虎     08/28/2007

 

身体について、特に意識して調べなければ、身体は一つで終わりだろう。病気になったり怪我したりするときに胃や手足が気になる以外に、身体とは何か特に考えなかった。重い荷物を担ぐときどっこいしょ、相撲をとるときガッちんこくらいが身体の感覚であった。人は何も考えずにいることができる。
立ち方については、気をつけの姿勢が良いとしか思っていなかった。気をつけは腕も足も背も一直線だ。ハラと呼ばれる中心点が一つで、歩行走行のときの中心軸も一本で、それが重心に重なる。その点と軸を正しく合わせればグラグラしないで立てる、まっすぐ歩ける, どっしり座れる。直線、直立、直角、直進が自分の身体のイメージだった。単純なことしか考えられない者も居る。
中心点がハラ一つだと、身体は上下と左右二つの部分に別れる。二つしかないから開くか畳む動きしかない。ロボットでもすぐマスターできる単純さだ。身体の動きの単純さは思考の単純さにも繋がる。
筋肉は身体の内側にあって見えないし、自由に動くと思っているから、さまざまに頭を使って工夫する余地がない。ばたりと倒れるのは重心から外れるからだが、そこまで血の出る痛みを体験した後でも身体が硬いとか運動神経が鈍いとか内向して納得する。客観的な自他関係に気づかなかった。自分の体を合理的に分析する方法を知らなかった。というか分析なる頭の働かせかたを知らなかったというべきか。
普勧坐禅儀には実在の動物として唯一、’虎’ が出てくる。’虎の山に拠るに似たり’の箇所だが、山に放たれた虎のように強力な力を発現するのが坐禅だと云はれる。坐禅している人の姿が部屋いっぱいに広がって見えたとか、酔っ払いが坐相の威厳にびっくりして思わず合掌低頭したというようなことかと思っていた。そんなこともあるだろうが、ここでは凡人の角度から考えてみたい。
動物園で、虎が狭い檻の中を忙しく動き回っている。長い背骨がユッサユッサと揺れ、尻尾もゆらゆらし、足裏全体でぺたりぺたりと歩いている。足裏も柔らかそうだけど、つま先はもっと柔らかく、力が入っているのを感じさせない。ぶらぶらだ。ときどき唸り声をあげる。威勢のよい人がけしかけてもっと吠えさせようとする。檻の外に飛び出したらどうするのかとハラハラした。
小学生の時に見た光景を改めて振り返ってみると、忙しく歩き回っていたのは、実は柔軟体操だったのではないか。全身を動かすことによって体温を発生し、同時に関節や軟骨の柔らかさを維持していた。歩き回って疲れないかと同情したのは逆で、身体を動かすことで虎は生命力を獲得していたのだ。うなり声は呼吸法だ、左右揺振して欠気一息している。
背骨が波のように揺れ動いている時、四足獣にとって重心はどこにあるのか。後肢のすぐ前だろう。後肢の後ろには長い尻尾がある。後肢を中心にバランスをとるはずだから、重心は後肢の前にある。それは人にとってはハラと呼ばれる位置にあるはずだ。もう一つは前肩の後ろにある。こちらは頭の重さとバランスをとる位置のはずだ。虎にとって重心は二つある。走るときは前後の重心と左右の軸のバランスを調整しながら駆けている。
人類は二足歩行するけれども、四足獣でもある。ヨガに犬や猫の姿勢があるのはその証拠だ。四足獣なら重心は二つある。一つはハラと呼ばれてきた部分、下腹のどこか。もう一つはみぞおちの近く。虎が前後の重心を調整しながら動き回るように、人類もまた二つの重心の役割を調整しながら動くのが自然と言える。重心がハラとみぞおちと二つあれば、身体は三つに分かれる。三部分を組み合わせれば二部分だけよりも複雑な動きができる。均衡が破れても複数部位でバランスを取り戻せるからねばりつよい、倒れにくい。
坐禅は坐相だということで、絶対不動の姿勢を続けることが要求される。不動の姿勢は難しい。何年も何十年も必死になって座る。大事は一事である。一事を一心に行ずる。それでいいのであろう。しかし虎の自由闊達な動きとはどこか相入れない。
本当の坐相は虎の柔軟な運動を内包するような姿勢ではないだろうか、人の身体は木像や石像ではないのだから。言葉で表すなら、動と不動を包み込んだのが坐相であろう。それは動の可能性から不動の可能性までの全ての動きを知り尽くしている坐禅ということになる。
オリンピックでは米食国民が肉食国民に勝てるわけがないとか、手足の長さが違うから表現力では勝負にならないとか、粗雑な決定論や悲観論を聞いて育った。本当は誰もが無限の世界を持っているのだ。動と不動とその中間の全ての能力を保持している。潜在能力の開発方法を知らなかったから停滞していた。
音楽や体育の先生はとてつもなく大きな使命を持っている。生徒が美しい声や正確なリズムを獲得するにはどんな姿勢をとるべきか教えねばならない。正しい姿勢からは美声だけでなく弾むような動きが出てくる。そのあとは自然に、動くのが快く、動作が楽に滑らかになり、生活が闊達になる。その先は工夫次第で能動、明朗、快活、心と身体の生長、無限の可能性、創造性の世界がひらけてくる。
反対にどっしりと腹筋に頼って立つと、一次的に安定、平和な感じはする。しかし姿勢が安定することは、移動、運動の原因がないことも意味する。動くためには筋肉を使って余分な力を発揮しなければならない。そこから先は疲れやすいので、ごそごそ、のろのろ、悪くすれば受動、鈍重、怠惰へと進んでいく。肉体だけでなく、心理的にも無力、自閉、自虐、諦念、神経衰弱、苦悩へと嵩じていくだろう。

 

コメントを残す