身心脱力 07/28/2007
身体の動きを知りたいと思い、ヒントを求めて手当たり次第に本を読んだ時期があった。スポーツ選手のための本や週刊誌があることを知った。走る、投げる、泳ぐなどが多くの角度から説明されていた。スポーツも進歩向上するためには学理的な理解が必要だ。江戸時代には数百万の武士が剣術を修めた。その結果妙技妙術が開発され諸流派が生まれた。同じことが今日スポーツや太鼓演奏で行われている。
それまでは、身体は骨と筋肉でできているとしか知らなかった。以下のような説明さえ新鮮だった。筋肉は二つの骨を連結している。(言われてみればその通りなのだが、筋肉が骨にくっ付いているという知識もなかった。)鎖骨は腕の一部で、同時に筋肉によって顎と結ばれている。(どこまで複雑なんだろう。)走りは左右の重心の切り替えで行われる。(ジャンプするから走れるのじゃなかった?)泳ぎは腕で水を掻くよりも胸で水を押す。(見方が異なるだけではないのかな。)
ほんとかなと疑われる記述もあった。合理的な立ち方は両足がやや外側に向き、足の外側で土を踏む感じ。(足は親指、手は小指に力を入れろと教わった。)内股歩行や 直立不動の姿勢は良くない、腕は自然に叉手の位置に収まるなど。(着物を着て歩くときは内股になるはずだが。叉手?)股割りも一例で、下腹部に腹圧を思い切りかけて下腹を床に押し付けるようにすべきとあった。(あとで腹圧は関係ないとわかった。ハラなる言葉に引き摺られた説明みたいだ。)
腰を中心にして身体が曲がる理由は、二つの大腿骨の上部が大転子となって左右の腸骨のくぼみに組み込まれているからだ。そこがボールベアリングの役目をする。上体を曲げるとき初心者に難しく感じられるのは、腰は多くの骨と筋肉と靭帯が絡み合い、引っ張り合い、牽制しあっているからだ。だから腰を曲げる時は筋肉の緊張を緩めるようにする。緩めるにはどうすればよいか。腹圧をかけて押すのではなく、息を吐き出して力を除く方が理にかなっている。
腰の中心点は二つの大転子を結ぶ線の中央に近いだろう。大転子どうしは直線で結ばれているわけではないから、中心があるかどうか、あっても円の中心や線分の真ん中のようなあり方ではないかもしれない。また中心点に注目しすぎるのも間違いかもしれない。というのは、物に触れるのは皮膚であり、皮膚の感覚がまずあって諸々の意識が沸き起こるからだ。
二十代だったが、ある禅僧の太鼓腹の写真を見たことがあった。それで坐禅を懸命にすれば腹が膨れるのかと思った。何もしないで座っているときに能動的に動かせるものは呼吸だ。呼吸すると腹圧が増減する。圧力を変動することで何かをしていると感じる。実感が生じる。’実’は存在するものだから、腹が実在することになり、太鼓腹にまで発展する。武術の動きもハラが大きな役割を演じる。ハラと腹とは深いところで繋がっている。剣禅一如とも言うし。
前屈するとか舞踊で腰を回すときに中心になる点がハラである。胸を回してくださいと言われたら戸惑う、なぜなら人は胸に中心があるとは考えたことがないので回転運動ができない。腰がぐるぐる動くのはハラという中心があるからだ。腰を動かすと熱が発生する。その熱はさらに運動を促し快感をもたらす。肉体的にも心理的にも運動を続けさせようとする。ハラの効用に気づいて深く研究したのが武術だ。研究すればするほどハラの重要性ははっきりするだろう。
しかし武術家が発見したハラは太鼓腹なのだろうか。ハラの位置は肥満痩身で変化するのだろうか。われわれは息を吸ったり吐いたりするときに動く腹に注目しすぎてきたのではないか。
身体のバランスの中心であり同時に活力の源でもあるハラは、腹または腹の表面ではない。ハラが腹の表面でないなら、腰椎から距離を測る発想も起こる。腰椎は腹圧で変動しないからだ。ハラが腹の内部に存在するなら太鼓腹になる必然性はなくなる。犬や猫の腹もぺしゃんこである。哺乳類の中で人類だけ太鼓腹が修行の結果得られるというのは不自然というしかない。
呼吸法については内山老師から自然に任せて何も手を加えないことと教わった。口伝、秘伝というが、小さなことでも確かな教えを聞くことは大切だ。一生間違わないで済んだのは法益そのものだった。
腰がまちがった体操でバラバラになりそうになりダンス教室に通ったことがあった。ダンスもセンスがないと様にならない、準備体操から教えてくれた。あるとき床の上に後ろ向きにぺたりと座って、’お尻の穴を真後ろに向けて座るのが基本よ。’と教えてくれた。見えるのは二つに分かれた臀部と背中だけで、何を教えたいのか意味がわからなかった。ダンスから正座を見直す必要があるのかもしれなかった。
柔軟体操を続けると足や背中や腹が床に慣れてくる。安心して伏せたり手足を投げ出したりできる感じになる。ダンスの基本は無理なく力みなくゆったりと立ったり座ったりすることのようだ。頑張ろうと思う瞬間コチコチになる心理に気づかされた。自然に座る、立つ、踊るというのは容易ではなかった。
先生の臀部は二つだった。われわれは腰といい尻という、一つものだと思っている。お袈裟を掛けて坐蒲の上に座ると、後ろからは腰が一つに見える。腰は肉付きに要と書く、武術では腰が一番大事と言われる、腰は一つであるの常識が通用する。肉体としての腰は、解剖の図に明らかなように、多くの骨と筋肉で合成されている。腰は一か多か。曖昧な言葉にわれわれは慣らされてきた。
多くの人に坐り方について教えてもらったが、例外なく腰と両膝で坐るように言われた。腰と両膝では三点で、線で結ぶと三角形になる。三角形の特徴は形が動かないことである、不動だ。三角形を膝と腰で作って不動の姿勢をとるのが坐禅だ。ある人は腰ではなく尾てい骨で座れといった。究極の三点座になる。
不動の結跏趺坐は三点坐である。足が痛くなると腹に力を入れて押さえつけた。接心は格闘の場だった。修行とは格闘、努力ではなかったか。一時間の坐禅も接心全体も必死で取り組んだ。
考え直してみると、三点坐という言葉は抽象概念である。数学では点は位置はあるが大きさはない。大きさがない点はそもそも実在しない。ということは、ないものをあると思い込んで格闘したということになる。もし本当に尾てい骨で長時間座ったら不具者になっていただろう。
坐蒲の上に二つの臀部、座布団の上に二つの膝で座ると、四点を結べば台形の上で坐ることになる。台形は四辺形で、四辺形は形が変わりやすい。正方形が直線にまで変わる。台形も大きくはないが形を変える、変動幅が三角形より大きい。幾何学的に考えると、四辺形に基づく不動は不可能である。
腰と膝を考えてきたが、坐禅で坐る場合には腰と膝という単語ばかり出てくるから使ってきた。解剖図を見ると左右の大腿骨が開き加減に並ぶ座り方である。二脚で座っている。点に大きさはないが、二脚と、脚の先の腰と膝は大きさがある。大きさがあるものは実在する。実際の坐禅は二脚を並べて、脚の四つの先端で支えて座るのだ。
四辺形坐はいかに名付ければよいか。二脚坐、四辺坐、台形坐などであろうか。坐禅は正身端坐と表現されるが、正端の美を成立させる要件は、位置、硬軟、強弱など数多い、複雑極まりない。だから道元禅師は審細に参究すべしと説かれた。参究すべしとは、無限に研究する余地があるとわかって言えることであろう。
台形坐なら三点坐より緩い。不動だけ目指して苦痛に耐えるために足を組むことは修行の眼目とは言えなくなる。したがって半跏趺坐であってもいい。ここで坐禅儀にある「足を腿の上に安じ」あるいは「足をもって腿を圧す」という表現が納得できる。なぜ不動心とか不退転のようなごつい言葉が使われずにさらりと書き流してあるのか違和感があったが、禅師が頑張る坐禅をされなかったからだろう。足を腿の上にそっと置けばよいだけだったのだ。
不動の三点坐なら、形が崩れないように頑張らねばならない。首筋も顎を引いて思い切り伸ばすように言われた。これも伸ばしきってしまえば動く余地はなくなる。それはさらに参究する余地がないことを意味する。また顎は鎖骨とつながっている。鎖骨は腕と肩の一部だから、筋肉で引き上げられると胸から上が緊張する。胸が窮屈になると発声が妨げられ、血流が滞り、肩がこる。
スポーツでも一流選手が走るときは胸に力が入っていない。鎖骨も肩もぶらぶらしている。ぶらぶらが伝わって腕が揺れ動く。同じことはダンスでも言える。バレエをはじめとして、肩や胸や顎が硬直していたらダンスにならない。ダンスを習得するには形からではなく無定見に体が揺れ動いている方がいい。筋肉で力むところがない動きを通してリズム感が出てくる。
こう見てくると、坐禅は、足をガッチリ組んで坐相を決めたらそれでおしまいとはいかなくなる。不安定な、見方を変えればダイナミックな台形坐の上で坐るのが坐禅ではないか。動の不動、不動の動とでもいうしかない微妙な姿勢である。腰はゆるゆるかきっちりか、終わりのない工夫が要請される。筋肉の大きさと力、朝昼晩の体調の波、疲れ具合や栄養の多寡、運動量や加齢による変化など、ただ坐るだけなのに内容は無限に豊富だとしか言えない。
自然な坐相は楽な姿勢である。そこに至るには必死で頑張るよりもヨガやダンスや柔軟体操で身体をほぐすのが近道だ。これらはいずれも力を入れるより力を抜くのが基本である。坐禅するとき左右遥身して欠気一息しともあるが、これは道元禅師の坐禅が身体のリズムや柔軟性を無視していないことを示している。筋力を使わないことが肝心で、坐禅は身心脱力だ。脱力して坐るとあまり痛くない、頑張る必要がない。力まないからエネルギー消費が少ない、疲れにくい。
身心脱力は現成公案の中の身心脱落との語呂合わせがあまりにもうまくいきすぎて恐れ多い。
以上、ヨガやダンスを通しても正しい姿勢を見つけることは可能だという試論である。姿勢はしかし坐禅の一側面であって、一大事因縁を見極めるには程遠い。仏法の参究は奥が深い。