天皇の祈り(7)

天皇の祈り(7)     05/20/2011

学校であれ社会であれ、習った歴史観は断滅思想ばかりだった。マルクス史観では原始共産制、封建制、資本主義、最後は共産主義へと歴史は発展する。しかしよくよく考えてみると封建制から資本主義への発展とは、封建制の断滅だ。同じように共産主義への発展過程では資本主義は断滅されねばならない。世界的規模で戦争殺戮が二十世紀に起こったのは、共産主義国家ソ連を中心としたマルクス断滅史観が跋扈したからだ。
世界最古の文明として大河に沿った四大文明が教科書に載っている。エジプト文明が最古ではないかと思われるが、メソポタミア文明の人気が高い。なぜ大河のほとりかというと、農業生産が社会に余剰価値、富を蓄積したからだそうだ。穀物は十年単位で貯蔵できる。穀物の生産には大量の水が要る。土地と水と穀物を管理する者が社会の上位者になる。そして余った富が家や道路や水道や彫像になり文明の遺跡になる。
いつもおかしいと感じたのは、四大文明の地は今は砂漠だということ。文明が滅亡した。滅亡するようなものは文明と名付けられるべきだろうか。何かがおかしい、騙された気がする。
また教科書では、我々現代人はクロマニョン人の子孫であって、ネアンデルタール人は俺たちの先祖じゃないという。ネアンデルタール人は滅んで、あるいは滅ぼされて現代人ばかりの世の中になったという。古い人類が進化して現代人になったとするのが進化論からも自然だと思うのだが。この世には教科書にあるからといって断滅思想を受け入れて疑問を感じない人がいる、ひょっとしたら大多数かもしれない。
サヨク思想全盛の風潮に嫌気がさして見つけたのはトインビーの文明論だった。話が面白いので相当読んだ。マルクス主義しかない息苦しさから逃避できた。階級闘争や歴史的必然性と言われて頭の中で絶対価値になっていた。被洗脳と同じで、自ら勉強した結果だった。勉強は無条件で良いことだとはいえない。トインビーによると文明も人と同じく生老病死する。出逢った歴史観は断滅思想だけだった。
歴史学でよく使われる古代、中世、近代という区分も断滅思想の変種だ。一見存続継承に見えるけれども、後者が一番偉い、一番優秀、一番進歩していると感じ考えている。一番優秀だから判断は正しく行動もまた間違いないと思い込む。概念を追っているだけだが、いつの間にか若い学生に高慢な心が生じる。そして革命暴動を憧れる。断滅思想の害悪に気がつかないままに。
釈尊はもっとも尊敬されるに値する、道元禅師には足元にも及ばない、と感じる謙譲の心と比較したら解るだろう。
歴史とは何か、端的に答えれば存続の物語だ。存続は断滅と正反対の概念である。存続なくして歴史はない。天皇が存続するから天皇の事績が記録され、皇統譜として編纂される。それが皇室の物語となる。皇室と日本人は蜂社会のように一体だから、日本人全体が物語を共有する。それが歴史だ。

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マッカーサーが押し付けた東京裁判史観は正体がはっきりしてきて、反撃としての
思想戦略も提出された。巧妙な洗脳だったが、外国からの思想侵略であり内政干渉だと分かりやすい。思想戦があることを日本人全体が知った貴重な体験だった。
第二次大戦後の学校では倒錯した歴史しか教えられなかった。マッカーサーはいわゆる教育改革をしたわけだが、教育によって知識を与えないように、少知無知のままに放っておくように、混乱は正さないことが方針だった。原爆投下の数日後、被爆者を診察調査しながら何もしなかったのがアメリカ流だ。
歪んだ間違った思考思想ではまともに生きることができない。人に挨拶するかしないか、優しい言葉か荒い言葉かから始まって、頻々と生きる姿勢が問われる。普通の常識を持つためにもまともな社会思想と正しい歴史観の裏付けがが必要だ。
少なからぬ人々は、正しく深い思想と歴史観を探究された。個人的には渡部昇一、西尾幹二、田中英道、林千勝氏等の著作にお世話になった。真説正説を発表するには勇気がいることも教わった。江藤淳氏の「閉ざされた言語空間」は時代を画する著作で、その重要性を強調しすぎることはない。該書は日本人被洗脳の現実を白日の下に晒した。
長い間探し求めてきた正しい歴史観をここに提出する。それは、「日本文明は里山縄文文明」と理解されるべきだということ。江戸時代の常識だった里山文化と二万年前から続く縄文文明を合わせた言葉で、実態として現代まで続いている。それは生命の創造と発展、自然に順じた共生方法、略奪破壊ではなく建設継承の文明だ。生活行動と思想に矛盾がない。未来永劫に通用する歴史観となるだろう。

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里山縄文文明に気付いて歴史観の追求は終わった。真実の歴史観が確立した。もう迷い歩く必要はない。里山縄文文明は安心安全、生命創造と生命継承の理論であり理念だ。日常の生活行動と悠久の歴史観が一致する。矛盾は無い。禅も仏教も教説と生活が一致するまで修行する。
真実、正説を求める動機は、何かおかしいと気が付くところから起こる。感受性が鋭くないと起こらない疑問だ。疑問を追求して学問的に業績をあげた方々も多い。田中英道氏はその代表格だ。「高天原は関東にあった」は代表作で、古事記が書かなかった真実が描出されている。
氏は古事記研究の裾野を大幅に広げられた。古事記がただ一つならば真か偽か信じるか信じないかの二者拓一になる。これでは一神教の見方だ。天皇が居る日本は多神教の国のはずだ。古事記否定ではないが、人が書いた物語以上のものが発見される道が開けた。新説を発表されるときの論理的整合性と文献や考古学における実証主義は鮮やかだ。碩学の文章とはかくの如しかと唸らせられた。
ところが田中英道氏は、最近はユダヤ推しが過ぎて聞くに絶えない言動が多い。埴輪とユダヤ人渡来を結びつける。秦氏はユダヤ人とか秦の始皇帝はユダヤ人とか、歴史上有名な人物は次々とユダヤ人にされる。動画では日本は移民国だ、女系天皇で問題ないと発言する。ヘブライ語と日本語の多くの単語は似ているという。
著名な学者の変節を目の当たりにして愕然とした。田中卓元皇学院大学学長の愛子天皇推しもエエっと驚かせられたが元学長だった。田中英道氏は盛んに情報発信している現役の言論人であり学者だ。実証的学問研究から離れたのか、推測できる、確信するなどの言葉で誤魔化している感じがする。
田中英道氏は輝かしい業績を提げて登場するので討論会などでは自信たっぷり、長々と一人で喋っている場面が多い。しかし過去のものごとを教室で解釈しているだけだともいえる。危機意識を持って現実社会で警鐘を鳴らす水間政憲氏に能天気ぶりを見破られた。女系天皇でいいとまで発言したのは恨み節に聞こえる。学問の世界で赫赫たる成果をあげた人でも退屈心を生じるのだろうか。
正直と正道を貫く人生観と歴史観の追求はやりがいある大仕事だ。

天皇の祈り(6)

天皇の祈り(6) 05/20/2011

古事記のイザナギの命とイザナミの命の物語は日本人の起源と日本建国のお話である。男女が結婚して家庭を作り、夫婦が協力して子供を育てることが生命継承の方法だと教える。日本では千三百年前に家族像が明示されていた。明確な家族像があったから日本民族は存続し得た。
古事記は神話だと言われるが、前文では天武天皇が編纂を企画されたと書いてある。当時の最高権力者が皇民の安寧と将来の発展に寄与する物語を書くように命令された。現役の政治家が理性的に思考しまとめた物語だということを忘れてはならない。
だからかぐや姫や桃太郎のような荒唐無稽なお伽話であるはずはない。神話なる言葉は西洋人が学問分類上作り出したにすぎない。
ミコトは尊と書かれたり命であったりする。生命あるもの、尊敬されるべきものだ。祖父母から受け継いだ生命、子孫に続く生命だから尊や命と表された。神と書かれることもあるが、天武天皇は神をいかに理解されていたか。キリスト教の唯一神ではなく、多神教の神のはずだ。それは当時の日本人の日常生活と矛盾しない神だった。
ヒンズー教では結婚の契りは七世に及ぶと教えられる。現今、健全な家族像があるのはインドと日本だけではないかと思われる。安定した常識は安定した社会を作り、安定した家族、安定した国家を作る。
豊葦原の瑞穂の国は日本だ。それは稲作中心の自然再生、生命継承の社会思想である。毎日、そして生涯かけて瑞穂の国の思想を実践すれば良い結果がついてくる。考え方に矛盾はない。欲を言えば当たり前すぎてドラマ性に欠けるところか。新奇なドラマが溢れる人生が良いとは限らないのだが。
稲作文化が最先端産業だった頃は瑞穂の国は現実でありその思想は無条件で受け入れられた。明治維新以降は工業商業が産業の中心になった。瑞穂の国に則りながら新しい状況にいかに対処するか。IT 産業の力を無視できなくなった現在、適切な社会思想と歴史観の提出が必要ではないかと思われる。
子供の頃、誰もが父母はどんな人か、祖父母はどこからきたかと聞いた覚えがあるだろう。出自についての関心は本能的なもので、庶民は五、六代前まで遡って判る例が多い。家族の歴史であり家系の話であるが、各家族の物語が集合して社会の歴史になり国家の歴史を形成する。
皇族に生まれたらどうだろうか。百二十代以上の先祖のエピソードが語り継がれるだろう。学校で暗記する天皇の名前が日常語だ。各天皇の生き方や教訓の積み重ねは膨大だ。それらの知恵が日常生活に生かされ、危機に際してどう対処すべきか参考になる。家系が続くというだけで知識量が格段に増える。
皇統は百代以上続いたので、日本人で皇室と血縁関係がない人はいないと言われている。誰でも二十代くらい家系を遡ればどこかで血がつながっている。だから皇室の問題は他人事ではない。誰が天皇か、誰が皇后かはいつも意識にある。二千年の天皇の物語は国民の物語だ。STORY 物語は HISTORY 歴史だ。
生物に喩えるのは適切ではないと感じるのだが、考え方として挙げる。蜂が庇の下に大きな巣を作ったので放水して破壊した。巣が壊れて二、三日は蜂は飛び回っていたが、いつの間にかいなくなった。女王蜂がいなくなれば他の蜂はどうしていいか分からなくなる。蜂の巣、つまり社会がなくなると巣に集う個々の蜂も生きていかれない。
人々もまた蜂と同じように、存続するためには具体的な生命の中心を必要とするのではないか。女王蜂は働き蜂やオス蜂と血でつながっている。蜂の社会構造は天皇と日本人との関係に相似している。つまり天皇がなければ日本人は無い。日本人と日本国家が存続するためには天皇の御存在が不可欠だ。

ローマ帝国には確固たる家族のモデルはなかった。始祖はオオカミに育てられた。初代皇帝アウグスツスはジュリアス シーザーの後継者だが養子だった。次の代で血は絶えた。皇帝の称号としてシーザーの名は伝承されたが血のつながりはなかった。庶民から皇帝に至るまで家族観は安定しなかった。そのせいだろう、いつの間にかローマ人はいなくなりローマ帝国は崩壊した。
アメリカ人はつねにローマ帝国を意識しながら国を運営している。アメリカでは離婚率が50%だ。離婚の多さの原因はあるべき家族像のモデルが不安定だからだろう。テレビでも映画でも家族崩壊の話ばかりだ。離婚専門の弁護士も多い。カトリックでは結婚は聖行とされたが、現今は教義や儀式をけなす人が大多数だ。一神教と家族の絆は相容れないかも。神様を選ぶか家族を選ぶか選択を迫られる場合が多い。
LGBT なる言葉が氾濫し始めたのはここ三十年来だろう。突然レスビアンやゲイやトランスジェンダーなどが聞かれるようになった。巷間言われているのは、革命に失敗した共産主義者がフランクフルト大学に集まり、暴力革命路線から伝統社会破壊路線に方針転換したのが始まりだという。ユダヤ人学者のグループが批判哲学の名で理論化したと言われている。
健全な男女関係を破壊すれば社会が混乱する見通しのもとに宣伝工作が始まった。その武器は言葉狩りだというから日本人の発想を超えている。Political Correctness 政治的正語と言いながら社会的発言を規制する。ドイツではヒトラーやナチス礼讃どころか学問的研究まで規制される。社会秩序を破壊したい凄まじい欲求が働いている事実は知っておく方が良い。
ギリシャ悲劇は有名だが、アテネの民主政治下で作られた。アテネだけでなく地方の田舎町にも野外劇場があった。半円形の石造の劇場はギリシャ人には社交と娯楽の場であった。地中海沿岸の劇場での演し物のジャンルに喜劇と悲劇があった。喜劇は日常生活を再現するので忘れられる。悲劇は極端なシナリオに基づく意外な演出で大衆に受けた。原作から後世に語り継がれるにつれシナリオが洗練されていった。王族や親子の間で殺人や近親相姦が起こる。悲劇物語を集めると社会全体に異常な事件や悲しい運命があふれているみたいだ。
アテネ時代のギリシャ人と現在のギリシャ人とは民族が違うと言われている。国家興亡どころか人が入れ替わった。ギリシャ人ってなんだろうか。二千年間に断絶をくりかえしているようだ。
1週間ほどぶらりとギリシャを旅したことがあった。大木がない、大森林がない。痩せた土地にオリーヴとみかんの木が植わっていた。オリンピアの博物館では首が切られた人物の彫像が並んでいた。全土が荒涼だった。エンタシス柱は石造だが、もともとは木造だったらしい。大木がなくなったから石や漆喰で作られるようになったという。断絶思想を実践したから大地も貧弱になった。
ギリシャ文明は近代西欧文明の源流と言われる。古代にロマンを求めるのもいいが心許ないところがある。現今見るプラトンやアリストテレスの著作などはアラビア語から翻訳された。翻訳を読んでギリシャ思想やギリシャ文学を語るのに違和感はないのだろうか。原書を読めないで文明の源と称するのは妥当か。実は太古の昔から連続性の希薄な文明だったようだ。

MUJHSE DOSTI KAROGE! (4)

MUJHSE DOSTI KAROGE! (4) 番外編

「久しぶりだね。十年ぶりなので見間違えた。あの頃は投資会社で働いていたけど今も同じかな?元気だった?」
「あれからソフトウェアの会社を興したのだが、三年前に不況に陥ったので会社をたたんだ。今は別の会社で働いている。」
「インド人は数理に強いと聞いたけど、その強みを生かしたわけだ。インドのどこ出身だっけ。」
「ラジプトだ。現在はラジャスタンという。パキスタンとの国境に近い。」
「そこは JODHAA AKBAR というボリウッド映画の舞台じゃないか。映画は歴史に残る超大作だ。豪華キャストで最高だった。」
「ボリウッド映画は大好きだが、日本人の君がどうして知っているんだ。」
「二年前に MUJHSE DOSTI KAROGE! をゴミ捨て場で見つけてから病みつきになった。二百回以上見たよ。仏教教典の中では妙法蓮華経にあたるかな。最高傑作という意味だ。俳優がいい、シナリオがいい、音楽がいい、ダンスがいい、演技に惚れ惚れする。インドの映画は素晴らしい。以来めぼしい作品を見ているが、JODHAA AKBAR は歴史物として一級品だ。」
「MUJHSE DOSTI KAROGE! はまだ見ていない。ここでボリウッド映画の話が出てくるなんて、因縁というか、業というか、運命というか。」
「いや大発見と言おうじゃないか。おれの法華経は見るべきだよ。ハミングに圧倒された。人生観、世界観、仏教観まで変わった。」
「法華経といえばサンスクリットの原本があるかなあ。調べてみる。鳩摩羅什の翻訳はよく知られている。」
「ぜひ調べてくれ。もしサンスクリット本がなければ、世界中で法華経を読めるのは日本人だけということになる。」
「鳩摩羅什は中国語に訳したんじゃなかったのか。」
「その通りだが、毛沢東が漢字を無原則に簡略化してしまった。だから中国では古典は読まれない。人類史上に燦然と輝く名訳を読めるのは日本人だけになった。創価学会は法華経を読む集団だ。過激で好きじゃなかったけれど、彼らの活動は無意識的に人類の遺産を継承する活動なのかもしれない。インドも日本も存続の文明なんだよ。JODHAA AKBAR には象が出てくる。」
「二百頭くらいいるね。COMPUTER GRAPHICS も使っているんじゃないかな。」
「ラジプトでは象が村の中を歩いているだろう。」
「うんよく見る。象は草食動物でおとなしい。みんなに大事にされている。」
「おれの方がインドについては詳しいみたいだ。(笑)それではハリウッド映画にはなぜ象が出てこないと思う。」
「象がいないからだろ。」
「彼らも象がどこにいるかは知っているんだ。しかしたくさん目の前に居ないと象の映像を撮ってやろうと発想できない。調教師が必要だし化粧もしなければならない。食料も大量だし運搬も一苦労だ。人と共存しなければ映画にまではならない。存続があって初めて象の存在を映像化できるんだ。」
「アメリカには象は居なかったのだから問題ありとは思わないけどな。」
「アメリカ狼は絶滅した。国立公園にカナダ狼を輸入している。バッファローは食肉用だけ。西欧文明は人間主義というが、動植物を絶滅してきた文明のように見える。’ベン ハー’ や ’十戒’ にも象は出てこない。」
「映画の舞台は中東の砂漠だよ。」
「ハンニバル戦役は知っているだろう。」
「象をアルプス越えさせた話しか。」
「ハンニバルは敵国で十年以上連戦連勝だった。希有の名将だった。しかし彼も戦術を研究されて、201BC のザマの決戦でローマの若き将軍スキピオに敗れた。そのとき八十頭の象を正面に押し立てて戦った。うまくかわされたけれども。講和条約には、カルタゴのすべての軍象をローマに引き渡すという条項があった。
ローマ軍の主力戦闘部隊は重装歩兵で、甲冑と槍や剣で武装した兵士たちが人間の壁のようになって戦った。ローマは人間力が勝って作った国だ。兵士自身も国民も人間力の偉大さを実感した。勝つのは気持ちいい。それがヒューマニズムだ。そして象は地中海沿岸から消滅した。人が栄えて象が滅んだ。」
「文明論が好きなんだな。」
「ハンニバルは第二次ポエニ戦役で戦った。その頃は象軍を作ろうと思えばできるほど象がたくさん居た。第三次戦役のあと、ローマはカルタゴの地に塩を撒いて農耕できないようにした。農産物が主要産業だと知った上での政策だ。豊かな農耕地を不毛の砂漠にする感覚はどこから出てくるのか。どうした。」
「憂鬱になってきた。」
「 ’十戒’ はハンニバルより1000年以上前の話しだ。だからもっとたくさん象が居たはずだがどこにも出てこない。チャールトン ヘストンより小さい鶏やヤギや犬とかばかり。エジプトがローマ領に組み入れられた理由の一つは小麦の供給地だったからだ。その頃はレバノン杉も鬱蒼としていたしシチリアも靴の半島も樹木が繁っていた。なぜ分かるかというとその木でローマの軍船を作ったからだ。映画では単調な砂漠の光景ばかりだ。」
「ボリウッド映画に興味があるなら CHAKDE! を勧める。インドの国民的映画だ。満足できると思うよ。」

インドを旅したひとに聞くと、村の中を象が悠々と歩いているそうである。牛だけが保護されているのではなかった、多くの生き物が人とともに共生している。牛を殺さないのは神聖な生き物だと信仰されていると聞いたが、本当の理由は別のところにあるのかもしれない。結果として牛だけでなく他の多くの生物も存続してきた。
唯物論、孤人主義の西欧文明圏からは大型獣も大森林も姿を消した。それは存在と時間、実は非存在と無時間の思想を人が実践した結果ではないか。無存続の思想を実践すれば多くの種が存続しなくなる。存続しないものは実在しない。実在しないものは想像できない、映画を作ることもできない。
インド文明は古代からなぜか実在は存続、存続が一等大事だと気付いた。実在は存続で存続の変化が原因結果の法則で理論化され、五千年前から大前提となった。因果といい因縁というのは存続を理論化したものだ。存続を第一義にして数千年、ボリウッド映画は世界最大の娯楽大作を作った。そこでは人より大きい象やラクダが活躍している。