皇紀2805年,昭和220年 (4)

日本のテレビでは司会者や評論家が「真実は一つです。」とよく言う。真実は日本語の最高価値を表す。抽象的概念のように聞こえながら、不思議なことに具体的事実に繋ぎ止められている。
真実は抽象的価値概念の真と具体的な事実とを組み合わせている。嘘八百や絵空事を言うと、事実はなんですか、実証してくださいと返される。実事から逃げられない。日本語がウソを許さない。
真理と対比すればわかりやすい。真理 Truth は英語では普通語で学術用語で、真も理も同意義の抽象語である。欧米ではもっぱら真理が最高価値として使われる。
幼馴染が再開したある映画での会話:
「2年間留学の間に手紙も電話もない。何してたの?話しなさい。」
「勉強してましたなんてウソが聞きたい?それとも本当のこと?」
「あなたのウソはホントより好きよ。』
ウソとホントに Lieと Truth を代入すると簡単な語順で使いまわしていることがわかる。つまり正反対の意味の真理とウソは論理的に等価だ。正邪善悪も同じで、これが印欧語族圏で討論や演説が流行り重視される一つの理由である。事実認識や間違いを指摘されてオロオロするのではなく、どんな言葉でも対立概念を持ち出して反撃できる。頭の体操になるうえ勝った時、笑わせた時の快感といったら。あれっ、論理を支えているのは自我なのか。
西欧文学では神の話だと悪魔が当然のように出てくる。ファウストとかカラマーゾフの兄弟とか。一応読んだけれども長編で頭痛がして印象が薄い。なぜ悪魔が神様と対等の位置で出てくるのか?対立概念は等価だとする文法の上で発想するからだろう。神は全能完全だから悪魔は反対側だが全能だ。その間に自我を置くと何が起こるか。
文法的に未完結な日本語は、自我や観念ではなく具体的な事実に随いながら変容発展する。歴史は研究成果に従って修正されるのが道理で、カイゼンは現場で工夫する態度だ。日本語がトヨタを作り、歴史認識を守る。国土、民族、歴史に加えて、言葉も国体護持の大きな要素になる。
生前退位放送の後で出来た有識者会議では、摂政否定はインチキだと言う人まで現れた。道理を外れたら天皇の権威も一夜で崩れ去る。日本人は天皇制ではなく天皇でもなく天皇性を信頼している。言葉では定義しにくいが、肌感覚でわかっている天皇性あるいは天皇らしさに違背することは天皇にも許されない。
長らくミッチーブーム以来の美智子さま擁護派だったが、子供心にも天皇を支え皇室を守護されると思ったから応援した。敗戦で痛めつけられた皇室での美しい皇太子妃の出現は、占領の終焉と同義だった。もう大丈夫。
ところが40年経っても後継ぎが生まれないので日本中が不安になった。不安の元が美智子皇后にあるとしたら信頼感情はたちまち失せる。いざとなったら日本人は、旧皇族復籍でもなんでもして天皇性を護持しようとするだろう。それが日本人の真実性だから。
悠仁天皇のお孫さんの御代になるであろうが、時の天皇陛下が昭和天皇陵で復興成就の報告をされることを祈念する。

皇紀2805年、 昭和220年 (3)

1980年代に「閉ざされた言語空間」(江藤淳)が出版された。読んだのは21世紀初頭だった。朝日新聞の書評欄を読んで注文していたので、本の存在を長く知らなかった。本書を読んでマッカーサー洗脳のものすごさに愕然となった。
広島の原爆投下を大人たちが話していたのを聞いた記憶がある。戦後生まれなのになぜだろうと思っていたが、原爆関連ニュースは占領下では禁止だった。日本が独立した後で新聞が報道した、その記事について話していたのだ。占領軍の悪行は聴いたことなかったしマッカーサーは偉大な統治者だった。ベトナム戦争ではアメリカを応援した。洗脳された結果の判断だった。
善悪や価値判断の多くが洗脳によって、じつは思わせられていた。洗脳はウソや偏見を信じ込ませることだ。戦争の影響を身体では感じなかったが、洗脳という形で敗戦を引きずっていた。
コロリと洗脳された経験から、人の心は操作されうること、洗脳の方法があることを知った。日本人には未経験の文明の衝撃だった。洗脳だったとわかるのは洗脳が解けるときだけだ。
手も無く洗脳され、洗脳とも思わず生きていたことには日本人の感性が影響している。広告宣伝は巧言令色鮮し仁に反する、誇張、偏見、嘘はダメの国柄だ。是非善悪も価値の上下も最後は事実、実徳が決める。人が他人の真偽観や価値観を変えられるなんて思いつかない。
数人でインドの恋愛映画を見ていた時、突然アメリカ人の宣教師が立ち上がり、「日本人は南京大虐殺を認めたくないんだ。」と喚き始めた。映画のセリフに触発されて思わず出た本音のようだった。「証拠を見せて。」の一言で大人しくなった。
それで、客観的事実よりも自我の認知認識の方を重要視する考え方があると知った。我見、我愛とも言われる。アメリカが目指した世界征服を日本の陰謀にしようとした東京裁判。大統領選挙では票数では無く敗北宣言で決着がつく。いまだに違和感がある。
塩野七生女史の「ローマ人の物語」の中に記録抹消罪があった。無能暴虐などひどすぎる皇帝や独裁者が出ると全ての記録を抹消する。最高の厳罰だという。コインや彫像の破壊ならまだしも、すべての記録がなくなれば罪悪の事実も抹消される。逆効果に思えるのはローマ人ではないからか。記録や情報を都合よく操作するのは洗脳の始めだ。洗脳が歴史を創る?評価や認否が事実に優先するのはローマの昔からの伝統だった。認識の伝統なら言語が密接に関係する。20世紀に至れば洗脳の仕方が洗練されて当然だ。
あれから15年、当初のショックが落ち着き、歴史や社会を洗脳をキーワードにして見る癖がついた。多くの疑問が解けた。歴史や思想において唯洗脳論も成立する。仏教では夢から醒めると言われる。
マッカーサーの洗脳は明治維新以来の欧化政策の延長とも言える。憲法改正や核保有が白昼語られるまで洗脳は解けてきた。明治以来の西欧文明との衝突を総括する日は意外と近いかもしれない。
日本人は洗脳から醒めれば大和心に帰ることができる稀有の民族である。三種の神器に象徴される大和魂は共有されている。縄文文明の様式美を伝える伊勢神宮がある。釈尊が見出された因縁の法は血肉と化している。歴史も言葉も失った民族が多い中で、問題は覚醒するか否かだけなんて幸せすぎる。

 

 

皇紀2805年 昭和220年 (2)

昭和大帝は終戦の年を具体的な復興の始めとされた。二百年後は五、六代後の子孫の世でなんとなく予想できる。学者一家、政治家一族、代々の自衛官や警察官、先祖伝来の土地を耕す農家など。帝は、はっきりした過去である敗戦から復興なった近未来の日本を見ておられた。有始から有終への歴史である。
1945年の200年前は1745年だ。時代劇で親しまれ人の心や政治の動きも馴染み深い。さらに200年遡ると1545年で誰が最後の勝者になるか不透明な戦国時代である。世の秩序、物の動きなど格段にわからなくなる。臨場感が消え、想像力が及ばない昔になる。したがって200年前後の幅は具体的、可視的な歴史認識の時間であろう。それより昔でも未来でも憶測妄想が多くなる。
連合赤軍のメンバーが日本復興のために働いていれば、テロ事件もリンチ事件もなかった。平穏で建設的な生活の方法は昭和帝の歴史観の中に宣明されていた。昭和帝は屹立した歴史家であられた。
天皇といえども二百年生きられるわけではない。また二百年後は現実であって歴史ではない。二百年幅の見通しを持ちながら臣民が努力した活動を振り返ったのが歴史だ。詳細は天皇紀に記録される。生きた歴史は200年という抽象的機械的な数字でさえなく、天皇紀を積み重ねてできる物語であろう。
古事記の昔から日本は大八洲と称され、無限の広さがある大陸でも大洋でもない島国であった。確かな歴史は二百年前後の有限な時間枠の中に見出されるのと同じように、天照大神の子孫が住み治める瑞穂の国は有限な空間である。そして大和民族は無数の他の人々とは区別される限りある人々である。
明治維新以来不平等条約やブロック経済、戦後政策と搾り取られながら、現在日本は世界一の債権国だという。搾取をこととするアメリカは最大の債務国だ。日本は世界の富の源泉?逆に世界に打って出た人々は山田長政から満洲国までことごとく消失した。帰還した日系ブラジル移民も日本に溶け込むのが難しい、日本人たる所以は血の問題だけではないようだ。有限域な大八洲の意義はまだ明かされていない。
人は有限で具体的な中間者を生きる、瞬間と永遠の間の時間枠の内に生きる。肉体は原子や分子で構成されるというが出来上がった身体は無名の原子ではなく名前を持つ人格だ。相対性理論も宇宙の涯も頭の中で考えられる。身体と心は原子と宇宙との中間者で、孤人と社会の中間が家族で、無政府と世界政府との間が国家である。人は仏教が唱える中道を生きる。
人類史上有限な時間と歴史、有限な身体と空間に確かに覚醒された方々を上げておきたい。釈尊、聖徳太子、天武天皇、菅原道眞、道元禅師。これらの人々は自己と生命の真実を求めた結果、有限な自己と空間と時間を見出された。

皇紀2805年、昭和220年 (1)

1980年代、昭和天皇が「日本の復興には二百年かかる!」と語られたという記事に出会った。文藝春秋だったと思う。聞いたことのない考え方で、決意とも願望とも予言とも歴史観ともとれるお言葉だった。表題は敗戦から二百年後の年に当たる。
当時のアメリカはレーガン大統領、日本の自動車生産台数がアメリカを抜き、三菱地所がロックフェラーセンターを買った。世界の銀行のランキングは日本の銀行のランキングとほぼ同じだった。Japan as No. One が話題になった。50年で復興は遂げた、何故に二百年?
90年代に入ると日経平均が4万円から4 分の1に暴落、不況に突入した。銀行関係の犠牲者が新聞に載った。80年代に死んだ人は戦後の繁栄に満足した人が多かったに違いない。90年代には10年も経たないのに少なからぬ人が地獄を見た。十年単位で見る世の中はどこへ向かっているかわからない。世の動きを知るにはもう少し長いスパンで観察思考する必要がある。
1972年、連合赤軍が浅間山荘事件とその後判明した榛名山リンチ殺人事件を起こした。岩波書店の日本史年表を開くとリンチ事件がない。岩波の歴史捏造偏向体質は指摘されて久しいが、これも証拠の一つだろう。銃撃戦で死亡した警察官は二名だったか、リンチ事件では10人以上が犠牲者だ。兄弟三人がリンチさせられた例もある。
世代が近いので彼らの気持ちがわかる位置にいた。彼らは理想の社会を共産主義に則った革命によって実現しようとした。全員若くて大学卒、頭が良くて純粋だった。悲劇は彼らが若くて未熟だから起きたのか、時代の必然だったのか、偏った思想を奉じたからか。他人事ではなかった。
共産主義者はよく歴史の必然と言った。人類史は原始共産社会から資本主義を経て必然的に共産主義社会に至る。それは科学的に証明された真理である、無駄な抵抗はやめて共産主義社会を実現しようと説く。そのために唯物論と階級闘争史観も語られた。
世に歴史と言われる物語は多いが、いずれも太古の昔から始まる。大昔というだけでなく始めを検証しようがない。天地創造やビッグバンとか見た人はいない。無始である。そのような昔から一定方向に歴史が進むとする考え方がどこでも支配的だ。
天地創造を再現しようとする人はいない。しかし原始共産社会は、見た人はいなくても実在したようにも思える。それで再現しようと試みる人が現れやすい。疑問を持つものは粛清される。歴史において始源は重要だ。
歴史は検証不可能な大昔の始源から一定方向に進歩するものと決まっているのだろうか。80年代の繁栄と90年代の不況を見れば一定方向の進展も疑わしくなる。人は健康だったり病気になったり、事故も不運も幸福も強運も経験する。一定方向に進む方が稀だ。複雑な人生と社会を説明する歴史の見方は可能だろうか。