるいは滅ぼしたいと考える日本人がいるようだ。反日日本人と呼ばれる人たちで、なぜか要職を占める方法を知っている。普通人には気づかれないように日本語は貶められてきた。大きな方法は漢字制限だった。戦後五十年間になされた漢字排斥の影響は心ある人々を戦慄させた。その先には小学生並みの日本語が予想されたからだ。ところが急速なコンピューターの発達で、漢字制限はまったく無意味なことがわかった。間に合った、僥倖だった。
パラドックスかもしれないが、表現方法を制限された芸術家たちは本来の日本語の潜在能力を漢字以外の媒体を使って爆発させた。それが漫画でありアニメであろう。それは同時にほとんどの日本人が自国語について感じていた誤解を見直す契機ともなった。日本語は表意文字ではなかった。表音文字でもなかった。かなという表音文字のあいだに漢字をはじめとする絵をちりばめた表絵文字だったのだ。
古代の日本人は言霊信仰を持っていたとされる。言霊信仰の概念で、呪文、神話などのおどろおどろしい雰囲気の現象について説明されることが多い。連綿として続いている日本語である、言霊信仰の現代的意味を考え直すのは、自国語を理解する一助になるのではないか。
言霊信仰とは端的に言えば言葉を信仰していないということだ。日本人は言葉ではなく霊を信仰している。信仰するとは仰ぎ見ること、頼りにすること。霊に頼っている。頼ることができるのは、霊が存在していると思っているからだ。
霊とは何だろう。目に見えるものではない。聞こえもしないし触れもしない。しかし古代から日本人は知っていたのだ。言葉で通じるとは単にロジック、論理が交換されることであって、本当の通じ合いではないと。誤解や曲解はいまも日常生活の中でしょっちゅう起こっている。本当に通じ合うためには言葉以前の何かが通じあわなければならない。その何かが霊と名付けられた。
言葉は霊を表現する手段の一つである。言の葉は霊という幹ではない。霊が通じ合うためには言葉以外の方法も使える。源氏物語も、文章だけでなく絵巻物となって広く知られた。漫画やアニメが何の障害もなく発達発展する基礎は、絵巻物の中にすでに具現されていた。その先は音楽、ダンス、武術なども霊の表現方法として理解されるようになるだろう。
外来語の漢字は絵として受け入れられた。横文字、カタカナ語が氾濫する現代日本語は、霊の表現方法が豊かになったと解釈できる。表絵文字にはいつの時代にもどんな言語にも柔軟に対応できる機能が備わっているのではないか。英語が苦手な人が多いのも、英語に全面的に切り替える必要がないからだ。日本語は言霊とともにある。
終わり

表絵文字(4)

日本語(2)表絵文字       11/09/2008

ところで日本語は表意文字なのか表音文字なのか。学問の世界ではどうか知らないが、耳学問でははっきりした答えは聞いたことがない。日本語は表音文字の”かな”を基本にして漢字という絵を加えている表絵文字ではないかというのがわたしの問題提起である。
日本は中国と同文同種の文化を持つとはよく聞いたセリフである。たしかに日本人は漢字を勉強してきた。漢字を知ることが知識の信頼性を保証した。康熙字典の四万字とまではいかなくても、今でも一万字くらい読み書きできる人は少なくないだろう。漢字は日本文化に影響を与えたどころか日本文化の背骨だという人もいる。
だから国字国語審議会が当用漢字や常用漢字を決めたりすると必ず反発が起きる。伝統的な文化を破壊しようと意図しているのではないか、国民の思考を単純化しようとしているのではないかなどなど。新仮名遣い派と旧仮名遣い派との論争は熾烈である。
事実あらゆる改革案は日本語の単純化を目指していた。ローマ字運動というのがあった。日本語をローマ字表記にして英語に近づけようとすることだ。ある人がローマ字だけの本を出版したそうである。読めたものではなかった。ローマ字一本やりでは実用にならないと実証するための出版だったそうだから目的は達せられた。かな文字会というのも聞いたことがある。これはひらがなだけにしてしまえという主張だった。
良い先例がある。ベトナム語はフランスの植民地政策の下でローマ字表記にされた。ベトナム人から辞書を見せてもらった。漢字に基づいた単語がたくさんある。われわれなら熟語を連想する方法で理解できる言葉が、ベトナム人には連想する繋がりが切断されている。学問、学校、学生、見学、数学などはみんな学問に関係している言葉だと日本人ならすぐわかる。それは漢字を見て意味を理解できるからだ。それがすべてガクまたはgakuでは大変なことになる。金額、音楽、山岳、驚愕、碩学とローマ字だけで書かれるとどのガクかわからない。
そうなると英語を体系的に学ぶ方がベトナム語を理解できる近道になる。彼らにとって一番簡単なのは母語を捨てて英語だけにすることだろう。ローマ字運動がいかに罪深いものだったか判る。
だいたい言語変革運動をするほどの人は、変革の結果何が起こるか外国の例なども研究しているはずだ。なおかつ単純に変えてしまえというのはどんな理由によるのか。審議会の委員たちは何の目的で漢字使用を制限しようとするのか。日本人をバカにしようとしているのかもしれない。それは日本人以外の人々に歓迎される思想ではあろう。

表絵文字(3)

日本語(2)表絵文字           11/09/2008
日本では総理大臣の演説を全国新聞がボロクソに罵倒する。百年一日のごとく、日本の政治家は演説が下手だ、外国の政治家を見習えと説教を垂れる。内容はあまり変わらないのに外国人だと誉めそやし、自国の首相は軽蔑する。いつも同じ記事だからなぜ変わり映えしないのか疑問が湧く。
日本語は表音文字ではない。日本文化は、現在ではという限定付きだが、音を深いところで信頼していない。立て板に水の弁論を聞くと本当だろうかと疑うのがよい例だ。アメリカでは滅多に見ないことだが、言葉を発するのが商売のアナウンサーでもよくどもっている。テレビでどもる場面をみると、表音文字文化ではないなと確認させられる。高級新聞が下手なアナウンサーではなく政治家の演説だけを槍玉にあげて雑言悪口し続けるのは、政治への信頼感を低下させ、いたずらに社会を混乱させようとする底意があるからだろう。
人は平等ではない。言語が異なるだけで、お互いに決定的に異なる心を持っている。それは記憶に対する重要度の違いだったりする。アメリカ人は物忘れに異常な恐怖心を持っている。政治家や宗教的な指導者が物忘れがひどくなったり声が出なくなったりすると名声と地位が一瞬にして失われる。英語文化圏における音と記憶の関係はもっと深く研究されるべきだろう。日本では軽度の物忘れは人格円満になったという表現があるくらいで、言の葉が紅葉色になったくらいの認識だ。
表意文字では、意味が変わらない限り何千年でも書き方を変える必要はない。漢字の発音が大きく変化しているのは、呉音、漢音、唐音などの区別があるので判る。ただしこんな区別は公式発表だろう。お寺の中だけとか宮廷の中だけだったかもしれない。なぜ発音が大きく変化したか、地域的な差異などもできれば知りたいものである。しかし意味は変わらないから漢字は変わらなかった。
大学の構内を歩いていると一枚のポスターが目に入った。ある漢字の上に英語の翻訳が書いてある。それはケネデー大統領がいった有名な言葉だった。危機とは危険と機会との二つの意味がある。心配するばかりでは意味がない。危機は経済人なら大金持ちになるチャンスなのだし、軍人なら勝利に導く契機になると。問題は、そのポスターには”機”ではなく”机”と書いてあったことだ。それで通りがかりの先生に間違いを指摘しておいた。
十分ほど経って、毛沢東以来、中国では新字体が使われていることを思い出した。”机”は新しい”機”だったのではないか。ポスターはたぶん正しかった。インターネットに接続して新字を印刷したのだろう。日本人が知っている漢字と中国本土人が使っている漢字は違う。日本人が漢字というときは中国大陸で使われている漢字だと思い込んでいるが、実際は日本国内で通用しているだけではないか。台湾人には通じるだろうが。
これを中国大陸人からみるとどうなるか。彼らは日本で流布している漢字を読めない。台湾、香港、シンガポール字も読めない。新字に直さなければ論語も仏教経典も読めない。
合点がいったことがある。こちらで会う中国人からは、孔子の教えの断片も聞いたことがない。儒教の国の民なのに不思議だった。文化大革命の折に孔子批判というのも聞いたことがある。新字に書き直されなければ若い中国人は論語を読めない。毛沢東は論語潰しのために新字を制定したのかもしれない。孔孟老荘を含め、あらゆる文化を抹殺するためには旧字を禁止するのは効果的だ。
毛沢東は秦の始皇帝に匹敵するような大変革をしたのだろうか。始皇帝の焚書坑儒とは新字体を制定しただけのことだったのかもしれない。それだけで次の世代の人は旧字を読めなくなる。そして歴史書に記される大混乱が起こった。毛沢東の改革は第二の焚書坑儒だった。
二千年間字体が変わらなかったから、我々はなんとなく漢字は永遠におなじだと確信を持っていた。じつは五十年以上も昔から日本語の漢字と中国語の漢字は違っていたのだ。カナダやフランス植民地のフランス語はパリでは通じないそうだが、同じことはすでに東京と北京との間で起こっていた。

 

 

表絵文字(2)

日本語(2)表絵文字         11/09/2008

書き言葉には表意文字と表音文字があると教わった。漢字は表意文字で英語は表音文字である。表音文字は音を書き表す。現代ではアルファベットが一番効率が良いようだ。音は変わりやすい。発音が変われば書き方も変わる。発音が主、文字は従である。文字が音を真似る。文字は音を記録するための道具だ。だからだろうか、アメリカ人は文字よりも音を信頼しているように見える。
アメリカ人からはよく英語の綴りを教えてくれと頼まれた。みんな大学卒業生であるが、自国語を正確に書けないことを恥じる気配がない。日本人が外国人に日本語の書き方を教わることはまずない。漢字の間違いを見つけられたら恥ずかしく思う。この辺りが英語文化と日本語文化とは根本的な違いがあるらしいと気付いた初めだった。問題の捉え方がまるきり違うらしい。スペリングの間違いだけを取り上げて教育劣化、学力低下とかんたんに片付けられないのではないか。当初は気づかなかったが、彼らは文字が間違っても、もっと大事な物、音を理解できているのだから平気だったのだ。
小さな事務所で働いていた頃の話である。ボスは普通のアメリカ人だった。日本人の奥さんから習ったのだろう、日本語を不自由なく話した。私とは、日本語、英語のどちらでも通じた。ただし日本語を読むことはできないと言われていた。読めなくても流暢に外国語を話せる人物の存在は驚きだった。相当数の単語を記憶しているはずだが苦労して覚えているようにも見えなかった。
あるとき日本語の手紙を持ってきた。翻訳ですかと聞くと、自分の耳を指差して読んでくれという。アナウンサーのように声を張り上げて読んだ。一回読むとサンキューといって立ち去った。一回の音読で全て分かったようだ。訓練されていない私の声音でどうして文章が理解できたのかわからない。音だけで外国語を理解する人がアメリカにはいるのだ。
ワシントンでFBI本部を見学したことがある。公開講座を開いて射撃や逮捕の実演を見せたりする。会場に入ると、小学六年生の修学旅行と思しき集団が着席して説明を聞いていた。百人くらいか。説明が終わって担当者がでは次の部屋に行きますと言った。その瞬間全員がさっと立ち上がった。小魚の群れが瞬時に向きを変えるような感じだった。集団としての見事な身のこなしに唖然とした。左右を見回したり、動作が遅いグズがいてもよさそうなのに。兵隊の訓練を受ける前に、行進、停止、反転などができる感覚が身についているようだった。
その時思い出したのは最初の大きなハイジャック事件だった。イスラエル航空機が乗っ取られエンテベに着陸させられた。犯人との交渉はリアルタイムで報道され世界中が固唾をのんでいた。三日目にイスラエルの特殊部隊が突入して乗客をほぼ全員救出した。
特殊部隊は突入すると煙幕弾を投げると同時に、「伏せろ!」とヘブライ語で叫んだそうである。ヘブライ語を理解しないものが立っている。鮮やかな事件収束に感嘆した。どうして民間人がぱっと身を伏せられたのか想像できなかった。「えっ」と見回しているうちに射殺されてしまう。頭にも耳にも体にも音を信頼する感覚が身についていればこそ可能な作戦だったはずだ。
十冊ほど本を出版している人に英語の原稿を直してもらったことがある。なんでも手伝うからと言われたので頼んだのだったが、一箇所しか直してくれなかった。がっかりしたけどなんとか完成しなければならない。原稿を読み進めて行くと、最後に註がついていて、「だいたい良いから、あとは自分で声を出して読んでみて、文章の調子が自然になるように修正しなさい。」とあった。図らずも英作文の基本を教えてもらった。
英語では書くにも読むにも発声が基本になる。彼のインストラクションなら自分自身で下手は下手なりに勉強向上できる。同じ方法で練習していけば、文章作法も洗練していくに違いない。最後はセンスの良さが決め手になるだろう。ベストセラーを書くほどの人は文章と音読と身体のリズムの関係まで知悉しているはずだ。夢中で読んだ本は、考えてみれば文章にリズムがあった。
アメリカ人は演説が上手い。なかでもクリントン大統領は飛び抜けてうまかった。鮮やかな記憶として残っているのは、大統領候補受諾の演説だ。その前夜にゴア副大統領候補が素晴らしい演説をした。もうクリントンの出番はないのではないかと思いながらテレビを見た。終わってみれば期待以上の見事な出来だった。政策や人格は別として、超一流の演説だった。
超多忙な政治家である。原稿をひとつひとつ書いている暇はないからスピーチライターの職がある。他人が書いた原稿だが、壇上では見事な演技をする。テーマの並べ方、間合いの取り方、声量、身振り、笑わせ方、そして聴かせ方まで、これでもかこれでもかと惹きつけられた。音に価値を置いた文化、表音文字文化の頂点を極めた演説だった。