ロチェスターの朝(3)

 

ロチェスターの朝 (3)    01/18/2008

経済学は富の分配を研究する学問であると定義した人もいた。マル経の説だろう。富を資本家や金持ちから略奪して分けようというものだ。唯物論はカネ(普通は物質という翻訳語が使われる)が国も社会も個人の心まで決定する。
マルクス主義は国の仕組み、社会の変遷、個人の行動から心の中まで説明できた。大思想と見なされた所以である。しかし本家のソ連邦が崩壊してしまうと、経済学だけでなく思想や歴史の見方についても信用度に疑問符がつく。なぜマルクス経済学は行き詰まったのか。
労働は何かを生産する働きである。資本家は生産手段の所有者である。生産手段に手を加えて、たとえば車を作る。あらゆる生産物には値段がつく。ところが売れなければどんな値段をつけようとカネと交換できない。買う人がいなければ価格だけでなくその中に含まれている労働価値もゼロになる。労賃は払えない。クルマ社会の中で人力車を大量生産する光景を考えたらわかる。労働価値説が成立しないのだ。
売るために値下げすることは可能だが、その場合赤字続きとなって倒産がわずかに先延ばしされる。マルクスの大発見を押し通そうとすれば、一種類の車しか作らないとか、外国からの輸入は禁止するとかして統制経済を強制しなければならない。その無理は70年しか維持できなかった。経済学が間違っていたためにカネが回らなくなった。その結果、国も国民もどうしていいかわからなくなった。
売るとは逆方向から見ると販売代金を受け取ることである。これが富の創造だ。世間ではカネが手に入るとか儲けるとか言う。富が創造されて、つまりカネが入って初めて労賃を払うことができる。これはものを売ったことがある人には自明の理であろう。経済活動においてより根本的なのは労働することではなくて売ることだったのだ。近代経済学は販売から出発している。いかにして儲けるかが問題だ。
カネが入らなければ何も始まらない。原料の仕入れも労賃の支払いも研究開発への投資も税金とか販売とかでカネを集めたあとの話である。富の分配とはカネの奪い合いでもある。
経済学者が富を創造することは考えないで分前だけを研究すれば国民は貧乏になり、国家も維持できなくなる。平等社会などは過去にも未来にも実際に存在することはなかったのだ。
一つの原理で世界を統一的に解釈する大思想は偉大すぎた。何しろすべてがわかるのである。怠け者のための世界観だった。今でも資本主義は行き詰まると講演してまわっている政党の党首がいるが、妄想、妄説である。ロチェスターで聞いた揺るぎない知恵とは比ぶべきもない。経済学も無限の世界を無数通りに把握できる方法を持たなければすぐに寿命が尽きる。
戦後社会党の理論的指導者だった向坂逸郎は高度経済成長の真っ只中で1930年台の経済ばかり論じていた。とっくに済んだ現象を解釈することくらい楽なことはない。そして現実を見ないではパン一個も売ることはできない。氏自身は金持ちだったらしいが、弟子や追随者や同調者はその後どうなったのだろうか。得た知識で社会の役に立ったことがあっただろうか。無一文の若者もいただろうが、50年前の、それも体制の異なる経済ばかり研究してどうなるのか。何よりも、真剣な勉強と努力が自己自身を利益しただろうか。成功した例があれば聞きたい。
近代経済学は応用範囲が無限に広い。商売人の数だけ学派ができておかしくない。売るための研究だから終わりはない。小は食うために何かを売ってカネを得、食べ物を手に入れるところから始まる。売るものがなければ肉体労働でも知識でも魅力でも売る。売るのが面白ければ売り続ければ良い。どんな生き方も原則として許容される。所有財産が保証される不平等で自由な経済社会が繁栄する。
終わり

 

 

ロチェスターの朝 (2)

 

ロチェスターの朝 (2)  01/18/2008

1991年ソ連が消滅した。世界最大の帝国が無くなった。彼の地で本当は何が起こったのだろうか。外国から攻め込まれなかったのは核兵器を持っていたからだろう。ソ連人でなくなったら庶民はどうしたらよいのか。品の良い女性たちが寒空の下所持品を売るために街頭に立っている写真が載った。年金が入らなくなってタケノコ生活をしていると解説がついていた。
そのとき五年前ロチェスターで交わした会話の意味がわかった。世界を認識する方法を教えてもらっていたのだ。あのときすでにマルクス経済学は未来がないどころか現在も無かった。マル経で運営する建前のソビエト社会主義共和国連邦では、経済の責任者は国家を運営する術を持たなかった。発表された経済統計はすべて水増しと捏造であった。近代経済学を導入しようとすれば統治原理が霧消して再び流血革命が起こる恐れさえあった。
広大な国は資源、国民、歴史、文化、軍事力などたくさんの要素で成立している。経済政策の失敗だけで国が破綻するとまでは誰しも予知できなかった。しかしあの近経の若手学者の見方が正しかったことは現前の事件が証明した。(ソ連崩壊の予言は公式には世界で一人だけ認定されているそうである。)
この世には正しい学問と間違った学問があるようだ。正しい学問をすれば世界や世の中がどのように動いて行くかわかるし、趨勢に合わせて人生設計をすることもできる。近代経済学の研究を続ければ順調に出世し金持ちになることも可能だろう。もちろん国家の運営も合理的になされる。
マル経の研究者は日本とイギリスにしかいなかったというが、彼らは国を瓦解させるような理論を研究していたのだろうか。ある大学では五つある経済学の講座が全部マル経の先生で独占されていたと聞いたこともある。そこでも先生は学生を評価するだろう。優秀かどうかは何を基準に決めるのだろうか。優秀だということは、国や社会をより速く解体破壊するということなのか。国がなくなれば国立大学の先生の給料は払われなくなるのだが、そんな日が早く来ることを願って研究していたのだろうか。
これら二つの経験、個人的な出会いと歴史に残る大事件を通して社会と世界を見る目が変わった。それは補助線を引いたために難問が解決する糸口が掴めた感じだった。生活はごまかしごまかしで悪くはないが、それでは是非善悪がわからない。思考停止だ。有用な学問をして立派な学者生活を送る人がいる。反対に、長年研究したことがまったく役に立っていない学者もいる。是非善悪の区別はないとは言えない。知的判断が個人の人生や国の未来を変える力を持っている。
マルクス主義を要約すると、唯物論、労働価値説、階級闘争史観になるという。カネから出発すると、カネでものが買える、ものを売るとカネが手に入る。カネとものは交換できる。これを交換価値があるという。マルクスが発見したのは労働もカネと交換できるということだった。働くと賃金が支払われる。カネを得るために働く。カネと労働が等価になる。あるいはカネと交換できるほど労働は価値あるものだとも言える。これが労働価値説だ。価値というから何か上等な概念と思っていたが、要するにカネのことだった。
雇う方にとっては労賃を少なくした方が儲かる。これは搾取という。働く方は払いが多い方がよい。双方とも欲求することは逆方向だから矛盾という。両者には必ず不満が起き衝突に至る。より多くの所有を求めることが常識になる。雇い主、資本家がいなければ労働者たちが儲けの全てを手に入れることができる。これが資本家のいない平等社会にしようとする運動の理論的基礎となる。こう考えると、世の中は間断なく闘争が続くことになる。歴史は闘争によって作られる。これが階級闘争史観だ。そして資本家、金持ちは常に少なく労働者は多い。多い者が最後には少数者を圧倒する。

 

ロチェスターの朝 (1)

ロチェスターの朝 (1)        01・18・2008

1986年の初夏だったと記憶する。突然電話がかかってきた。
「引越し荷物が動かなくなった、助けて欲しい。」
「どこからお電話ですか。」
「ロチェスターからです。ボストンのアパートで荷造りして、業者に運送を頼んで転地先に来ました。ところが業者は引き取らないというのです。」
重量を量ってないとかオーバサイズとか些細な点が引っかかったらしい。少しくらいの不備は日本では業者が代行して始末する。それが商売と誰もが思っている。
ところがアメリカでは運送業者は文字通り運送するだけである。壊れないように梱包するのはもちろん、保険をかけるところから個々の荷物のサイズまできちんと書類を作成するのはお客の責任である。規則に合わないからと言って、お客が怒鳴りつけられていた場面を目撃したことがある。商習慣が違うと言えばそれだけなのだが、異なる文化圏の慣行に慣れるのは容易ではない。
何とかしましょうと返事してアパートまで行って見た。大家の老婦人がどうしていいかわからず困惑している。荷物はトラック一台分だった。地図を開くとナイアガラの手前にある町なのでそんなに遠くない。夜通しドライブすれば着く距離だ。ロチェスターにはコダックの本社があって、貿易摩擦で大騒ぎしたことで有名だった。週末に届けますと電話した。
金曜日の午後早くに荷物を積みテントをかけた。途中で眠くなると道路際で仮眠をとった。夜中に若い者の声がする。盗賊団でないことを祈った。
目的地に着いたのは午前九時頃だった。すぐに帰る予定だったので大急ぎで荷物をおろした。よくよく考えると業者よりも早く正確に仕事を終えたのだった。
出発前にお茶を一服ということになった。
「アメリカへ来て何をしているのですか。」
「経済学を勉強しています。」
「経済学といえばマルクス経済学と近代経済学があるそうですね。どちらですか。」
「近経です。近代経済学はアメリカの経済学です。」
「するとマルクス経済学を勉強したい人はモスクワに留学するわけですね。」
「いえ、ソ連でマルクス経済学を研究している人はいません。」
「マルクス経済学でないとすると、ソ連では何に基づいて経済政策が決められているのですか。」
「彼らは近代経済学を応用しています。」
「ではソ連でも研究していないマル経の名前を私はなぜよく聞いたのでしょうか。」
「それはマルクス経済学を研究する学者が一番多いのが日本だからです。そのほかイギリスに少し居ります。あとは世界中近代経済学ばかりです。」
急いでいたので意味のある会話は以上だった。助教授になる年齢かと見えたが、名前は聞き流し、大学名も聞かなかった。
印象的だったのは、当時の私の常識と正反対の答えばかりが帰って来たことだった。私にはマル経の方がかっこよく耳に響いた。確たる理由はないが、資本論を読んだことは一因になるだろう。近代経済学は難しいという話も聞いていた。両方とも有効ならやさしいマル経の方がよいかなという程度の認識であった。だから立ち入った内容の話は、しようとしても質問する材料は頭の中になかったのである。
経済についてはどう考えたらよいのか。当時は内山老師が言われた通り、’カネには頭を下げない。’’生活はごまかしごまかしでよい。’を文字通り信奉していた。でなければコネも芸もないのに異国で一文無しになってやって行けるはずがない。’ただ座っていればいいんだ、’とも言われた。このような言葉が私の基本知識だった。結論が出ているのだから改めて勉強する必要はない。結論とは要するに、どうでもいいということだった。これでは勉強する動機も起こらず手がかりもない。

 

 

      虎     08/28/2007

 

身体について、特に意識して調べなければ、身体は一つで終わりだろう。病気になったり怪我したりするときに胃や手足が気になる以外に、身体とは何か特に考えなかった。重い荷物を担ぐときどっこいしょ、相撲をとるときガッちんこくらいが身体の感覚であった。人は何も考えずにいることができる。
立ち方については、気をつけの姿勢が良いとしか思っていなかった。気をつけは腕も足も背も一直線だ。ハラと呼ばれる中心点が一つで、歩行走行のときの中心軸も一本で、それが重心に重なる。その点と軸を正しく合わせればグラグラしないで立てる、まっすぐ歩ける, どっしり座れる。直線、直立、直角、直進が自分の身体のイメージだった。単純なことしか考えられない者も居る。
中心点がハラ一つだと、身体は上下と左右二つの部分に別れる。二つしかないから開くか畳む動きしかない。ロボットでもすぐマスターできる単純さだ。身体の動きの単純さは思考の単純さにも繋がる。
筋肉は身体の内側にあって見えないし、自由に動くと思っているから、さまざまに頭を使って工夫する余地がない。ばたりと倒れるのは重心から外れるからだが、そこまで血の出る痛みを体験した後でも身体が硬いとか運動神経が鈍いとか内向して納得する。客観的な自他関係に気づかなかった。自分の体を合理的に分析する方法を知らなかった。というか分析なる頭の働かせかたを知らなかったというべきか。
普勧坐禅儀には実在の動物として唯一、’虎’ が出てくる。’虎の山に拠るに似たり’の箇所だが、山に放たれた虎のように強力な力を発現するのが坐禅だと云はれる。坐禅している人の姿が部屋いっぱいに広がって見えたとか、酔っ払いが坐相の威厳にびっくりして思わず合掌低頭したというようなことかと思っていた。そんなこともあるだろうが、ここでは凡人の角度から考えてみたい。
動物園で、虎が狭い檻の中を忙しく動き回っている。長い背骨がユッサユッサと揺れ、尻尾もゆらゆらし、足裏全体でぺたりぺたりと歩いている。足裏も柔らかそうだけど、つま先はもっと柔らかく、力が入っているのを感じさせない。ぶらぶらだ。ときどき唸り声をあげる。威勢のよい人がけしかけてもっと吠えさせようとする。檻の外に飛び出したらどうするのかとハラハラした。
小学生の時に見た光景を改めて振り返ってみると、忙しく歩き回っていたのは、実は柔軟体操だったのではないか。全身を動かすことによって体温を発生し、同時に関節や軟骨の柔らかさを維持していた。歩き回って疲れないかと同情したのは逆で、身体を動かすことで虎は生命力を獲得していたのだ。うなり声は呼吸法だ、左右揺振して欠気一息している。
背骨が波のように揺れ動いている時、四足獣にとって重心はどこにあるのか。後肢のすぐ前だろう。後肢の後ろには長い尻尾がある。後肢を中心にバランスをとるはずだから、重心は後肢の前にある。それは人にとってはハラと呼ばれる位置にあるはずだ。もう一つは前肩の後ろにある。こちらは頭の重さとバランスをとる位置のはずだ。虎にとって重心は二つある。走るときは前後の重心と左右の軸のバランスを調整しながら駆けている。
人類は二足歩行するけれども、四足獣でもある。ヨガに犬や猫の姿勢があるのはその証拠だ。四足獣なら重心は二つある。一つはハラと呼ばれてきた部分、下腹のどこか。もう一つはみぞおちの近く。虎が前後の重心を調整しながら動き回るように、人類もまた二つの重心の役割を調整しながら動くのが自然と言える。重心がハラとみぞおちと二つあれば、身体は三つに分かれる。三部分を組み合わせれば二部分だけよりも複雑な動きができる。均衡が破れても複数部位でバランスを取り戻せるからねばりつよい、倒れにくい。
坐禅は坐相だということで、絶対不動の姿勢を続けることが要求される。不動の姿勢は難しい。何年も何十年も必死になって座る。大事は一事である。一事を一心に行ずる。それでいいのであろう。しかし虎の自由闊達な動きとはどこか相入れない。
本当の坐相は虎の柔軟な運動を内包するような姿勢ではないだろうか、人の身体は木像や石像ではないのだから。言葉で表すなら、動と不動を包み込んだのが坐相であろう。それは動の可能性から不動の可能性までの全ての動きを知り尽くしている坐禅ということになる。
オリンピックでは米食国民が肉食国民に勝てるわけがないとか、手足の長さが違うから表現力では勝負にならないとか、粗雑な決定論や悲観論を聞いて育った。本当は誰もが無限の世界を持っているのだ。動と不動とその中間の全ての能力を保持している。潜在能力の開発方法を知らなかったから停滞していた。
音楽や体育の先生はとてつもなく大きな使命を持っている。生徒が美しい声や正確なリズムを獲得するにはどんな姿勢をとるべきか教えねばならない。正しい姿勢からは美声だけでなく弾むような動きが出てくる。そのあとは自然に、動くのが快く、動作が楽に滑らかになり、生活が闊達になる。その先は工夫次第で能動、明朗、快活、心と身体の生長、無限の可能性、創造性の世界がひらけてくる。
反対にどっしりと腹筋に頼って立つと、一次的に安定、平和な感じはする。しかし姿勢が安定することは、移動、運動の原因がないことも意味する。動くためには筋肉を使って余分な力を発揮しなければならない。そこから先は疲れやすいので、ごそごそ、のろのろ、悪くすれば受動、鈍重、怠惰へと進んでいく。肉体だけでなく、心理的にも無力、自閉、自虐、諦念、神経衰弱、苦悩へと嵩じていくだろう。

 

大山倍達正伝を読んで

 

‘大山倍達正伝’ の感想        04/12/2007

’大山倍達正伝’ を読んだ。六百ページを超す大著で、拳聖をめぐる社会情勢、国際関係、空手の歴史からアメリカでの興行内幕まで書かれめっぽう面白い。少年マガジンの ’空手バカ一代’ を学問的に研究した成果だという。漫画は学問として研究しても面白くなるものらしい。本書を元にして多くが語られる気がした。この本の面白さとエネルギーに触発された最近の関心事を記したい。
大山倍達は第二次世界大戦が始まってから日本に密入国した。当時の日本社会の詳しすぎるほどの描写は正確を期すため必要だったのだろう。敗戦後、日本は進駐軍に占領された。占領軍が治安を維持することになって、日本の警察は捜査権、逮捕権を剥奪された。拳銃所持も禁止され警察官は何もできなくなった。暴徒の方が旧軍の倉庫を襲って武装する始末だった。実質占領はアメリカ一国だが、他の参戦国も極東委員会を作って事細かに日本を監視した。
マッカーサーの憲法原案には日本には自衛権も認めないと書いてあった。殴られても殺されても抵抗してはならないと云うことだ。正当防衛も許さない憲法など、たとえ植民地であってもあるわけない。しかし民族絶滅を狙うなら当たり前の思考法だ。アメリカインデアンはそれで事実上滅ぼされた。さすがに酷すぎると云う部下の進言で憲法九条に落ち着いた。極東委員会のメンバー国の中にはその変更にも反対したのがある。憲法は英文で外人が読める。もし原文が発表されればアメリカでも大問題になっただろうとは思うが。
日本はドイツが消滅した後も律儀に世界中と戦った。停戦できる理由が見つかるまで戦い続けた。九月二日のミズーリ号での終戦の儀式では五十以上の国が署名した。戦争は講和条約の調印をもって終了するが、最後はカネでかたをつける。その時スイスや同盟国だったはずのイタリアまで賠償金を取った。溺れていると思って叩かれた。世界中から踏んだり蹴ったり、いいように弄ばれた。
敗戦後一番威張っていたのは進駐軍、次が三國人と共産党だった。三國人は戦勝国、敗戦国のカテゴリーに入らない国の人々で、おもに朝鮮、台湾出身者で、闇市場を取り仕切るなどやりたい放題だった。縄張りを巡って抗争が頻発した。争いが起きると真っ先に駆けつけて喧嘩するのが大山倍達だった。一人で二十人を相手にするのは普通だったというからその強さには舌を巻く。プロの喧嘩屋となんども渡り合うことで大山は文字通り実戦空手を磨いていった。
普通の日本人はどうしていたのだろうか?軍隊は解散、警察も活動停止、日本国は’非武装中立’を実現していた。それでどうなったか。占領終了までに占領軍兵士に三千人が殺されたという。犯人が処刑されたという話はない。警察は捜査できない、犯人を特定することは難しい、起訴もできない。戦後の大事件が未解決なのは警察の機能を封殺した占領政策に起因するところが大きい。強姦は約二万件だそうだ。敗戦国としては当然の状態だったかもしれない。これが国が負け独立を失った現実だった。
日本人は程度の差はあれ上から下まで全員が地獄を見た。公職追放、教育劣悪化、不景気への誘導、放置された治安の乱れなど。にもかかわらず我々が占領政策の酷さを知らないのは、報道機関が検閲を受けていたからだ。広島への原爆投下を一般国民が知ったのは講和条約成立の後、昭和二十七年四月二十八日以降だった。
占領軍に都合の悪い情報は一切報道されなかった。敗戦までの大本営発表より内容は厳しく、しかも独立までは確実に言論封殺されていた。報道される情報が偏っていると国民の思考も偏る。これを洗脳というが、江藤淳氏が ’閉ざされた言語空間’で 指摘して、八十年代に日本人は洗脳なる攻撃方法があることを知った。ローマ時代から行われた人心変更術だが、日本人には歴史上初めての経験だった。
冷戦が激しくなってくるとアメリカは戦う相手を間違えたことに気がついた。占領政策が180度変わって協力を求めるようになった。飴を与えて歓心を買うことが政策になった。陽気なアメリカ人からチョコレートをもらった思い出を語る人もいるが、占領後期の出来事であろう。チョコレート代は日本人の税金から政府が払った。かくして多くの日本人はアメリカを好きになった。占領政策は前期も後期も成功した。
百四十三ページにあれっと目を引く文章があった。無法時代で警察も頼りにならない時、日本人を守るために立ち上がったのはヤクザやぐれん隊だった。山口組や松田組の名が見える。三國人が縄張りを作り、お互いもせめぎ合う。暴力が支配している日本に安全地帯を作り秩序を保ったのがヤクザだった。警察も自由に動けるヤクザに武器の使用法を教えたり治安維持を期待した。ある市長は無法者の排除を依頼した。ヤクザは熱かった。
阪神大震災で五千人以上が亡くなった原因を検証した報告書がある。村山首相は増大する犠牲者数を前にして終始冷淡だった。救援に駆けつけた自衛隊は革新首長から現場に近づくことを阻止された。ヘリコプターの使用も制限されて早期鎮火できなかった。タイムには前近代的な救助方法に驚きの文章が載った。
この時山口組は率先して炊き出しなどした。朝日新聞は右翼が同情を期待する行動だと冷笑的に報道した。この時朝日と村山富市との共通項に気付くべきだった。冷笑、冷淡はサヨクの特徴なのだ。
村山富市が属した日本社会党は非武装中立を唱えた。未来を見据えた政治理念だと思っていたが、終戦直後に存在した状況だった。彼らは被占領下の昔に帰ろうと言っていたわけだ。だからか前向き建設的な政策はなかった。非武装だと自立も独立もできない。日本が曲がりなりにも自衛隊を持ち安全を確保できたのは綱渡りのような駆け引きを経た結果である。
独立するなと強硬に主張したのがまた朝日新聞だった。南原繁東大総長を担いで全面講和論を押し立て独立に反対した。言葉の上では理想的に聞こえるが、ソ連が反対する以上実行できない案だった。当時国家予算の三分の一は占領軍の経費として支払われた。東大総長の意図は外国に貢ぎ続けようというものだった。一人占領下で甘い汁を吸っていたのか、日本の現況も未来も眼中になかった。
しかし日本は独立した、国と社会の体制が変わった。独立に反対した東大総長は独立した国に住むべきではないだろう。独立に反対した朝日新聞は日本の中に存在理由はない。アメリカ独立戦争の時反対派もいた。彼らは独立派が勝った後、カナダやイギリスに亡命したという。
東大総長はけじめをつけなかった。肝心なところは曖昧にして逃げている。講和条約で解決済みの戦争責任とやらを屁理屈をつけて蒸し返すのも、捏造報道がバレても訂正しないのも、けじめをつけなかったと同じパターンを繰り返している。しかし本屋に朝日新聞の犯罪を糾弾する本が並んでいるのを見ると、一世紀かかろうが因果応報を逃れることは不可能なようである。
金属バット殺人事件があった。渡部昇一氏の文章で知ったのだが、バットを振り下ろした父親は左翼出版社に勤める左翼人だったという。非武装、無抵抗、理想主義を頭に入れている人物像が眼に浮かぶ。美しい理想と現実との矛盾は、心理的にも肉体的にも耐えきれなくなった。中途半端な理想はどこかで破綻する。理想という妄念もあり、理想なる邪見もある。左翼新聞が報道しない情報はおびただしい。
悪見邪見をやめて正しい考え方をすれば惨事は防げた可能性がある。それには教育勅語を読むのが第一歩だろう。善悪の道理を学ぶためにお寺に通って仏教を学ぶのも良かった。あるいは多方面から問題を議論し尽くす方法も考えられる。隠蔽と逃避とごまかしだけでは問題は解決しない。朝日の偽報道では災難がはびこるだけだ。

 

里子

里子        03/02/2007

ある夕方のこと、テレビをつけると ”ミス十代” を放映していた。出演者は十七歳から十八歳くらいの女子高校生ばかり。大学生は十代には数えられないのかなと思いながら観ていると、それぞれが演技を終えるたびに両親あるいは母親の姿がスクリーンに映し出される。その時 Mother とか  Parents の字幕が現れる。アメリカでは十八歳までは子供で保護者の監督下にあるとされる。つまり保護者同伴を必要とする年齢の若い女性のミスコンテストだった。
十八歳の女性といえば男から見て最も魅力的で美しい年頃だが、女性自身にとってもまばゆい年齢だという。健康と笑いと幸福感に満たされている日々、それが十八歳だ。ほとんどの女性が十八歳に還れたらいいのにと願っている。痩せるといっても十八歳の体型に戻ることを目標にする。美貌の代名詞の金髪も歳を重ねると栗色とか色が濃くなる。だからミス十代コンテストには最も美しい女性たちが登場する可能性が高い。全米五十州から予選を勝ち抜いた美女が集まる。
美人コンテストを非難する人もいるが、男がスポーツに熱中するのと好対照と考えたほうがいいだろう。男が野球やサッカーで強さによって勝ち負けを争うのと同じように、女性は見た目で優劣を競う。美しくなるノウハウだってあるだろうし、何にしても懸命に努力することは良いことではないか。”美しい赤ちゃんコンテスト”まであるので、女性にはゼロ歳から死ぬまで美を競う機会が用意されている。
差別だとか侮辱だとか真剣にイベントに異議を唱える向きもあるだろうが、周りを見ているとあまり心配する必要はないようだ。出演者の多くは子供の頃から何度も挑戦して勝ったり負けたりを繰り返している。だから歩き方や踊り方が様になっている。ステージで見つめられる快感がたまらないような人が応募する。
しかも誰が勝つかわからない。あるコンテストでこの人で決まりかなと見ていると、最後の場面でスポーツに関する質問が発せられた。究極の女性美を求めてきた人だったからスポーツのことなど何も知らない。女性にとっては可愛い無知ですませられるところだ。しかし壇上で、審査員と口論になってしまった。代わりに優勝した女性が翌日のテレビでとっても幸せ、今日からニューヨークのアパートをもらったのよと嬉しそうだった。友人に不運な逆転劇を話すと、’良かったじゃないか、誰が部屋のマスターキーを持ってるんだ。’と大笑いになった。娯楽の一つでいいじゃないかということ。
”ミス十代” に戻る。出演者の演技の後、会場で見守る肉親が映し出されるなかで、一人だけ ’Foster Mother’ の字幕で登場する中年女性がいた。その単語は知らなかったが、調べなくても大勢に影響はないだろうと画面を見続けていると、同じ単語を何度も見ることになった。それが最後まで続いた。というのはその中年女性が同伴している高校生が栄冠を勝ち取ってしまったからだ。
辞書を開けると ’里母’ とある。するとあの女子高校生は里子ということになる。里子なる日本語は聞いたことがあるという程度だった。養子ではなくて、実の親以外の人に育てられている少年少女のことだ。何度も画面に現れたおばさんが親代わりに養っていたのだ。親戚ではない。どんな方法があって高校へ行かせられるのだろうか。補助金でも出ているのだろうか。
悲劇のプリンセスが誕生した。アメリカではよくあることだが、その後の数ヶ月は里親制度の現状や是非について何度もテレビで特集が組まれた。それによると優勝した少女は二人姉妹の姉の方で、妹はすでに養子にもらわれていた。里母も再び登場して、コンテストの準備は精一杯手助けしたものの、養子にする気はないときっぱり言った。理由は明言しなかったが、扱いにくい娘ということらしい。おとなしい妹の方が先に行き先が決まって、人生の荒波にひとりで立ち向かわなければならなくなった姉の焦燥感はどんなものだろうか。安眠できる場所がない。不安がいっぱいでいい子ぶる余裕などないだろう。養子先を見つけるのがいちばんの願望だという。
美の女王がほうぼうの施設や子供達を訪問して励ます特集が続いた。すべて綺麗な話の中で、実の親に会いたいという話題は出てこなかった。美人コンテストで優勝したのだから親や親戚が名乗りを上げても不思議ではないと思うのだが。肉親、愛情、可愛がる、懐かしい等々の言葉が通じない荒涼たる心象風景を見ている気がした。里親制度とは、肉親はすべての義務と責任を放棄するから里子として育てることを希望する、後のことは知らない、という形式になっているらしい。すべての関心は目の前の高校生の身の処し方と制度の不備に集中されていた。
ある特番では里子たちが集められて遊んでいた。おとなしく心細い表情をした子が多い。ふつうアメリカの子供は喋り放題、遊び放題、元気ハツラツとしている。何も恐れるものがない。それに比べ里子たちの無力感と孤独感が際立っていた。羽目を外したら罰として施設に送り返されたり別の里親へ回される。厳しく監視され採点されている。子供達を取り巻いているのは養子を探している大人たち、気に入ったらもらっていく。人身売買みたいだなと思いながら、選ばれなかった子供達の気持ちを思って涙が止まらなかった。十歳前後の子供がゴマスリしなければ生きていけないとは。
ちょうどその頃、里子を三、四人世話している人が坐禅会に来るようになった。大変だ、大変だとこぼしているが、誰かが養子に片付いたり大学に奨学金をもらって入学するとまた里子を探してくる。ビジネスになっているみたいだ。本人は社会の弱者を救済するために善行を積んでいる気分である。清らかな善を行なっている態度が言葉の端々から滲み出ている。しかし少女ばかり世話するのはなぜだろうか。テレビにも男の幼児は出てきても少年はいなかった。慈悲心からではなくビジネスではないかと勘ぐってしまう。大切な奉仕活動をしているのだから失礼とは思ったのだが。
表面には現れないけれども、アメリカにはかなりの数の親から離れた子供がいるようだ。これはどういうことか。人類史上空前の繁栄を享受しているアメリカだが、ひょっとすると内実は孤児社会なのかもしれない。親が簡単に子供を捨てて、それが強い抵抗もなく許容される社会とは。すぐに思い浮かぶのは人種差別だが、画面から見る限り肌の色は関係なさそうだった。次は経済的困窮だが、里子たちは高校へ通っている。あらゆる特典を利用すればこの国では誰でも高校教育くらいは受けられる。
数年前、「私は捨て子です。」と自己紹介する女性に会ったことがある。年若い女性だったがロンドンに住んでいるという。孤児施設で育てられ、職業といえば掃除洗濯などの汚い仕事ばかり、痛々しいまでに愛情に飢えているのがわかった。ところが彼女は自分を捨てた親を知っているばかりでなく、時々会いに行くという。それでも捨て子なのだ。平和な時代の、やはり繁栄を謳歌しているロンドンでの話だろうか。彼女の両親の気持ちとイギリス社会の常識が理解できなかった。
アメリカはイギリスの申し子だ。人種や出身国で分類するとドイツ系がいちばん多いのだが、国の体制や法律、慣習などはイギリス発が圧倒している。公用語を英語からドイツ語にしようという声は聞いたことがない。だからロンドンの雰囲気はアメリカでも共有されているはずだ。孤児社会、あるいは親の愛情が薄い人間関係はイギリス発なのかもしれない。
アメリカでは離婚率が五十パーセントを超える。日本人から見て健全な家庭というのは見つけるのが難しい。しかしもともと孤児社会だったということになると、見方も変わる。カトリックは結婚を七つの聖行の一つにして離婚を禁じた。その教えの現実との乖離と硬直性の弊害を指摘するのはたやすいが、孤児社会を安定した家族制度に基づいた社会に変革しようとする試みだったとも言えよう。しかしながら一千年以上にわたる教えはカトリックの力が弱くなって軽視されるようになった。人々は義務も責任も問われず好き勝手に振る舞える元の孤児社会へ回帰しようとしているのかもしれない。その結果が離婚専門弁護士が喜ぶ数字である。
若い頃読んだ西洋文学では食物の無料配布や孤児院の開設が疑問の余地なく絶対善だと描かれているのが気になった。聖書時代の話なら理解できるけれども、いつまでたっても孤児院と病院である。アメリカでは今も当たり前のように、無料で食物の炊き出しをしている人たちがいる。彼らは一様に政府や社会をあしざまにののしる。
西欧では何千年も孤児が生み出され、孤児を世話する優しい人たちもおり、同時に状況を根本的に改善しない政治が続いてきたのではないか。孤児、病者、ホームレスであればそれだけで善者であるという常識が近代西洋社会にはあるように見えるが、それは対象になる孤児が多いから出来上がった常識であろう。ひょっとしたら孤児社会はヨーロッパ発と云った方が当たっているかもしれない。
近代西洋社会は孤児社会であるという見方が正しいとすると、孤児社会は近代思想を理解するキーワードとなりうる。すぐ思いつくのは「人は互いに狼である。」という言葉だ。あまりに的確すぎて説明は不要だろう。次に「人権」だが、これも無力な孤児を守るためには必要だ。バラバラの孤児をつなぎ合わせるのが「契約説」だ。外来思想は進んでいると信じ込んでうっかり取り入れると、結果として孤児社会の到来になりはしないだろうか。
私有財産の否定は共産主義者が唱えていたが、実態は国民をバラバラの孤児にすることだろう。孤児ではひどいというなら里子にすることだ。自分が自由に処分できる所持品がないから、食べ物にせよ着物にせよ財の所有者に恵んでもらうしかない。財の管理者が共産党員である。当然依怙贔屓や賄賂、闇の経済がはびこる。学者や政治家はこのような肝心なところは国家所有とか人民管理とか抽象語でごまかしてきた。
日本でも里親制度を充実させねばならないと主張する人がいるそうである。表面だけを研究した学者が、なにごともアメリカの真似をしようとしているのだろう。彼らは孤児が多くなければ先進国ではないと思っているかもしれない。
日本では親は必死で子供を守る、親子の絆は強い。実子同様に可愛がるという表現は、実の親子のつながりが強いことを前提としている。絶対数で見ても養子や里子の数は少ないはずだ。このことは、健全な家族は両親とその子供から成っているという心理的モデルが一般国民にあるからだろう。
聖武天皇の妃、光明皇后の施薬院と悲田院は歴史上有名だが、そのあとは同じような話を聞かない。思うに、日本人は庶民に至るまで皇后が示された模範を見て、孤児や病人をどう遇するかを学んだのではないか。お二人は深く仏教に帰依されたと聞く。施設を作る際に、仏陀が明らかにされた慈悲心と善因善果の理法も写経などを通して広く教えられたに違いない。
澤木老師が両親の死後縁戚にもらわれた話はよく知られているが、老師のケースは特別ではない。法律が整備されなくとも、施設がなくとも、子供を育てるには里子ではなく家族の一員として面倒を見るのが最上の方法であることをみんな知っていた。自然の情愛を尊重した上で助け合って生きる具体的な方法が常識として確立されていた。
”ミス十代” のその後だが、一年ほど経った頃、彼女はめでたく養子になることができた。安心して帰れるホームがどうしても欲しかったというコメントが印象深かった。彼女にとって、恐らくはすべての里子にとって、心の底から帰りたいところ、それは家族だ。

 

常住の生命  II

常住の生命 II       01/19/07

2004年十二月八日、水曜日の夕方だった。その頃習っていた古武術の先生が何か欲しいものはないかと質問した。意味がわからなくて黙っていると、強くなりたいとか痩せたいとかの願望のことだという。
願望、欲望か。仏教では欲望は三毒の一つである。欲がないわけではないが、欲で行動するとか欲の追求は毒の増長でもあり禁じられている。公然とあれが欲しいこれが欲しいということは仏教徒としては考えられないことであった。強くなりたいとか痩せたいとかならその方法を伝授するというのだろうか。
少し考えて、それなら柔軟な体になりたいと言った。隣の女性は痩せたいというかと思いきや柔軟になりたいだった。先生はお前はそれが必要だろうなと言いながら、前傾してみろという。一番嫌いな姿勢である。身を屈めて手を下ろすと床から十センチ上で止まった。隣の女性は指が半分までつく。
先生は、両手を合わせてまっすぐ上に伸ばし、息を吐きながら静かに前屈する要領を教えてくれた。手が一番下まで伸びた時、わずかだけ腰を鉛直下方に押すのがコツだという。反動を利用して曲げるのはダメ。焦って練習しすぎると背骨を痛める恐れがあるからゆっくりするようにと注意された。模範を示してくれたが、先生は掌がぺたりである。一時間ほどの練習では成果はほとんどなかった。
私は身体が固かった。それは体質であって、風邪をひきやすいとか背が低いとかいうようなものだ。敏捷な人、動作が鈍い人、声が太いとか、陽に弱い肌とか体質の違いはいろいろある。体質は変わらないから体質だ。各人に固有の個性の一つでもある。各人が異なる体質を保有しているから他者から区別される。
身体が柔軟になるということは体質が変わるということか、あるいは個性も変わるということだろうか。してみれば体質も個性も確かな根拠のある概念ではなかったということかもしれない。それとも言葉を間違って理解していたのか。
身体を柔軟にする方法があるとはにわかには信じられなかった。強くなるのは少しわかる、キン肉マンになればよい。痩せる方法というのはどうだろう。痩身術を知っているならたちまち大金持ちになれるだろう。
金を払って得た知識である、暇を見つけて練習した。思い切り両手をあげると胸周りから汗が吹き出した。贅肉が脱落していく感じがする。前屈が痩せる運動になっているのかもしれない。練習の後は心地よい。調子がいいからせっせとやると翌日は背中が痛い。先生の注意は当たっていた。焦らないようにスロウダウンした。ひと月ほどすると両手の掌が床につくようになった。身体が柔軟になったのだった。
前屈体操は気持ち良いだけでなく、予期しない変化が現れた。腰が楽に回るようになったのだ。立っても座ってもお辞儀が深々とできるようになった。格好良いお辞儀もできるようになれる。蹴りや突きが楽にできるようになった。努力しなくても足がスッと上がる感じだ。頭が軽くなって周囲がよく見えるようになった。交通事故だって避けられるということだ。
ダンスでは腰がクルクル動く。日本ではダンスは長い間猿が尻を振っている、下品だと言われてきた。そんな常識の元で育ったので踊ったことはない。後でわかったのは、ダンスは心の態度と密接な関係があり、下品だと見下す評価をしていては踊れない。身体が動かないのだ、動いてもぎこちない。じっと身動きしないで座る文化にどっぷり浸かって生きてきたというしかない。
ところが腰がよく動くようになり、動くのが楽で快感がもたらされるということがわかると、ダンスも捨てたものではないと思うようになった。生まれて初めてダンスが身近になり、ダンスとは何かと考えた。バレエ、レゲエ、フォークダンスとかいろいろある。動を考えることは実際に踊ることの前触れになる。
静座と運動との関係も見直さざるを得なくなった。不動の坐禅はそれだけで隔絶した最高価値なのか。運動が坐禅に及ぼす影響はないのだろうか。
箏曲の演奏会に行ったことがあった。四人が演奏した。アメリカ人が尺八と琴、日本人が二人で琴を引いた。三十代の日本女性は端正に座り、立ち居振る舞いもキビキビしていて見栄えが良かった。六十代と思しき日本女性は動きが少ないし座っても映えない。乾いたアメリカの空気の中では琴らしい微妙な音色は響かない。そのぶん余計に見かけの美醜が気になった。
ふたりの外見の差を考えてみると、若い婦人は静座していてもすぐにジャンプできる潜勢力があるから美しく見えるのだと気がついた。片方の女性は背骨も曲がって見えるし跳躍など到底無理だ。ハッとする驚きの可能性がない。琴は座って演奏する楽器だが、座ればいいというものではなさそうだ。むしろ外見的に動きが少ない分、準備運動するとか走り込むとかで身体を鍛える工夫が要求されるのではないか。健康と体力が溢れている人がじっと座っているからこそ美しく見えるのではないか。
ひとつの知識を得て実践努力することで身体だけでなく自分のあり方と見方がガラリと変わった。逆に無知、無経験の闇の深さに気づいたのでもある。無明が三毒の中でも根源的と言われる所以だ。坐禅についてさえ、文字どおり坐っているだけでは一面しか理解していなかったことになるだろう。肉体も頭もはつらつと動く者が静かに坐ってこそまともな坐禅たりうる。

何事も、出来なかったことが出来るようになるのは嬉しい。いたるところで前屈の練習をした。疲れたり身体の調子が悪い時は腰がよく曲がらないこともわかった。身体の調子を測るバロメーターになる。何度も繰り返すことが出来るのは達成感だけでなく快感があるからだ。快感を目安にして生きる人生があることを知った。
それまでは哲学と論理を頼りに生きてきた。理屈っぽかった。方法論を一つしか知らないから必死で論理にしがみついた。正邪善悪の判別ばかりを果てしなく繰り返した。白熱の議論を何度したことか。ふりかえってみれば、自分の生き方は、自分なりに思想、言葉、論理と正面対決した日々だった。
だが身体が柔軟になった体験の後では、すべてが違って見えてきた。論理学に柔軟性があるだろうか。言葉は柔らかく曲がったりしないから論理の学が成立し筋を通すことが当たり前になる。哲学も思想も論理で固めないと雑学の一種で終わってしまう。言葉というレンガを論理という鉄筋コンクリートで組み上げた思想を相手にした。硬直したイメージだけを信頼し、頼りにした。
奇しくも釈尊成道の夜に得た新知識は、根本的な人生観の変化をもたらすことになった。それは剛から柔へ、静から動へ、冷から暖へ、そして多分死から生への見方の転換であった。哲学の方法論は論理だ。柔動暖の方法論はあるか。それは快感であろう。快感を手がかりにより深い楽の方向に進んでいく見通しだ。
菩薩の修行階梯の中に十地があり、その第一が歓喜地である。五十二階梯の中では四十一番目に当たる。辞書には初めて中道の智を発し自利利他して大慶ある位とある。また菩薩が多劫の修行を経て一分の断惑証理を為し大に歓喜する位ともある。
快感に基づく人生観は歓喜地に近いのではないか。菩薩の位と凡夫の感じ方を一緒にすることはできない。境涯が全く違う。しかし一切皆苦で片付けられる人生でありながら歓喜の位がある。この事実は仏教が苦悩だけを語るのではないことを示す。堅苦しい哲学や思想だけを語るなら、それは歓喜地が語られる華厳経の思想を理解していないことになる。
澤木老師は常に言われたという。「菩薩とは仏の方向に智慧もて勇猛精進する凡夫である。」と。
智慧はわかる気がした。頭が良いという意味であろう。坐禅すれば頭が良くなるだろうと見当がつく。何が良いかは決めかねるが、何かが良くなる。だから坐禅する。より良い何かを求めてせっせと坐った。一時間でも休むと損した気がした。得るべき智慧を逃したという悔恨が残った。
しかし勇猛はどこから来るのだろうか。自らの見通しに自信がなければ不安ばかりで勇猛どころの騒ぎではない。仏教は無常の教えと言われ、事実無常を学び教えた。しかし無常とは原理として見通しが立たないことである。どんな見通しを得ても無常する、雲散霧消する。ということは無常観の反対が勇猛心の本ではないか。
この辺りが、無常は小乗仏教の教えであり、大乗仏教は常を本にすると言われる所以であろう。禅は大乗仏教に基づくし、澤木老師の教えはもちろん大乗である。華厳経は大乗経典であり、だからこそ生命の本の歓喜地が説かれた。勇猛心は歓喜地ありてこそ起こる心情であろう。歓喜地に一番近い凡夫の心が快感であろう。
われわれ仏教徒は無常に洗脳されすぎているようだ。幸福、成功、達成などは、たちまち断滅し、崩壊するとばかり聞いてきた。無常、無情、無力が仏教と思い込んできた。
常に基づく快感があれば凡夫にとっては頼り甲斐がある。行動が快感をもたらすと見通しがつけば近未来の計画が立てられる。身体をほぐしたりバチさばきを練習したりしながら快感に浸る。その契機は音楽でも、スポーツでも、仕事でも坐禅でもよい。苦から楽に至る方法があることが肝要だ。正常な生命は元来快にして楽だ。
自己も他己も生命は快感を本にして活動していると分かれば、自らの修行に躊躇逡巡する必要はない。苦から快へ、快から快へ、楽から楽へ精出し前進するだけだ。それが勇猛心ではないか。勇猛心はやがて無限の世界を解明し、甚深の生命を究明しようとするだろう。
菩薩に無知少知はない。少知に発するプライドを握りしめ、ときどき小さな新知の効果で人生観がひっくり返るような凡夫とは出来が違う。しかしというべきか、だからこそというべきか、菩薩なる理想像を凡夫が人生のモデルとして参照することは有益だ。特に大乗仏教徒にとっては。

 

 

ナンバ歩き

ナンバ歩き         06/23/2006

ナンバ歩きは古武術の甲野善紀氏が発見、広められた言葉で、江戸時代の人々の歩き方だということです。簡単にいうと、右足が前に出るときに右腕も前に出る。左足が前に出るときには左腕も前に振れるということのようです。江戸時代の屏風や絵画などを見ていて、現代人と歩き方が違うと気付いたそうです。
現代人は手足を交互に出して歩く。右足が前に出るときは左腕が前に出る。左足が出るときは右腕が前に出る。周りを見渡しても同じ歩き方ばかりなので、異なる歩き方があるとは思えない。ナンバ歩きの紹介は衝撃だった。
実際にやってみるとナンバ歩きはできるものじゃない。右足と右腕を同時に前に出すのは違和感が大きすぎる。意識して練習すれば慣れるかなと思ったけれど全くものにならない。ものにしたとしても得るものが何かあるのかどうか。歩き方が気になって落ち着きがなくなるくらいの変化はあるが。関連の本を読んでも、これがナンバ歩きだと銘打った見出しはあれど、中身はさっぱり説明できてない代物ばかりだった。
しかし江戸時代というのは剣術柔術をはじめとしてほとんどの国民が武術を嗜み、生きるためには大小の使い方は常識だった。内燃外燃機関はないから移動手段は徒歩か走りだった。飛脚などは想像もできない速さで全国を飛び回っていた。出発到着が記録されるから速かった事実がわかる。健康力が頂点に達していたのが江戸時代人だった。咸臨丸の乗組員の写真を見ると、全員姿勢が良い、面構えに鍛え抜かれた身心の気迫が溢れている。彼らの歩き方がナンバ歩きだというのです。
最高の歩き方がナンバ歩きだとは云える。しかしその実践はというと絵画に残っているくらいで、専門家の文章も全く的を得ないし、自ら練習するにも手がかりがない。知恵でも宝物でも、忘却とはこういうことなのか。復元すらできないほど吾々は貴重な江戸時代の知恵と力を失ってしまった。
真向法という伝統的な柔軟体操がある。中学生の時見ただけだったが、五十路で運動に興味を持ち出し調べて見た。実践している方は少なくない。基本的には四つの姿勢を繰り返し練習する。初心者にはもちろん難しい。開脚してお腹が床につくまで曲げるのが股割りで、一年でできるだろうと云われた。やってみると一年四ヶ月かかった。私の体は固かった。それでもできるようになったのは練習方法が確立されていたからで、伝統文化はありがたい。
真向法をした後で気がついたのは、歩く時腿がスッと前に出ること。考える前に太腿が前に出る。あるいは、立つ姿勢より歩く方が楽になる。地面を這うのでなくジャンプする歩き方になる。怠け者は動かずに立ったり座ったりしているけれど、働き者は動き回る。体が動くのが自然で楽しい。真向法の実践は怠惰と勤勉との分かれ目になりうる。
以上から推測できること。ナンバ歩きは右腕と右足の同時運進と考えたけれど、腕の質量と重量は脚に比べて歩くときは無視できるくらいに小さい。腕は後からついてくる。肝心なことは太腿がグイグイ前に出ること。働き者の江戸人にとっては、真向法も含めて、動き回ることが自然で楽しかった。その動き方を外から見たら体幹に腕がついていくように見えた。ナンバ歩きだった。
注:千代の富士関の股割り以外は危険で、専門書も怪しいと考えています。

団塊世代は諸悪の根源?

この世にブログなるものがあると気がついた頃だから三年ほど前になるだろうか、’秋せつら’氏の個人ブログを見つけた。社会経済政治と興味の範囲が広く、鋭いコメントが管理者の聡明さを表していた。一個人で多様な関心を持ちつつ、発信したり返答したりが可能なことに瞠目した。
様々な問題が取り上げられたのだが、団塊世代が死に絶えれば解決するという結論が多かった。諸悪の根源は団塊世代というわけだ。で、団塊世代に属する私はどうかというと、悔しいけれど九割がたは受け入れざるをえなかった。現在進行形でど真ん中にいるからわからないことが、後輩や外部から観察されると客観的に見られるようになるということか。苦い思いを交えながら毎日読んだ。
大衆団交したりゲバ棒を振り回す同級生に言ったことがある。「自己批判や総括という名目で若気の至りでおとなや社会を糾弾しても、お前たちが指導者の位についた時は同じように非難し返されるんじゃないか。建設は考えないのかよ」と。彼らは言った、「まず破壊しなければ出発点にも立てない。破壊ありきだ。」氏のブログは私が危惧した通りのことを発信されたのだ。
三年前には全く自覚しなかったのだが、団塊世代の問題は、直近の敗戦や占領政策だけではなくて、ウィルソンやルーズベルト一族のアメリカ支配、日本開国以来の欧化政策などと深い関係があるようである。アメリカの盛衰と日本の行く末やいかん。昭和220年の日本は。望んだわけでもないのに日本史が世界史にさせられる、考えなければならない問題だと思う。
閑話休題、言葉使いについて違和感を時々感じた。こちらが古臭くなっているのだろうか。例えば、グンクツガーだが、軍靴(グンカ)の音だろ。映画を見ていても、暖簾に手押しって、腕押でしょ。寝違えたは、ねちがえたではなく、ねたがえただろ。俳優はもっと言葉の勉強をしていると思っていた。手向けるは?

血の恵み

8月の終わり、となりの婦人から木を切って欲しい旨の依頼があった。1年ほど前に切ったものが転がされていた。冬になったらストーブで燃すつもりだという。
その頃は力仕事がなくてゴロゴロしていた。楽を求めるというより怠け癖が出てきたかと思う。手の甲が痛いとか左耳が不快だとか自覚症状が言い訳になって活発な運動をしていなかった。

薪を作る合い間に野菜を好きなだけ取るようにとも言われた。
早速チェーンソーを使ってストーブ用の長さに切り林を掃除した。大きな木は割った後で積み重ねるのだが、中太だったのでかなりの量があった。チェーンソーはただ刃を当てていればよいが薪割りは思いっきり斧を振り下ろして割ることになる。全身運動だ。1日2時間、五日間しか働かなかったが全力は出した。汗びっしょりで働くのは心地よい。そして耳の不快感が消え去っていた。全身が爽快そのものになった。

昨日友人と会った。病院に行くところだという。耳の不快感を話題にして汗びっしょり運動したら治ったと言ったら、医者に行ったかと聞く。医者に会ったら病人にされてしまうから行かない、暖かい血が最高の薬だと返した。そしてアメリカのことわざを付け加えた。薪は3度暖を取る。伐るとき、割るとき、ストーブで燃やすとき。それぞれにきれいな血が体を温め掃除する。