自己とは何か?多くの人が真剣に問いかけた。宗教、哲学、思想と呼ばれるものは、結局自己とは何かに対する解答である。世界中で多くの解答が提出されたが、仏教が最も無理のない、深い、完全な答えと思われる。
自己について仏教は多くの答えを用意しているが、四聖諦に即して言えば因縁和合である。十二因縁は形式論理だけではなく、生身の生と死を表す。生とは因縁和合して身と心が出来上がったもの、死とは因縁が崩壊離散することだ。生まれたものはいつか必ず死ぬ、生あるものが死ぬことを一期無常という。一期とは一生である。人が死ぬとたとえば山田太郎の墓として祀られる。山田太郎氏の誕生から死までが一期で、一期の間は身と心、自己が存続する。存続は常住で、常住が終わるのが無常。一期無常は死である。
身は肉体で、肉体は皮膚、筋肉、骨や血液などから出来て、和合している。皮膚も筋肉も細胞や原子から出来ていて刻々に新陳代謝している。小さな子供が六尺の大男に成長する。死ぬときも意識だけでなく肉体も縮小、離散する。一生一期の間に身と心は刻々に変化する、刹那無常という。刹那は無限小の時間だ。近年は科学的分析が常識になって刹那無常ばかり注目されるが、刹那は一期の中の変化である。山田太郎の墓は作られても刹那の墓は作られない。仏教はもともと一期自己の教えだ。
哲学的に言えば人は有限者、中間者である。永遠と瞬間との中間、無限大と極小との中間、いつかは死ぬ有限なるものである。だからどんな無限も有限な身心の中に包摂される。それが道元禅師の言われる不生だ。
不思議なことに、歴史的社会的に見ても因縁和合は存在者の根本原理である。ソ連は70年で誕生から崩壊までを経験した。2017年現在ロシア人は居てもソ連人は居ない、因縁離散の見本だ。国家も時間的、空間的に有限だ。
古事記では日本の大八洲が伊邪那岐命、伊邪那美命によって作られた。無限大の大陸でもなく大洋でもない島々が作られた。中間者である島々が大和だ。世界創生神話ではなく泥海の中から島が作られた。
日本人は日本国に住み、活動し、保護される。国家は世界政府と無政府主義との中間であり、グローバリズムと孤立主義との中間だ。民族も地球市民と個人との中間である。そして我々の日常生活は、死に至るまで中間者としての生命を生きている。父母や子供達と共に生きているわけだが、家族はまた孤人と社会との間に位置する中間者だ。
なぜ日本に仏教が栄えたかと言えば、仏教の因縁和合と古事記の中間者との親和性が高かったからと言えるかもしれない。永遠無限絶対などは有限な自己、家族、国家、民族があってこそ語られる概念であって、その逆はない。