祖師仏 (1) 11・17・2007
曹洞宗では仏教の起源は釈尊ではない。毘婆尸仏大和尚から始まって前六仏があり、釈迦牟尼仏大和尚を加えて過去七仏と称される。毎日名号を唱えて礼拝しているお寺も少なくない。人は親子関係を通して先祖から子孫へつながるが、仏教の場合は師匠と弟子の関係だ。釈尊に仏法を教え伝えた師匠は代々六仏になる。六仏は実在しなかった。フィクションであり神話上の存在だ。これは秘儀とか秘密の類ではなく、僧侶なら誰でも知っている。
宗門ではそれら非実在の過去七仏を礼拝する。釈尊以後の祖師がたは苦労して仏法を実践し伝授されたのだから崇敬するのは当たり前だが、六仏は想像の産物である。イメージに名前をつけただけだ。名号を亡失するだけでふっと消える、名前に頭を下げているだけ。この辺りが説明のつかない権威に頼らなければならない古い教団の弱点だと長い間感じていた。価値のないまがい物は捨てたほうがよい。
祖師仏は過去七仏を含めて師匠までの全員の系図である。自分の場合は90人が先祖になる。祖師仏を大声で誦するのは爽快だ。関係ない人もお寺に行って和尚さんと一緒に唱えてみたらいい。生き返った気になるであろう。理屈ではアホらしいと思いながら、軽快なリズムと礼拝の動作は大好きだった。おもてむきは純粋理性による旧弊批判をしたが、好きな儀式であった。
神話、フィクションというと、曹洞宗の過去七仏にしろ古事記の天照大御神にしろ、お話であって、実証的科学技術文明の現代では時代遅れと片付けられても仕方がない。いまや歴史を神話から説き始める人はいない。学校の授業でも弥生時代、縄文時代、石器時代と遡るけれど、古事記の神話はおとぎ話としてしか触れられないだろう。
なぜ神話は生まれたのか。子供が質問する。お父さんは誰から産まれたの、お母さんのお母さんは誰なのと。その先は、その前はととどまるところがない。前へ前へとずっと続く。止まらない質問に日本人の祖先は天照大御神、仏教徒の祖先は過去七仏と答えた。ヴィーナスは貝から産まれたし、桃太郎は桃の種から産まれた。世界中に似た話はたくさんあるが、基本構図は同じで、先祖探しだ。先祖探しは同時に自分探しである。先祖探し、自分探しに対する答えが神話になった。
科学技術文明を信奉している現代人にとって、神話などは問題にする必要がない。最初の人類はサルというか、サルの仲間に決まっている。哺乳類の前には爬虫類がいた。その前は両生類や魚類がいた。昆虫や貝類も系統樹ができている。動物の前には植物があった。その前はだんだん下等になって、シダ類とか菌類とか細菌など。生命の誕生はウイルスのようなものだろう。その前に地球ができなくてはならない。太陽系、銀河系、その前にビッグバンがあった。このようなイメージが科学的進化論として広く受け入れられている人類の歴史であろう。
第二次大戦後、フィリピンで捕虜になった日本人に、暇を持て余したアメリカ人がダーウィンの進化論を教えた。最新知識を教授しようとした。ところが誰も驚かなかったので逆に驚かれたという逸話がある。アメリカではいまも喧々諤々の論議が戦わされている現状を見るにつけ、正しいと思えば素直に受け入れる日本人の特質が際立っているエピソードだ。しかし進化論が根拠のないお話でしかないとなったらどうであろうか。ダーウィンの進化論は人類の祖先を探し当てたのだろうか。自分を探し出したのだろうか。
最近ふっと気づいたことがある。それは、ひとはかならずひとの両親から産まれるという事だ。ひとが産まれたらその両親はひとである、サルではない。・ひとはひとからしか産まれない。ひとの両親はサルに近いかもしれないがサルではない。この ’近い’ という言葉であるが、生物学的には無限大に隔たっている事実かもしれない。
科学がさらに進歩したら思いもよらない新事実が発見されるのではないかとか、突然変異が起こったら新種が現れるのではないかとかいう逃げ道がいつも用意される。けれども事実を直視すれば、サルの親はサルであり、マウスの親はマウスである。無数回の実験が繰り返されてきた大腸菌もやはり大腸菌から産まれてしかも大腸菌である、そして大腸菌の子孫を作る。突然変異を起こさせようと考えられる限りの近代科学の虐待を受けたハエからも新種は生まれなかった。
両生類のカエルからは爬虫類のワニは産まれない。この事実は、化石を並べて遡及していけば、種は古代から近代へと連続的な変化で出現しているように見える現象とは矛盾する。科学的と限定する必要はないが、物事の見え方と本質は一致するとは限らない。本質、つまり種の最初、ひとの究極の祖先は人知では解明できないのではないかと思われる。
もしサルからヒトが産まれるのなら、われわれは人類の滅亡を心配する必要はない。ある時間が経てば人類は絶滅しても再出現するからだ。サルが絶滅したらどうかというと、哺乳類のネズミやモグラが存在する限りいつか再び人類にまで進化するに違いない。哺乳類が原水爆戦争で絶滅しても魚類から進化が繰り返され、いずれ人類が現れるだろう。心配する必要はない。
しかし現実には、近縁種がたくさんいる佐渡の朱鷺もニホンオオカミも、絶滅したら再び現れてくることはなかった。種の絶滅は未来永劫の消滅のようである。一つの種は、その種だけで完結した生命と歴史を維持継承する。
神話は祖先を女神とか貝とか桃などおとぎ話として、寓意に託した物語で表現した。じつは究極の祖先は知ることができないと受け止めたのだろう。究極の先祖探しのような命題は子供の論理ではなく無限の論理でしか解明できないのではないか。
ひとの祖先はひとであるでは子供は引き下がらない。心理的に納得できる答えを探すうちに神話の形が編み出された。いや考えてみれば大人だって同じことで、ほんとうの先祖がだれかは知らない、いつまでも知らない。古人は噺と事実との区別がつかなかったと思うのは近代人の思い上がりだ。